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教育に「厳しさ」はどれくらい必要なのだろう

学校で過ごした子どもの頃を思い返すと、わりと厳しい環境だった。とくに小学校から中学校にかけて。

行儀正しく60分座るとか、チャイムぴったり全員席につくとか、教科書を机に置きっぱなしにする置き勉は禁止ですとか。ルールが守れなかったら、おわりの会で反省会、ときには学年集会。いや、それわりと当たり前じゃん、と同世代の人から言われるのかもしれないけど。

協調性を重んじた行動をとるのはまったく苦ではなかったのだけど、周りに合わせて生きてきた反動なのか、社会人4年目でえいやっとニュージーランド(NZ)にきてしまった。以来、この国で暮らしてもう10年になる。

娘は、この国で生まれた。NZの教育システムは、5歳の誕生日から小学校に入学できる。娘が学校というものに通いだして、ようやく半年が過ぎた。

私自身は、日本で生まれ育ち日本で教育を受けている。NZで通った学校といえば、語学学校に数週間ぐらい。だから、実際にどんな風に授業を教えているのか、先生がどんなふうに子どもたちに話しかけるのか、断片的にしか知らない。

それでも、日本での学校の記憶と照らし合わせると、「なんだかだいぶ違うぞ」と感じる。

話は2週間ほど前にさかのぼる。

4学期制を導入しているこの国では、なんと学校は年に12週間もお休みだ。12月半ばから1月いっぱいは長い長い夏休み。4月、7月、10月にそれぞれ2週間のおやすみがある。

4月末の秋休みを終えた新学期の初日。私は、娘が学校にスムーズにいけるかなあーどうかなーと考えていた。

というのも、娘は少々寂しがり屋さん。マミーガール、とこちらでは小さい子を指して呼んだりするけれど、お母さんがいないと泣いてしまうときがある。

夏休みが明けた2月も、教室まで送り届けるたびに、「いっちゃいやー」と母にしがみついていた。それからだいぶ慣れて、笑顔で手を触れるようになったんだけどなあ。秋休みをはさんじゃったしなあ。この学期はどんな感じかなあと思いながら、校庭を通り過ぎて教室へ向かう。

見慣れたお友達の姿が目に入っても、娘の表情はちょっと固い。お気に入りのユニコーンの人形を握りしめて、記憶とたしかめるように周りを見ている。

ジリリリリ

9時の始業ベルが鳴った。校庭や教室で遊んでいた子どもたちが、マットプレイスとよばれる各自の定位置に座る。ちなみに、朝の会を床に座って行うのがNZスタイル。教室にグループで使える大きい椅子やテーブルはあるが、固定の席はない。

「おかあさーん」としがみついてくる娘。

しゃがんで目線をあわせると、小声で「学校いきたくなーい」と言っている。

まあ、2週間のお休みのあとだもんね。リズムも崩れるし、久々に会うお友達ってのはドキドキするよね。

急かしてもしょうがないので、娘のそばに座ってしばらく待つ。教室には20名弱の子どもたち。親は、私ひとり。担任の先生は、教室の隅でなにやらほかの先生と話している。

私のパーカーのジッパーを上げ下げして遊ぶ娘。気持ちがちょっと落ち着いたのか、笑顔を見せ始めた。これなら、大丈夫かな。

先生が話を切り終えたタイミングを見計らって、「じゃあね、またね」と娘にハグをする。ついでに「I love you」とキスもしてあげる。

予想通り、立ち上がった私の後ろを娘はついて来ようとしたのだが、やってきた先生に「つかまえた!」と抱きしめられていた。

そのまま先生の膝の上に座り、バイバイと私に手を振る娘。去り際に振り替えると、ニコニコ笑って先生となにやら話している。このあとの朝の会では、きっと先生は娘を膝の上にのせながら点呼をとるのだろう。

娘は5歳半だから、日本でいえばこの春から年長さんだ。幼稚園でこんなふうに「おかーさーん」って言ってたら、「うちの娘は、ずいぶんと甘えん坊なのでは…」と過度に心配する自分が思い浮かぶ。

すらっと商品が前を向いて並んだ陳列棚や、使う人のことを細部まで考えられた多彩な文房具などをみると、「日本だなあー」と思う。人口の層が違う、というのはもちろんあるけれど、一定レベルまでこだわるという一種の厳しさが、日本らしい整然さを生み出していると感じる。

人口6万人しかいないNZの地方都市に住んでいる身からすると、日本の技術の高さに舌を巻く。でも、ちょっと疲れる。厳しさが周りにまとわりついて、「できる」を要求され続ける環境が、苦しいなと思うときがある。

先日、久しぶりにその苦しさを感じた。娘の語学学習のために、受講している日本の幼児向け通信教育。この春の4月号に、「おうちの方むけ」の冊子がついてきた。めくると、「小学1年生にむけた準備」がずらっとかかれている。

時計を読めるようになること、早寝早起きのリズムを整えること、ひらがなやカタカナ……

うんうん、どれもスムーズに小学校生活を送るには必要なことなのだろう。でも、入学まで1年あるぞ。たしかに、子どもに教えたり、生活リズムを整えるのは急がないほうがいい。時間が必要だ。前もって備えるのは、とっても大切なことだ。でも、この冊子を見て感じるチリチリとした焦りはなんだろう?

日本にいて、冊子をよむ私を想像する。「できる項目」には安堵して、「できない項目」を見つけたら不安にかられる。できない娘の姿を見て、やきもきするかもしれない。やる気を出させようと「がんばろうね」と声をかけるかも。そのとき、できない娘は、どんな気持ちになるだろう。

個別の事象だけで、主語を広げて良し悪しを比較するのは難しい。子どもの教育という話なら、環境に合うか合わないかのほうが大事だと思う。

私自身の経験からNZの教育を比べると、この国は甘い。甘々だ。でも、悪くない。ちょっと臆病な気質の娘に合っていると思う。

NZの教育の緩さは、いい面もあれば問題点もある。娘の学校は、わりと自由奔放な校風なので、先生にきかないと情報が入ってこない。入学して半年たつけど、個人面談がまだないので、相対的な娘の学力(カリキュラムに対する習熟度合い)は、わりと謎のままだ。

熱心にできる科目は伸ばせるけれど、やらない科目はかなり低いレベルでとどまる可能性も高い。

だからほんとに、この国のことを絶賛したいわけじゃないんだけれど。

でも、幼少期に肯定を全面的に押し出してくれる教育はいいな、と思う。クラスの中でただ一人、朝の時間にすんなり母親と離れられない娘を、「甘えんぼさんねえ」と「できない子」扱いするのではなく。「ホリデー中になにした?」と別の話題を振って気分を切り替えてくれる。

文字が読める、足し算ができる、お片付けが上手、朝の会でちゃんと手を挙げて発言する。もうできると、まだできないは、子どもによってさまざまだ。その違いや差を過度に指摘するのではなく、できるように大人が導いて、待ってくれる空気がある社会のほうが子どもは安心できるんじゃないだろうか。

タイトルの「答え」がここにあるわけではないのだけれど。

半年間、先生にやさしくされた娘は、今週から急に「バイバーイ」とあっさりお別れできるようになった。教室に荷物を置き、親にぎゅっとハグすると、一目散に友達のもとへ走り出していく。

あんなに、「おかーさん」ってべったりだったのになあ。さみしくなんかないですよ。娘が、甘い教育に安心をもらって、この手から一歩ずつ離れていくのを見るのは、とてもうれしい。

友達の輪に混ざり、小さな娘が見えなくなった。ほんと、さみしくなんかないんだって。


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