かれらのしんどさは青白く光る
レヴィナスはなぜこうもしんどいのか。
このしんどさはまるで、自分がボロボロの古布となり、身体を雑巾みたいに乱暴に絞られる苦痛。しかも、雑巾であることに完全に屈して、身を引き裂かれるのを、善とするということ。
これは、つらいとか、苦しいとかいう表現よりも、「しんどい」という言葉が合っている。外に自己を主張するための言葉ではなくて、「しんどい」は瀕死の内臓が漏らす、音以上言葉以下の鬱血したなにかである。
宮沢賢治は、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」といっていた。
この愕然とする重さや、背負っている荷物の大きさに、私はレヴィナスと同類のしんどさ、胸に真綿が詰まったような息苦しさを感じる。
賢治の作品は、「心象スケッチ」というように、心に生じた風景そのものを「そのまま」書き留めたものである。そこでは、何もかもがほの蒼い光に包まれて、世界のグラデーションがあいまいになっている。
彼は、自分の意識や輪郭を全くとどめないほどに、無私の極で自然や動物や人々の感情に没入することができた。「他人のかなしみ」即「私のかなしみ」なのであった。
融通無碍に広がる世界は「私」と葉の上の水滴ひとつを同等の粒度で映し出し、「私」は水滴の中で、ひととき水滴そのものになって、天から降り注ぎ、地に馴染んで、自在に光と戯れる。しかし、それは同時に「私」という実体が、簡単に溶けてなくなってしまう脆さを含むものであることを意味している。彼は、そういう持って生まれた体質があった。
賢治は、解離的な心性や、離人の傾向があったのではないかと語られることもある(柴山 雅俊(2007)「解離性障害: 「うしろに誰かいる」の精神病理」 )。
1919年に書かれた賢治の書簡は、自分自身の存在がバラバラになる手前の錯綜した精神状態が読み取れるほど、混迷している。ちょっと長いが、引用する。
私はこの文章を、レヴィナスと同質の、たましいの表皮を薄く切り刻むようなしんどさを感じさせるものとして読んだ。
「存在の彼方へ」からいくつか引用する。
賢治とレヴィナス、どちらにも共通して感じるのは、「私」という主語を発するまでにただならぬ実存的障壁があって、やっとのことで「私」の泡が生じたとしても、そこには、「私である必要がなかった」仮想事実が折りたたまれているということである。
本質的に「誰でもよい」偶然的なものだからこそ、いまここにこうしてある「誰でもよくない」「私」のかけがえのなさが浮かび上がる。
そこでおいてのみ、「私」と「あなた」のあいだで、キラッと光るものがあるのではないか。
レヴィナスは主体が身代わりと化し、そこでの責任の代替不能性において唯一的な一者に転じることを説くが、賢治のいう「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という言葉と何かしら、近縁の「しんどさ」を感じてならないのである。
宮沢賢治とレヴィナスを並べて語る理由として、両者から喚起される「色」についても触れなければならない。
表紙の影響も多分にあるだろうが、個人的に「存在の彼方へ」は青のイメージである。トルコのガラスや釉薬のような、深くて澄んだ海の色。それに、薄衣の粉っぽいベールがかかって、ぼーっと光っている。
また、「存在の彼方へ」には「燐光」という言葉が出てくる。(「存在することを超えた意味、それゆえ燐光や現れることを意味することなき意味もまた現出しうるのではなかろうか」(p.165))特別内容に関係する箇所ではないにもかかわらず、やけに印象的な箇所だったので覚えている。
燐光とは、生物が腐敗、酸化するときに放つ青白い光のことをいう。ここでレヴィナスは、存在者の光をそのように表すことによって、仮象に取り込まれる主体が「死んでも死にきれないこと(発光し露呈する骸)」を示しているのだろう。
有機物と無機物の境目にあり、生と死のあわいにたつ、ひんやりとしたウランのような緑青光。これは、「青」の情景によく合っていると思う。
また、「燐光」は非常に宮沢賢治的な表現でもある。
賢治の作品には、コバルト、インディゴ、青銅(ブロンズ)等々、青のモチーフがよく出てくるが、特に「燐光」は幻想的なイメージで、死の気配が濃い。
知る限り、レヴィナスの「燐光」(phosphorescent ? 原典がわからないが)という言葉は、詳しく言及されることがないようであるが、私はかなり気になる箇所とみている。
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