〈女性的なるもの〉の触れられないやわらかさ

レヴィナスは、そのエロス論の中で「女性」を弱きもの、肉感的なもの、男に求められるものというように、著しく男性主権的ともとれる書き方をしていると指摘されることがある。
そのせいで、フェミニズムの見地からは厳しくバッシングされているのだが、実際どうなのか。どうにもレヴィナスほどの人物が、女性を「女」という属性、つまり存在のレベルでいったらほんの上澄みに過ぎない部分だけに限定して語るほど、不注意だとは思えないのである。

私自身は女であり、性自認も女であるのだが、レヴィナスの文章から制圧的なファルス的男性性(オラオラオレ様感)を感じたことはない。
それは、レヴィナス自身が「女性的なるもの」つまり、「傷つきやすさ」を内部に秘めているからかもしれない。「全体性と無限」が陽、「傷つけてしまう」男性的な立場にあるとすれば、「存在の彼方」は陰、女性的な立ち位置にあると言えるだろう。彼は両性具有的にどちらの側面も有しているのだが、どちらかというと後者のほうが本質的で、前者の「屈強なレヴィナス」はハッタリであるような印象も受ける。

愛撫が目指す《柔和なもの》は、もはや「存在者」の身分をもっておらず、「数と諸存在」から抜け出してしまって、存在者のもつ性質ですらない。」(藤岡訳「全体性と無限」p.465)

レヴィナスは、《愛された女性》を「動物的」「少し愚かな」(p473)などとスキャンダラスに表現するかたわら、そのすぐ後に《女性的なもの》は同時に対話者であり、知性に満ちた師であるともいう。これはどういうことか。

ここでの「動物的」とは、不即不離の「存在者」をおさえて、より状態として「存在」に近いということを示しているのではないか。それは聖山が女人禁制である理由というか、女性のケガレが、圧倒的な聖性の裏返しであることに似ている。

「女性的なるもの」の肉感的なやわらかさや丸みは、その形態性だけでなく、そこに機能的なテクスチャーを読み取ることができる。

《女性的なるもの》はエロス的関係を通じて触れようにも触れられない。つねにすでに、それは指先を流れ去り、熱っぽい「愛撫」と冷静な「触診」を行き来する。それは、《女性的なるもの》がやわらかく動き、ふくらみ、ちぢみ、うごめき、はいずり、こちらを吸収し、抵抗するからである。その驚くばかりの質感は、芸術作品に仕立てあげられるような、「血の通わない質量」(p472)ではない。指先が触れるとコツンと冷たい音が反響するような、硬質なものではなく、むしろ接した先端がふかくめり込んで、ずるずる取り込まれてゆくような、なまあたたかくてぐにぐにした、そしてどこかおどろおどろしい、液体でもなければ固体でもないパン種のような感触なのだ。

そのような女性性は、生命そのものを前にしたときのような、驚きと慄れをもって出会われる。理解できると思った瞬間、理解の範疇をあふれでる。だからこそもっと触れたくて、知りたくて、私は私を乱してゆくのだ(息切れ!)。

エロス的関係の両義性とは、肉体と精神の不均衡のはざまで、宙吊りになることをいう。我々は「存在」であり「存在者」でもあるから、どちらを強調しても、それは(ダサい)自己矛盾になる。
プラトニックな精神性は、肉体の猥雑さを隠蔽することで露呈し、逆に肉体の快楽を求めるほど、精神性を蔑ろにするほどに、ほんとうのあなたへの憧憬は深まってゆく。サディズムやマゾヒズムはそういう緊張と緩和の不均衡を双方の同意のもとに実践するということを示している。ギリギリまで、相手のことを「モノ」扱いすることによって、臨界点まで人称性を追い込むことによって、逆説的にも絶大な精神愛を試みているのだ。

レオ・レオニの絵本で、「あおくん」と「きいろちゃん」は、出会って、うれしくてうれしくて、思わずふたりは「あおくんのまま」、「きいろちゃんのまま」、「みどり」になった。

エロス的関係の末に、「子を生むこと」、繁殖性はつまり、「みどり」になるということではないか。私の子どもは、他人であり、私でもあるのだから。

「〈自我〉は、まさに自分自身として、女性性における〈他人〉との関係によって、みずからの自己同一性から自由になり、起源としての自己を起点としながら他なるものでありうる。〈自我〉というかたちをとって、存在は無限に再開するものとして、言い換えれば厳密な意味での無限なものとして、生起することができるのである。」(同上、p492)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?