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「オヤカク」ってなんでするんだろう。親の気持ちをまじめに考えてみた

先日、Twitterに見慣れぬ言葉が流れてきた。

「オヤカク」

内定者の親に対して、企業が入社してくれるかを確認することをそう呼ぶらしい。発信元のNIKKEIさんによると、中小企業ではオヤカク(親確)は当たり前だとか。

10年ほど前、私が人事の仕事をしていた頃も、似たようなサービスがあった。それは、親の反対で内定辞退にならないよう、親を招待して説明会を行うという内定者フォローだ。

オヤカクの裏側には、二十歳を過ぎた子どもの決定に、親がいくばくかの主導権を握っていることを示唆している。ふむ、それって、どうなんだろう? 

NIKKEIさんが「意見を募集します」と書いていたので、せっかくの機会だから、私が親だったらどうするかを考えてみた。

そもそもの「オヤカク」の実態

子どもの就職先に、口をだす親。

それだけ聞くと、毒親みたいな支配欲の強いイメージが思い浮かぶ。実際のところはどうなのか。NIKKEIさんが、オヤカクを経験した人々に取材をしていたので、まず読んでみた。

ここで紹介されているのは、以下のようなケースだ。

●親の「介護のため遠くに行ってほしくない」という要望で、転勤アリの有名メーカーの内定を辞退し、年収が100万円ほど低い地元企業に就職を決めた理系学生
●「営業のきつさ」を心配され、全国転勤あり年収高の企業ではなく、地元仙台の企業への就職を進められた宮城県内の私立大学の学生
●ベンチャー企業でインターンをして就職を考えていたが、親から「大手も受けたほうがいいのでは」と勧められ就職活動をした学生

親側の気持ちとしては、「地元に残ってほしい」「きつそうな会社で働かないでほしい」「大手で安定しているところに働いて」というところだろう。いってみれば、子どもを心配している。

記事本文にもあるように、子どもの将来を思って口を出したくなる気持ちは、親ならば誰でも持つものかもしれない。

けれど、いくら心配とはいえ、二十歳を過ぎた、しかもこれから社会に出る人間の進路に親が口をだすのは、個人的にはやっぱり違和感がある。違和感がある、けれども――私だって、ほんとうにしないと言い切れるだろうか?


もし、娘が「親の想像外」の道に進んだら

ここで我が家の家族構成を説明しておこう。

私は、日本人の夫と結婚し、ニュージーランドに住んでいる。5歳の娘は、生まれも育ちもニュージーランド。外では英語を使い、家庭内でのみ日本語を話す。

このままいけば、娘が日本で就職する可能性は低いだろう。

ただ、イギリスやオーストラリア、どこかの英語圏に飛び出していってもおかしくない。

海外に出ていく娘を応援する。それは、なんだかとても子を尊重している親のように思える。でも、待てよ。ふと考える。娘が海外に飛び出していくことを「良し」と思えるのは、私がそれを想定しているからだ。

私も夫も、日本を飛び出して異国にきた。だから娘が同じことをしても、ちょっとは驚くかもしれないけれど、「自分たちの子だな」みたいに受け止められる。

でも、娘がこの小さな田舎町で就職すると言ったら? 高校を卒業してすぐに結婚すると言ったら? 「ち、ちょっと待って」と動揺しないでいられるだろうか?

ニュージーランドの義務教育は、16歳まで。Year11(高校1年生)を修了して、地元のカフェで娘が働きはじめたら、「大学にいったほうがいいんじゃない?」と口を出してしまうんじゃないだろうか。


不安の種は、「知らない」こと

それだけじゃない。海外に飛び出すといっても、その行き先が親のまったく知らない国という可能性もある。

国名はきいたことがあるけれど、治安は大丈夫? 病気とかしない? 言葉は通じるの? そんなマシンガンみたいに質問が飛び出しそうな進路を選ぶかもしれない。

国だけじゃない。娘が就職するのは、15年近く先だ。いまからさらに、産業構造は変わっているだろう。

15年前の2004年、私がハタチの頃、Airbnb(2008年設立)もUber(2009年設立)もなかった。いまや、誰もが持ってそうなiPhoneが発売されたのだって2007年。あって当たり前のアプリを開発する会社だって、それまではなかったことになる。

これからも新しいビジネスが出てくるだろう。娘の就職先が将来有望な最先端のスタートアップ企業でも、親の私は知らない可能性が十分にある。

そうなったとき、知らない不安から、娘に「その会社、大丈夫なの?」って聞いてしまいそうな気がする。


子どもの決断を信じるために、親ができること

冷静になって考えてみれば、私自身、娘の進路に口出す可能性がとてもありそうだ。

娘が決めた就職先に口を挟まないために、彼女の意思決定をゆがめてしまわないために、なにが必要だろう。たぶん、娘を信じることだ。それには、私と娘の間に、信頼を積み重ねていかないといけない気がする。

まだ娘は5歳。大げさなものじゃなくていい。たとえば、日常のなかの小さな選択を、娘に選ばせる機会を意識的に作ってあげる。朝ご飯でパンとごはんどっちを食べる? 今日はどこの公園に行く? という具合に。

なにかを選べる、というのはうれしい。そして、選んだものを「いいね」と褒められるのは、「まちがってないんだ」と自信につながる。

もう少し大きくなれば、選択は複雑になるだろう。習い事を続けるかやめるか。授業で選択する科目は。夏休みのアルバイトをどうするか。その都度、情報を集め、一緒に考える。決定の主導権は、もちろん娘にある。

考える過程で「お母さんはこうしたらいいと思う」「こういう選択肢もある」と伝える。そのとき、娘の気持ちもちゃんと聞く。意見をやり取りすることで、親が口を出す=反対ではないと娘に感じてほしい。

親の保護下にある年齢からでも、主張した先に自らの望みが叶う。そんな経験を、娘に積み重ねていってほしい。

就職活動や受験において、「親は見守るべき」だ。でも、大きな決断を黙って見守れるのは、その後ろにいくつもの小さな決断を見守った経験があるから。

そうやって親と子、互いの意見をやりとりするなかで、信頼の橋をかけられるんじゃないだろうか。


「間違っても大丈夫」と、思える社会なら

私自身、子どもにずっと近くにいてほしい気持ちはない。だから「地元で就職して」という親の気持ちはわからない。もちろん家庭の数だけ、「家庭の事情」があるだろう。共感するのは、大切に育てた我が子をブラック企業に搾取なんてされてたまるものか、という親心ぐらいだ。

でも、それでも。親は、子どもの人生をかわりに生きることはできない。親の意志に従って、子どもがやりたい道をあきらめたとき。何年か経って、「あれは間違いだった」と子ども自身が後悔したとき。親は、なにもしてあげられない。

そういう意味で、親が子どもの意思決定に口をはさんで、就職先を変えてしまうのは私は反対だ。したくない。でも、15年先を想像したら、してしまうかもしれない。

社会人になってはじめて、子どもが巣立つわけではない。くっついたり反発したりしながら、子は外の世界でも大丈夫という自信を育てていく。小さな選択と迷いと決断を繰り返し、親も子も、年齢にあわせた適切な距離を保てるようになる。

そうしたら、いざ子どもが就職先を選ぶとなったとき、「あなたなら、大丈夫」と親は笑って背中を押せるし、もし心配でアドバイスすることがあっても、子は親の意見を聞きながら、「それでも私は」と自ら決断できるのではないだろうか。

まあ、現実の日々の生活は思い描くようにはいかないのだけど……昨夜も「洗濯物をたたむ」という娘の意思を尊重したら、収納ケースをひっくり返しすべて畳み直す大仕事をはじめてしまい、私はぐったりした。


「選ぶ」ことは生きている限り付きまとう。どうか娘には「この道を選んで大丈夫」という自信をつけて大きくなってほしい。あと、願わくば「間違っても大丈夫」と思える社会であってほしい。

就職先にマッチしなかったら、別の働く場所を見つけられる。新卒で選んだ道が人生のすべてではないと、みんなとっくに気づいている。私が就職した13年前とくらべても、働く選択肢は増えた。

やわらかい社会であれば、オヤカクなんて必要とせず、外の世界にむかって若者は飛び出して、親はそれを静かに見守ることができるんじゃないかな、なんて思ったりする。



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