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8分間のサマー・トレイン #あの夏に乾杯

いつもと同じ夏が、過ぎ去ろうとしていた。

量販店で買ったマキシ丈ワンピースが暑さで足にまとわりつく。

結婚して10年、娘を産んで6年。ここ数年は、8月の終わりに実家に滞在するのが恒例となっている。私と娘が3日ばかり早く帰省するスタイルで、夫は後から合流。もちろん和平協定のもと、義実家に行くときは役割を交代する。

神奈川県の真ん中に位置する実家の周辺は、正直なんにもない。暇を持てあまして、3駅先のショッピングモールに娘を連れてきた。

映画に公園、プールにかき氷。子どもと過ごす夏は、退屈と新鮮が同居している。娘のふとした成長に目を細める一方で、何も変わらない自分を思う。夏が輝いていたのは、いつの頃だったか。モールに流れる恋を歌ったヒットソングが異国の音楽に聴こえる。

「きょう、パパに会えるの?」

買ったばかりのピンクのサンダルを履いて、娘がぴょんぴょん跳ねた。

「そうだよ。急がなきゃ」

本日合流する夫から『横浜を出る』と連絡が来たのが20分前。実家の最寄り駅で落ち合う予定だ。

LINEの報告写真によると、昨日夫は「じっくり玉ねぎを炒めたハンバーグ」をのんびり作り、海外ドラマを満喫したらしい。平和な独り時間を楽しんだようでなにより。

汗で湿った娘の手を取り、久しぶりの、でも見慣れた改札をくぐる。相鉄線始発駅の海老名。横浜まで続く路線は通勤時は混雑するが、いまは平日の夕方。人影はまばらだ。

車両にも乗客が二人いるだけ。乗っている時間はたったの8分。この様子なら、娘の行動に神経を尖らせなくても大丈夫だ。

発車ベルが響いてドアが閉まった。ガタン、とホームから滑り出した電車の窓のむこうに、暮れゆく夏の空がみえる。うっすらと一日が終わる色に染まる夕暮れ。高校生の私が飽きるほど見た街並みだ。あの日も、こんな空の色だった。

ガトン、ゴトンと流れる景色に、20年前の夏の記憶を重ねてしまう。

***

あの日、私は15歳だった。高校生の夏休み。8月の終わりに部活のみんなで買い出しに行く約束をした。そして「みんな」の中に、私の好きな人がいた。

学校じゃない場所で気になる先輩と会える。たったそれだけのことで、私の胸は高鳴った。白いTシャツに、小花柄のキャミソールワンピース。お気に入りを身に着けて少しだけ早い電車に乗り、待ち合わせの海老名駅へ向かう。

セミの鳴き声が響く午後1時20分。改札の向こうに、彼の姿だけが見える。

携帯を持っている友だちは半分もおらず、SNSという言葉すらない。誰が遅刻するかなんて、リアルタイムでわからない時代。きっと先輩は、部長だから早く来てる。そう考えた私は、好きな人の側にいたくてわかりやすく打算的だったと思う。

一瞬だけの二人きりの時間。頬の赤さを、真夏日のせいにした。

続々とほかのメンバーが到着する。スポーツショップで買い物を済ませ、マックで延々としゃべり気がつくと解散の時刻に。

その日、とっておきの幸運は、海老名から横浜方面の電車に乗るのが私と先輩だけだったこと。私は3駅目で降りる。先輩が降りるのはその2つ先。

車内はガンガン冷房が効いているのに、先輩の隣に座る私の肌は熱い。

二人きりだ。いや、正確には夕暮れの車内にまばらな人影はある。けれど、心臓の鼓動と格闘する私の目には入らない。世界が、私と先輩と、二人だけだった。


「あのっ、好きな人、いるんですか?」

吸い込んだ夏の匂いが、私を少し大胆にさせる。動き出した電車で告白する勇気は、微塵もない。ただ、先輩に好きな人がいるのか知りたかった。

「うん、まぁ……いるけど…」

世間話からの急なシフトチェンジに、先輩はあいまいに笑ってくれた。

「そっちは? どう、なの」

思わぬボールに「目の前にいます!」とは到底返せなくて、はい、まあ、私もいます、とごにょごにょと返事をする。電車が一つ目の駅に到着した。でも、誰も乗ってこない。

「おなじ部活、だったりします?」

もしかしたら、あの人のこと好きなんじゃないですか。

私の頭には、練習中も先輩の隣に高確率でいる女の人が思い浮かんでいた。おまけに先輩と同じクラスで。部活の帰り道だっていつも一緒に歩いている。

「うん、おんなじ部活」

それなら。

「それって同い年ですか?」

こらえきれなかった言葉が口から飛び出すや否や、私は猛烈に後悔した。

答えが「同い年」なら、私の失恋は確定する。きっと先輩が好きなのは、あの人だ。部内に先輩の好きな人がいるという事実に高揚して、とんでもないことを口走ってしまった。

いつの間にか電車が二つ目の駅についていた。私が降りるのは次の駅。もう、何も聞かずにこのまま消えてしまいたい。

3秒だったかもしれない。30秒だったかもしれない。永遠に感じられる沈黙があって、隣から先輩が意を決したように息を吸う気配がした。

「……年下、です」

背景に花が飛び、天からファンファーレが鳴ったかと思った。ぶわっと気持ちがあふれそうになって横を見ると、彼も顔を赤くして照れるように口元を押さえている。

「そっちは?…どうなの…?」

期待に満ちた鼓動が、早く言えよ、と私にけしかけてくる。

「……年上、です」

先輩より年下の部活メンバーの女子は、私をいれて5人。好きな人と両想いになれるなんて、天文学的な奇跡だ。奇跡を確かめるには、ただひとこと。

でも、言えなかった。心の準備ができていない。もしかしたら違うかもしれない。私じゃないかも。そしたら終わってしまう。この、胸がしめつけられるような甘い時間が。

思考回路が高速で巡る間に、電車が三つ目の駅にたどり着く。蒸し暑さの残る外に開け放たれたドアが、私を待っている。降りたくなかった。ずっと彼の隣に座っていたかった。このままドアが閉まって、終着駅まで一緒にいれたら。

15歳には出すぎた願いが浮かんだ次の瞬間、門限に厳しい母親の顔が思い出されて、私はパッと席を立った。

「あ、じゃあ、また新学期に!」

すり抜けるように電車を降りて、背中でドアの閉まる音を聞く。ほんの少しの望みを抱いて振り返ったけれど、先輩を乗せた電車はもう黄昏に向かって走り出していた。

夏の空は澄んでいて、オレンジとネイビーブルーの薄い膜が全体を覆いはじめる。たった3駅の間に、世界がすっかり様変わりしてしまった。体にまとわりつく湿気も、信じられないくらい熱い頬も気にならない。陸橋の上に浮かぶ一番星がやけに美しく見える。

***

「ママ、みて」

娘の声に我にかえると、ちょうど降りる駅のホームに電車が滑り込んだところだった。娘の手を取り、忘れ物がないか確かめながら電車を下りる。浴衣姿の女の子が、赤い鼻緒のゲタを鳴らしながら通り過ぎていく。

「お祭りがあるの?」

娘がキラキラした目で見上げてくる。

「そうね。でも遠いよ」

掲示板に張られた花火大会のポスターが目に入った。先輩と一緒に花火を見たのは高校2年生の夏だ。

あの日、電車から滑り降りた私は、まだ知らなかった。あのとき先輩が、私と一緒に電車を降りるか迷っていたこと。新学期がはじまってすぐの秋、帰り道で先輩から「好きです」と告白されたこと。何度も数えきれないくらい、この駅に一緒に来たこと。

ただ、知らなかった。

やがて遠距離恋愛で彼の声を受話器越しに聞くさみしさも。その恋が、高校3年生の夏に終わってしまうことも。

「パパ、もう着いたかなあ」

3日ぶりの再会に胸を膨らます娘と駅の階段を登る。スマホにちょうど『ついたよ』と、猫のスタンプが送られてきた。

もう、メールの通知に心臓が飛び上がることもない。数日離れたって平気だ。社会人になって知り合い、たしかに恋で結ばれた夫なのに。家族の愛はある。けれど夜空を見上げた胸を焦がすときめきは、遠い遠い日の花火になってしまった。

改札の向こうで、見慣れた姿の夫が手を振っている。数日育児から解放された夫は、心なしかスッキリした表情だ。

「無事に着いたね」

パパー!と突進する娘を抱き上げようとする夫の手から、細々した荷物を預かる。紙袋の中で、カチャンと瓶が重なり合う音がした。

「何これ?」

「あ、クラフトビール展で買ってきた。横浜でやってたから」

IPA―インディア・ペールエールの文字が飛び込んでくる。苦くて、はじめは飲めなかったビールだ。ある日、夫が作ってくれた特製カレーと合わせたら、苦みと辛みが絶妙にマッチして。それ以来、夏の我が家の定番になった。

「お義父さん好みのやつも買ってきたし」
「炒めた玉ねぎも持ってきたから、カレーにしよ」

なるほど、紙袋に保冷バックが入っているのはそういうことか。パパのカレー大好き!と、地面に足をつけた娘が躍り出す。

育児に家事に仕事。私たちは、あまりにも日常を生きすぎている。夫婦の間に、ロマンティックが入り込む隙間がない。でも、苦いビールの味わいは、あなたが教えてくれた。そして、秘密の遊びのようにふたりで見つけた楽しみを、私はいくつも知っている。

「それ、好きでしょ」

あの日、夏の電車で感じた胸の鼓動は、ほんとうに遠くなってしまったのだけれど。

歩き出した夫の左の手に娘が絡まっている。空いている右の手を、そっと取った。おやめずらしい、という目で夫が私を見るものだから、心の中で好きだよと言って笑った。

「夏だね」


あの夏が甘く、眩しいのは、大人になったからだ。必死で恋のきらめきを見つめていた10代、夏はときに切なく、ときに苦かった。

きっと、胸が締め付けられる私の夏はもう来ない。それでも、積み重ねてきた日々は気まぐれに愛しさのスイッチを押してくれる。手のひらから伝わるやわらかな温もりに、ここにある大切なものを思い出す。

恋とは無縁の着古されたマキシ丈ワンピースの裾を、ひとすじの風が軽やかにゆらす。

苦いビールを味わう、とびっきりの夏料理を食卓にならべて今夜は乾杯しよう。

変わりばえのしない夏が、終わろうとしている。陸橋から、遠くに消えゆく電車が見える。夕陽が夜に落ちていくなか、三人の後ろ姿を見つめる一番星は、あの日に負けないくらい美しく輝いていた。


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