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ひとりでも、さみしくない

海沿いの街に住んでいる。といっても、家から海が見えるロケーションではない。我が家は、海から内陸に数キロ進んだところにある。なので、家にいると海の気配は感じない。

けれども、街(とよばれるお店が集まっている中心地)は海から数百メートルの場所にある。海沿いは、舗装された散歩道が延々と続く。カラフルな遊具が整備された公園もある。休憩にちょうどよいアイスクリームショップもある。

一部を埋め立てられたこの海は、急激に深くなる。だから、視界の180度を占有する海外線のほとんどは遊泳禁止。陸から釣りを楽しむ人の影はまばら。

それでも、この街に住む人は海に寄り添いながら生きている。


「海なんて退屈だよ」と言っている人を見たことがないように、私も海が好きだ。海の中に入るというより、海を眺めているのが好きだ。

波が寄せて返すたびに、姿を変える海。光を受けてきらめく青と、雲がかかって深く暗く見える青。目の前に広がる海の全貌を、一瞬で瞳におさめることはできない。

波の色と海に引き寄せられる砂粒。海岸に打ち上げられた流木と昆布に、空を横切っていく生意気そうなカモメ。

全貌を把握しようと目を凝らしても、抱えきれないスケールの大きさにいつしか時間が過ぎている。海を見るまで心の中にくすぶっていた怒りや悲しみが、波に揺さぶられていくぶんか落ち着いている。

たとえ問題が山積みでなにも解決していなくても、海は私を癒してくれる。とてもいい言葉をSNSでシェアしなくても、有益な情報を発信し続けなくても、海は関係なく姿を刻々と変える。

草とか花とか、自然が一種のセラピー的な効果をもたらすのは、人と独立した存在だからだろうか。こちらの機嫌や成績や体調や社会的な成功で、一喜一憂する人のそばにいるのは安心できない。

あの人の笑顔を見たいからなにかを頑張るのは、健気なようでいてあやうさがある。もちろん、誰かのためにという思いは行動のエネルギーだ。けれども、他人の笑顔をすべての見返りとして期待し過ぎるのは健全な関係とはいえない。

たとえ、それが親子でも。いや、親と子どもだからこそ、かな。


子どもと海にいくと、退屈しない。

海に入らなくても、石や砂や枝で子どもは遊び続ける。

たとえばこの子が10代になって、一人でどこにでも行ける行動力を手に入れて、学校で親には言いたくない嫌なことがあったら、この海に来るのだろうか。

太陽の傾きで表情を変える海をじっと眺めながら、時には静かに泣くのだろうか。もしかしたら、黙って隣にいてくれる友だちが一緒かもしれない。

どこにもつながっていなくても、誰にでも開かれているこの海が、娘に優しいといいなと思う。

そんなことを心配していても、子どもは一人で歩いて世界を作り、私の予想を飛び越えるスピードで強くなって遠くにいってしまうのだろうけど。





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