「ドーナツがないがある」ということ

以前私はレヴィナスの〈ある〉について語るとき「ドーナツの穴」という例えを出したことがある(https://note.com/83180141/n/nbab1e7f41f8b)。

その時、ドーナツの穴は「ドーナツがあるがない」というハイデガー的なあるべきものの不足の衝撃(私の有限性)ではなくて、「ドーナツがないがある」という虚無の充溢として現前したことが、底しれぬデジャヴ(「私はこれ(「ある」)を知っている」)のように切々と脅迫してくるといった。また、それが他でもない、「死の不可能性」であるともした。
ドーナツの穴というのは穴だけ取り出すことはできないし、穴だけ残して食べることもできない。しかるに、ドーナツの穴はあるとないの境界にぶら下がる極限のアポリアなのであるが、これについて、〈ある〉をそこにおいて認める「痕跡」という観点から、ちょっと考えてみたいと思う。

そもそも、ドーナツの穴を穴だけ取り出すことは本当にできないのだろうか。
私はなんとかしてドーナツの可食部に依存しない純粋な穴を切り取ってみたい。各種ドーナツの穴だけを収集して、「ポン・デ・リングの穴」「ハニーチュロの穴」「フレンチクルーラーの穴」などとスクラップブックに収めてみたら壮観だろう。

そこで、こういう方法を考えた。
まず、ドーナツをペーパーナプキンの上に置いてしばらく放置しておく。数分して、ドーナツを除ければ、ペーパーナプキンにはくっきりと円状の油染みができているはずだ。そして、油染みのない、円の中心部だけをハサミで切り抜く。そうすれば、形ばかりはドーナツの穴を穴だけ取り出すことができるのではないか。派生として、ほかにも、ドーナツの上から茶こしで粉砂糖を軽く振りかけるという方法もある。穴の部分だけ、丸く粉砂糖が机の上に残るはずである。
だがしかし、ペーパーナプキンにしろ、粉砂糖にしろ、そのとき穴はもう穴ではない。感情を口に出した瞬間、急激に高揚がしらけてしまうのに似て、それは述語を伴う閉じて安定した固体、端的な存在者の形に成り代わってしまっている。
では、これではどうか。まず、あえて穴が空いていないドーナツと、通常の穴開きドーナツを作る。そして、2つの重さを比べる。観察者は穴なしドーナツ−穴開きドーナツの重量の差分に対して、頭の中で穴の確実性、存在者が存在しない存在、ないがあるを想像するのである。観念的な領域になるが、これなら、穴を穴として認められるような気がする。
しかし、問題はすぐに明るみになる。その時観察者が頭の中で想像する穴はやっぱり穴ではない。それは「カタヌキ」で抜き取った食べられるドーナツの部分であって、またしても、存在者に堕ちてしまっている。

このように、我々が通常生きる位相においては、(ないが)〈ある〉は、直接認めることはどうしても不可能なのである。「ないがある」は「あるがない」に不可避的に巻き取られてしまう
それは、言語の使用に固着する習性であるとも思う。なぜなら、肉体であるところの我々は「あるがある」を前提とした世界に生きているため、基準となる物質的世界に立脚して事情を説明したほうが、情報として簡便かつ有意義だから。同じ「私物のペンを今ここで持っている」状況に対しても、「私のペンがないがあるがない」というよりも、「私のペンがある」といったほうがずっとスマートだ。ところが、宇宙の約9割を占めるダークマターは今この瞬間も見えずさわれず、しかし「ある」のだから、そう話を簡単にすることもできない。

もっとも、存在者から成るモナド的な世界は、〈ある〉から別個の水準で隔たっているわけでも、発達モデルのように〈ある〉から推移したわけでもない。存在者は存在者のままで〈ある〉を帯同している。
そこにおいて、〈ある〉の残り香、「痕跡」というイメージが強く匂ってくる。我々が〈ある〉の気配を察しとるのは「痕跡」によってであり、よって〈ある〉を示唆するところの存在者一般は、「痕跡」であるとも言うことができる。
また、痕跡は連鎖する。先程の例でいえば、穴の形だけ残った粉砂糖や丸く切り取った紙ナプキンは穴の痕跡であり、穴は〈ある〉の痕跡として、新たな痕跡(「何?」)を次々に生成していく。

絶対に「これ」と言表することができない〈ある〉を両義的に示し表すものを痕跡といった。そうするならば、結局のところ、ありとあらゆるものが痕跡的なのではないか
「ドーナツの穴」はその性質が極端だから特別目立つだけで、通りの向こうに立つ人のシャツの色や、カーテンのねじれ、石畳の規則やシャンプーとリンスの位置、「私そのもの」さえも、全部(何かの)「痕跡」として立ち上がる可能性も否定できないのである。
統合失調症の症状に「妄想知覚」というものがある。「犬が前足を上げたのは不幸の印だ」のように、何の関係もない事柄に対して異常な意味を与えてしまう知覚体験のことだが、このような体験の渦中では、世界がそれとしてではなくて、何かを示唆するのみにおいてのそれ、つまり「痕跡」として浮かび上がってしまっているのかもしれない。
その、全ての可能意味が針の先一点に集中するかのような、緊迫した状況は、ドーナツの、小麦でできたおいしい可食部「だけ」を漫然と享受している我々にはわからない。ドーナツの、ドーナツではなくて、その「穴」…、「痕跡」を認めるということは、生きること全ての一挙手一投足に、〈ある〉を追体験することのように思われる。


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