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たぶん、きっと、これは愛

子どもというものは不思議なもので、日に日に成長するはずなのに、親目線で毎日「大きくなったなあ」とは思わない。

ふとした瞬間、「あ、大きくなってる」と気づく。

届かなかった棚に手が届くとか、背伸びしてのぞき込んでいたダイニングテーブルを見下ろしているとか、その瞬間はいくつもある。なかでも私が好きなのは、バスタオルで拭いてあげるときに気づく背の高さだ。

お風呂から出てきた娘の、濡れた体を拭いてやる。おぼつかない足取りの2歳のころは、まだまだ小さかった。娘の目線と、膝をつけてしゃがんだ私の目線が同じ高さになったのは2歳半頃だっただろうか。

それからたくさんの、「あ、大きくなった」を積み重ねた。

いまはもう、しゃがんだ私が見上げるぐらいだし、娘が自分で拭いて母の手は借りないなんてこともある。

6歳間近になると、ずいぶんと大きくなったなと感じるが、これが小学校で他の子と混ざると、とても小さい(ニュージーランドは、5歳から小学校に入学する)。最高学年のYear6の子と比べたら、娘はてんで「幼児」だ。

この間の全校集会では、「がんばったで賞」を受賞した娘が、他のクラスメイトと前に一列に並んだのだが、一番ちいさくてその姿がかわいらしく、見ている私がニコニコしてしまった。

私は、遠くから娘の姿を見るのが好きだ。

たぶんそれは、彼女の本来の「大きさ」がわかるから。

とくに娘が夫と並んで少し先を歩いているとき。夫との身長差もあって「こんなに小さいんだな」とその後ろ姿に思う。そうやって見る娘の姿は、私の横で手をつないでいる視界とは違う。

量の少ない髪の毛も、ほそい足も、夫の手に包まれている小さな手も、離れているからこそ、よく見える。

いまは「普通の生活だ」と思えるくらい落ち着いているが、娘が2歳~3歳ぐらいまでは大変だった。育児の大変さと自営業の忙しさにフルボッコになり、精神的疲労も半端なかった。

あの頃よく思い出していたのが、くわばたりえさんの『しんどいよな』というタイトルのブログ記事だ。2012年の記事だが、コメント欄を見る限り、つづられている率直な親としての気持ちに、今なお共感する人が多いのだと思う。

怒涛の日々のお世話、子連れへの厳しい周りの視線、どん底にいるしんどさを理解してもらえないやるせなさ。くわばたさんは、「最低な親」にならないために手抜きをするという(手抜き、超大事)。

この記事の最後にある、「子どもを抱きしめる」ということ。それは、当時の私にとって、娘の小ささをこの手で確認するためのものだった。

いくら、自我をもって嫌と主張していても。お話ができるようになって、こちらの話を理解していても。この子は、まだこんなにも小さい。

大人が大きな声で怒ったら怖かろう。怖い顔をして立っていたら悲しかろう。この子は、まだこんなに小さな守られるべき子どもなのだと、しんどい生活の折に触れ抱きしめて、自分自身に言い聞かせた。

母の愛は、こんこんと湧き出る泉なんかじゃない。余裕がなければ、あっという間に枯れる。

抱きしめて、私のなかの娘への愛情の輪郭を探っていた。泣き声もイヤイヤも、すぐに愛を見えなくしてしまうから。


娘はもうすぐ6歳になる。身体能力は右肩上がりで、飛び降りるわぶら下がるわ、とても元気だ。読み書きもできるし、足し算も披露してくれる。オヤツの時間をきちんと守ることもできる(たまに、たくさん食べようとするけれど)。

でも、まだ小さい。この先、すこやかに大きくなっていくために、たくさんの愛が必要だ。

娘がふざけて私のパーカーを着たら、びっくりするくらいブカブカだった。大きくなったのに、まだこんなにも体格差があるのかと、服に埋もれるような娘をいとおしく抱きしめた。

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