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こどものいつかは消えてしまうけれど、忘れたくない言葉たち

子どもが大きくなるにつれて、見えなくなってしまうものの一つに、「言い間違い」がある。

「エレベーター」を「えべれーたー」とか言っちゃうやつ。

こういうのは「音位転換」とかいうらしく、いずれにせよ幼児の言語取得過程において発生するもので、周りが訂正してもしなくても、いつの間にか言わなくなるそうだ。

そういう、小さな人から大きな人へ成長する過程での、「幼児」を引きずった名残をみつけると、いまの私は、忘れたくないなあと思う。


先日のこと。だいたい毎朝、娘と一緒に起きる。

リビングとダイニングの電気をつける。リビングには、昨夜畳んだ洗濯物が、きちんと洗濯カゴにしまわれている。

自立した5歳児は、洗濯カゴから本日のお洋服を取り出す。

まだ眠い私は、エアコンのスイッチをいれてダイニングの椅子に腰かける。

外はまっくらだ。まだ眠い。昨日寝たのも12時近くだもの。20代は6時間睡眠で全然余裕!なんて思っていたけれど、30代子持ちのスペックだと8時間寝ないと充電が完了しない。

半分寝ながらぼんやりしていると、娘がなんか話しかけてきた。

みると、パンツ一丁で立っている。まだ着替えてないのか。寒いのに、なんで服着ないの。回らない頭の中でいろいろ言葉がまわったけれど、それが口からでる前に、娘がニコニコしながら言った。

「ねえ、おかあさん、このパンツ、大きかったけどさあ」

娘が履いているパンツは、おばあちゃんが日本から送ってきてくれたものだ。おばあちゃん、娘のサイズを先取りするので、だいぶ大きいものを送ってくる。身長100センチしかなかった頃、120センチのジャケットが届いた。着られるの、2年くらい先じゃないんでしょうか、と思いながら衣装ケースにしまっている。

パンツも、なんだかぶかぶかだった。それでも、新しいものは気に入って身に着けるのが娘。

言葉が出てこないのか、数秒の間があって、娘は元気よく言った。

「ぱっちりだよねえ!」

ぴったりか。ぴったりっていいたかったんでしょ。

心の中で突っ込んだけど、かわいいからそのままにしておく。

だって知っているもの。いつの間にか、全部正しく使えるようになってしまうこと。

けれど、言い間違いを「なおさなきゃ」と気にせずにいられるのも、「かわいいなあ」と微笑ましくみていられるようになったのも、つい最近のことだ。

言い間違い全盛期だった2歳~3歳の頃は、その可愛らしさをじんわりと堪能できなかった。

蚊にさされたを、「かににさされた」という娘。違うよ、「か」だよと、何べんも訂正していた。ニュージーランドで生まれ育つ娘が、日本語を使うのはほぼ家庭内だけだ。どこかで、「親の私が正しく教えてあげなければ」と焦りがあった。

この時期特有の子どもらしさを、「かわいい」と感じる余裕というか、余白が私にほとんどなかったというのも関係している。

子育てで感じる大変さって、本当に人それぞれだ。だから、誰が一人の辛い気持ちを聞いて、子育て全般をひどく苦しいものとイメージづけないほうがいいと思う。

そう前置いたうえで、世の中の子どもを持つ人たちを、『全国高等学校クイズ選手権』のように、「子育ては苦しいか苦しくないか?はい、どっち?」と2グループにわけるなら、あの頃の私は、まっさきに「苦しく感じる」のほうに歩いて行ったはずだ。

食品が入っている棚をバンバンたたいて、「ここ!ここ!」と叫ぶ娘。「なになに、なにがほしいの」と音のうるささに眉間にしわをよせながらやってくる私。

「これー!これー!」と大声で指さす娘に、ごちゃっとした乾物の中からコーンが入った袋をとりだす。「ぽっぽこーん!」お目当てのものが見つかって、二カッと娘が笑う。そこに、ぷっと吹き出すような心の余裕はない。(ポップコーンマシーン、棚からださなきゃ…)と、一つ増えた雑事に軽くため息すらつく私がいる。

あれが、あの頃の私のリアルだった。

いま、当時の写真や動画を見返すと、記憶のなかの娘よりも、何倍も可愛らしく愛おしく、小さな娘が微笑んでいる。そこに、確実に見落としてしまって、もう二度と出会えない何かがあることを知って、すこしだけ胸の奥がぎゅっとなる。

あの頃の娘が話す言葉に、じっくりと耳を傾けて、その可愛らしさを書き残しておきたかったと思う。でも、それは無理だ。見えていなかったことを、形にするなんて不可能なのだから。

そして、当時の私が立ち止まる余裕がなかった理由も知っている。いまよりも細切れで短かった睡眠時間。みえない収入への不安。日常に降り積もる、薄っすらとした夫婦のイザコザ。5歳児と比較したら赤ちゃんみたいな、何倍も手がかかる娘。

なにかが違えば、もっとゆっくり娘と向き合えたのかもしれない。この言い間違いが、いつか消えてしまうと知っていたのなら、焦らずに楽しくお話できたのかもしれない。

けれど、「子育てが苦しいグループ」にいた私は、「いまだけだから。子育てを楽しんでね」と過去の私にボールを投げつけるようことを、言えない。

だからいま、ほんのちょっとの後悔を抱えながら、気づいた忘れたくない言葉を、ここに書き残しておく。誰のためでもなく、ただ、私のために。


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