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疲れているときは、やさしくしてね

きのう、こんな記事を書いた。

さいきん、娘がイヤイヤばかり言っている、というものだ。ここ数日は、私の発する言葉にかぶせ気味で「いや!」「No!」が飛んでくる。

反抗期なのかな。私がいろいろと言いすぎなのだろうか。頭のなかでぐるぐる考えていたら、ハネサエ.さんから優しいコメントがついた。

ハネサエ.さんは、三人のお子さんをお持ちのお母さんでライターさん。彼女が書く文章はいつも愛がある(そして、子育ての臨場感満載でハラハラする)

娘ちゃん新学期で疲れているんだと思います。
確か新一年生でしたよね。
うんうん、すごく疲れると思います。
頭も体もフル回転で帰ってくるからテレビみてぼーっとゴロゴロしたいのかなー^^*
と思いました。

そうか、娘は疲れているのか。会ったことのない人が、文章ごしに感じられるほど娘のイヤイヤと疲れはリンクしているのか。なにかが、腑に落ちた。

「娘ちゃん、疲れているのかもねえ」

先週、夫とそんな話をしていた。私たちの暮らすニュージーランドでは、先週月曜日から秋休み明けの新学期がはじまったばかり。

学校疲れなのかなと感じたのは、ホリデー中にはなかった娘の「いや!」がちらほら見えるようになったからだ。

「疲れてる?」と聞いても、5歳児が「うん、とっても疲れてる…」と申告するのは珍しい。

基本的には、目覚めと同時にフルスロットで走り出し、眠るまで「ねたくない!」と元気いっぱいの娘だ。でも、思い返してみれば、「ねむくない!」「つかれてない!」「お風呂はいらない!」と、普段はできている日常生活に感情が走り気味になるのは、すでに疲れている兆しだったのだろう。

いつもそうだ。しまったなあと思う。

家庭内の「疲れ」の総量は、相乗関係で上昇しやすい。夫が連日勤務で疲れれば、家事育児負担が私の肩にのしかかり疲労度が増す。私が仕事で疲れれば、余裕のなさのしわ寄せは、いちばん弱い娘にむかう。

先週、日本はGWの連休だったがニュージーランドは通常稼働。ありがたいことに、連日仕事が入っていた。夫が奇跡の3連休を後半で取得したので、大きな波紋もなく乗り切れたと思ったのだが、娘の疲れを見過ごしてしまっていた。

「そうか、娘は疲れているのか」

お迎え前にハネサエ.さんのコメントを読んだ。

ならば、娘にやさしくしてあげねばならないと思った。

「やさしくする」のに必要なのはなにか。それは、まずもってして親の余裕だ。だから、私はその日の晩御飯を作らないことに決めた。

いまからご飯を仕込む時間はない。本日は娘は学童で、私は夕方まで仕事をしている。このまま帰宅すれば、「手を洗いなさい!」「足も洗いなさい!(娘はいつも裸足で帰宅する)」「テレビをそんな前でみないの!」「ごはん前におやつは食べない!」とイライラ小言をいうことになる。それは、やさしいとはいえない。

はじめから夕食戦線を放棄することにして、お迎えに向かった。校庭で友達と遊ぶ娘をみつける。「迎えにきたよ。帰ろう」と声をかけると「No!」の一言。でも大丈夫。いつもなら、夕飯づくりがあるから早く帰らないと…と焦りだすのだけれど、今日は余裕。なんたって、夕飯をつくらないことに決めたから。

15分ほど待って、ようやく帰る気になった娘を車に乗せる。「きょうはピザでも買ってく?」と聞いたら「No!」の一言。まあいいや。帰りしなに考えよう。夕飯を作らないと決めるだけで、こんなにも余裕が生まれるのかと驚く。

途中、ガソリンスタンドを通り過ぎる。併設されているコンビニを見た娘が、「あそこにいきたかった」という。いつもなら、「もう通り過ぎちゃったから無理だよ。遅いよ」と不機嫌に言い放つところだ。ひどい。イライラしていたら「娘ちゃんが早く決めないからだよ」と嫌味を付け加えてしまう。ひどすぎる。

でも、今日は余裕がある。娘が、帰宅前にどこかに寄りたいというので、回り道をして近所のショッピングセンターへ。そこで、ケバブを一つ購入。$10.50(約800円)。家に食材があるのに、無駄な出費であることには変わりない。でも、数百円で今日の娘に平穏を与えられるのならいいじゃないか。そう言い聞かせて、帰宅する。

やさしくするにあたって、一つだけ気をつけた。ふだんの生活から、逸脱しすぎないようにすることだ。

アイスクリームは、ご飯のあとなら食べてOK(ごはんの前はダメ)

ソファーでテレビをみるのは、ご飯のあと(ボロボロこぼすから、ソファーではご飯をたべない)

ご飯のまえに、手だけは洗おう(なんか足が黒いけれど、帰宅後すぐにシャワーを浴びるのは諦める)

毎日「これ」を続けるのはNG!ということだけは、やらないようにする。それ以外は、小言を言わずに目をつむる。正直なところ、黒く汚れた足を許容できるかはギリギリのラインだけど。

ケバブを半分に切って渡す。冷蔵庫から、いくつかの残り物を取り出す。娘は、ケバブを3口たべて「皮だけ食べたい」といった。いつもなら、「中身も食べなさい」という。でも今日は、中の具材は母が引き受けた。周りのトルティーヤだけをほおばる娘。

ご飯を食べたから、アイスを食べたいという。「アイスのあと、おなか空いてたらご飯食べるんだよ」とだけ言って、アイスをあげる。食卓にiPadを乗せてアニメを見ながら食べたいという娘。いつもなら、渋い顔をするところだけれど、一応ご飯も食べたので「いいよ」と渡してあげる。

娘がiPadでネットフリックスを見ている間、食卓を片付けて夫用にスープを作る。娘の様子をみてみると、半分ぼんやりしている。疲れてんだなと思う。

しばらくほおっておいて、「お風呂に入ろう」と誘う。いつもなら「No!」がかえってくるところだけど、素直に「うん」とついてくる娘。「手、つなご」と小さい手を伸ばしてくる。

湯船にお湯を張りたいというので、今日は特別だよとお湯を出す。シャワー文化なので、バスタブはあっても湯船につかることは少ない。10分そこら、おもちゃで遊んだ娘は、ほっぺたを真っ赤にしてお風呂から上がる。

髪を乾かしている間、娘は自ら宿題のリーディングブックを読む。歯を磨いて、ちょっとだけテレビを見る。10分くらいで「もう寝る時間だよ」と言ったら、絵本をもって寝室についてきた。

「ぞうのおおきな あしおとを かこう」

「あしおとって、なに?」娘がきく。「走るときになる音だよ。ぞうさんが歩いたらどんな音がする?」「うーん…ドンドン!!」

上機嫌で数冊の絵本を読む。絵本を閉じて眠る間際に、夫が帰宅する。ベッドから抜け出して、隠れたふりをして(バレバレだけど)夫を驚かせたあと、寝室に「抱っこして」と戻る娘。

お布団にもぐり、「ちょっとあったかすぎるねえ」と手だけ布団から出して、私にくっついてくる。5分もせずに、目をつむって静かな寝息を立てていた。

「イヤ」って言わなかったなあ。帰宅してからは、一度も娘は私の話を拒否しなかった。

たぶん、それは私に余裕があったからで、娘の「やりたい」をダメダメ言い続けなかったからだ。

疲れているときって、大人でも、あったかいご飯が用意されてたら嬉しかったり、やさしくされたらホッとするよねえと思う。ぼんやりとスマホを見て、ほおってほしいときもあるよねえと思う。

やさしくなかった最近の自分を顧みて、反省する。申し訳ない気持ちになる。でも、あんまり自分を責めるのはやめようと思う。だって、子どもを育てながら完ぺきな余裕がある生活を目指すのは、とってもハードルが高いことだから。

余裕をつくるために、毎日ご飯づくりをスキップするわけにはいかない。そんなに稼いでいない。お手伝いさんを雇う余裕もない。夕飯づくりの時間を短縮しようとなると、娘が不在の時間帯に仕込みを詰め込むことになる。

でも、私には仕事がある。家事だって、料理一つじゃない。余裕をもってやさしくしたいと頑張ると、いつしか余裕がなくなって爆発しちゃったりするのだ。ふしぎなことに。

娘が好きで替え歌にしちゃう映画の『The Lego Movie2』は、「Everything is not Awesome」(すべてが最高なわけじゃない)と歌う。

まさしくそれは人生そのものだ。すべての一日が、最高で終わるわけじゃない。上手くいかない日も、イケてない日もある。それでも、一緒なら楽しくなって笑えることもある。

疲れない日、なんてないのだ。みんながんばっているのだから。

だからこそ、部屋の壁に「疲れたら、やさしくしてね」と貼っておいて、家族の誰かがイライラぴりぴりしていたら、思い出したいなあと思う。

育児系のアドバイスは、するのにちょっと勇気がいる。

「こんなこと言ったら失礼かな」とか「余計に悩ませちゃうかな」とか。

相手の気持ちに共感できるけど、状況は人それぞれだ。言葉を発する前にそれが重荷になるかもと、飲み込んでしまうことも多い。ただ聞いてほしいの、というときもあるしね。

そういうちょっとした壁をポンと乗り越えて、やさしいコメントをくれたハネサエ.さん、どうもありがとう。おかげで、昨日のわたしと娘の心はとても穏やかでした。

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