私とわたしのズレについて

初めてデジタル式の腕時計を身につけた時、すうっと胸が寒くなるような感じがあった。
無機質な数字が、左手首の上で絶えず刻まれていく。それだけのことが時間の進みの全てであるかのようで、圧倒的な不可抗力に縛られることが怖かったのだ。

デジタル時計は事実を知的に知るためだけのもので、膨らみや、展望がない。用途を過不足なく満たすだけで味気ない、完全栄養食品のような感じ。

生活の中に溶け込んでいる時、時間は相対的になる。私の中での「今」の位置付けが浮かび上がるためには、「これまで」と「これから」の文脈の間に置かれる必要があるからだ。
アナログ時計はこの感覚をよく反映している。アナログ時計の円盤は、さながらパイのようで、「半分」食べたら残りは当然「半分」ある。ただし、そのときの体感は、決して「30分」という数字に還元できるものではない。半分残ったパイに対して、私は体調や気分、環境や状況によって「半分も食べちゃったなあ…」、「もう半分しかない」、「まだ半分も残ってる(お腹いっぱい)」、「あと半分ある(やったー!)」などといくらでも解釈が生成されるわけだが、アナログ時計の余白はこうした生き生きした「今」を規定し、さらに次の瞬間には別の意味を与えていると言ったように、くるくる転がってゆく私の勝手気ままな自由を許してくれる。対応しているといってもよい。
一方でデジタル表示はこれがない。あるのは「是」か「否」、0か1の基準だけであって、それは時間を示しているというよりも、信号を表示していると言った方が適当かもしれない。
もちろん人によって好き好きだし、厳密な時刻を知る必要がある時など、デジタル時計の方が都合が良い場合もあるのだから、否定する意図はないが。かくいう私も、アナログ式だと主観的というか、見積もりがルーズになってしまって、生活規則としての時間を正確に把握することができないため、デジタル式を使っているくらい。私の方が、機械に合わせて適応しているのである。

「時間と自己」で木村敏がこれと似たことを言っていて、離人症患者の世界は「デジタル時計」しかないのだ、と表現していた。「こと」なき「もの」、つまりハイデガーでいう「存在」なき「存在者」、レヴィナスから引用すれば「語ること」なき「語られたこと」である。レヴィナスは「ある」「存在なき存在者」というから、デジタル時計の画面に表示された無機物的な数字(数字は概念だから、もっとずっと肉薄する必要があるが)だけを剥ぎ取ると「ある」の様相がぐわーっと立ち上がってくるとも言えるだろう。
またそれを転じて、アート的な面白さに持っていくこともできる。
例えば、デジタル時計の文字盤に存在しない(本来の文脈から切り取られた)時刻「12:63」を示すとか、カレンダーに8/32があるとか。おそらくこの効果は、通常なら予想できる結果が伴うべきところを裏切られる、ということが重要である。鑑賞者が無自覚に習慣的な帰結を連想してしまうところに、地面の一枚板を抜くような不意打ちを喰らわせることで、芸術領域で語られるところの「ある」が接近しうる。そこでは特定の固定文脈が濃厚であればあるほど「ある」の切迫効果は強大になり、主体の思惑がズレる(私はこれを「ダサくなる」と言う)。
そのため、単に白紙に「12:63」と描いてあるだけよりも、自分の部屋のアラームクロックの方が、それよりもさらに駅のホームの時刻表や、馴染み親しんだ私の左腕の腕時計の表示の方が、ズレが大きくなるため、動揺(ダサさ)も顕著になるのである。現代美術家・赤瀬川原平の「トマソン」はこうした仕組みを具現化している。

要するに、時間表示にしろ、芸術にしろ、レヴィナスの「ある」にしろ、「存在者」と「存在」のズレが核心部分で絡んでいるという点で、一本筋が通っているように考えられるのだ。

以上のような広義な意味での存在と存在者の間のズレについて、ユーミンの「生まれた街で」の「言葉にしたくないよ 今朝の天気は」という歌詞を引用する。この詩は、上記の事柄のエッセンスを秀逸に説明してくれている。
胸いっぱいに吸い込んだ外の空気、頬に触れる風、朝のにおい、音、全てが私の中でこんなにもしっかりとしていて、確かだ。しかし、それを「晴れ」て「いい天気」とか言葉にしてしまったら最後、全てが陳腐な言葉の中で失われてしまう。許しがたい。耐えがたい。全体性に対するささやかな反抗として、あえて「言葉にしない」という選択が私の魂を守るための「善」となることもあるかもしれない。しかし、それでは「言葉にしたくないほどの、こんなにも確実な天気」は現れてこなくて「私」が感じる「これ」「あなたと」共有することは絶対にできない。そこでの煩悶、苦悩、魂を売るか、外部に開かれるかの不均衡のあいだで、一瞬でも奥歯を噛みしめてしまうこと、苦い思いをすること、それが、「存在」と「存在者」のギャップであり、「ダサい」のだ。

「存在とは他なるものが言表されるや否や、存在は、存在とは他なるものを出口なしの宿命のうちに幽閉してしまう」(「存在の彼方へ」, p.26)

「語られたこと、言語学的体系、存在論への語ることの従属は、現出という事態が要求する代償なのである。…主題化されるや否や、存在するとは別の仕方で、存在とは他なるものは自分を裏切り、存在の存在することとして主題のうちに現出する」(同上, p28)

ところがレヴィナスは、「ダサくなること」によってのみ、さながら生き地獄のような、私が超豪速急で炎上するダサさの永久機関(側から見ると、全然進んでない)と成り果てることでしか、言説は開かれないし、「他」に向かおうとすることはない、できないという趣旨のことを言っている。これはすごくわかる。
デジタル時計だけの世界、「30=30分」と一才の疑いを挟むことなく享受すること、つまりシニフィアンとシニフィエがピタッと一致する世界(レヴィナスは、「存在を引き剥がす」、「剥離する」という。わかる。)はあまりにも渇いていて、ペラッペラ。吹けば飛びそうなハリボテで、つまらない。言い換えれば、ダサいからこそおもしろい。「あなた」に届かない手を伸ばして、「知りたい」と思える。存在者たる「私」が確実に、絶対に、どう考えても存在としての「わたし」とは思えない。埋まらぬ距離のむず痒さ。広がる距離の途方もなさ。そこに、決定的な、出会いの裂け目があるのだ。


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