超え出てゆく〈他性〉・無限増幅するダサさ

村上靖彦さんがレヴィナスについて語るとき、「離人感」について頻繁に言及している。私はこれは、レヴィナスの核(一番やらかくて脆いところ)に切り込んでゆくために避けて通れない要素であると思っていて、とりわけ気になる根源的感覚である。
というか、そもそも離人のもどかしい存在違和を克明に描写してくれる稀有な症例として、私はレヴィナスに過剰に入れ込んでいるとも思える。

離人感の根本的な発端はどこにあるかというと、それは「存在(etre)」と「存在者(etant)」のズレである。つまり、「私が(存在者としての)私でありながら、(存在としての)わたしではない」という存在論的差異の驚愕を地でいくと、実存が遊離するのである。それはもう、雲母がうすく「へき開」するような仕方で、ペラリと剥がれ落ちる。

離人症や統合失調症の自我障害を鮮やかにモデル化した「ファントム空間論」で知られる安永浩先生という精神科医がいる。安永先生の主要著書「精神の幾何学」をパラパラ読み直していたら、やはり至る所で「ズレ」と接続可能な箇所がある。この「ズレ」を切り口に、レヴィナスのタームと照合させて読むことはできないかと考えるに至った。

安永先生は、素性不明の哲学者・ウォーコップの「パターン論」に基本的な着想を得て、精神病理学的考察に収まらない、独自の人間学を展開させている。
はじめにこれについて、簡単に説明しておく。

パターンというのは、自-他、質-量、生-死、全体-部分のように、双方が互いを規定する一対のカテゴリーのことだ。両者は貧-富や男-女のように、意味的に等しいものではなく、非対称性である。よってA/Bと表示される「パターン」対は、前項が後項に対して公理的に優位であり、後項は前項に対して従属的になる

そして、「パターン」は、通常の健康人の場合、常にA>Bとなる。いついかなる場合でも、健全な精神においては、Aの優位性が確立されているのだ。
Aが論理的必然性を持つのに対し、他方Bはそれがなく、Aありきで成立する。これは例えば、「体験世界は自我(A)と非自我から成る」という文は了解可能であるが、「体験世界は他(B)と非他から成る」という文は意味をなさないことを考えるとわかる。

分裂病(ここでは、原著にしたがってそのように示す)ではこのモデルがB>Aと逆転することで、特異的な感覚体験が生じると説明されるのだが、それはひとまずおいておく。ともかく、以上の「パターン」がファントム理論の骨となる。

この「パターン」関係を直線上に書き起こしたものが以下の体験線(図1)である。

起点となるA点は生存主体、向かう先のB点は何らかの実体性であり、有形の現前だ。そこで、AからBに向かう矢印は、生命エネルギーの方向を示している。
生命エネルギーとは何かというと、要するに絶えずAからB的外在に送り込まれる「何?」という問いのエネルギーである。我々がアクチュアルな現実を生き生きと実感できるのは、主体が決して、現実(=「これ」)に甘んじようとしないからだ。身体に則した「問うこと」は、生命にもともと備わった原始的な機能であり、ある程度進化的に高等な動物であれば、意識せずとも、反射的な部分で現実に現実以上の深みを感じ取ろうとする。これはもっともなことで、例えば天敵を目視して、「いるなあ」と思っているだけでは、危険を回避することはできない。現象を問い直し、絶え間なく更新する(「まだ遠いからセーフ」「そろそろヤバイ」「よく見たら味方か?」「思ったよりデカイぞ」など)ことによって、現実が自分にとっての意味を帯びてくるのである。「問いのエネルギー」とは、生命感を裏付ける、そうした働きのことだ。

以上、A→Bの体験図式はさらに詳細に記述することができる(図2)。

図2

左極に位置するeは仮想的な意識の出発点、純粋な「われ」であり、実際の姿形はもたない「点」である。(私は、「たましい」のようなイメージをしている)通常、全ての体験はeの下手に描かれる。そのすぐ右のEは「自我図式」である。基本的に、Eはeと一体化していて意識されることはないが、「私」はとりわけその身体において主体にもなれば、客体になることもできるため、ここでのEは物体として一応は対象化可能な自我に相当する。例えば、体調が悪かったり、どこかが痛むとして「身体がありありと意識化されると」、Eはeから乖離して、右項(B側)に移動していくと考えられる。

ここまでが、A極の話である。続いて、B極に着目しよう。
右辺はF→fに分化することができる。Fは現実的な対象図式fは理論上想定された対象極である。小文字と大文字は対応しているため、eはf(Aエネルギーに直属)、EはF(B実現に直属)とセットに括って捉えるとわかりやすい。Fがfの手前に位置している(e-f圏内に包有されている)ことは、眼前の対象「これ」が常に適度な「何?」に満ち満ちている状態として解釈できる。

ここまでをまとめながらレヴィナスを読んでみる。
まず、そもそもの前提として、A>Bを自>他としたり、同一の直線上に表示する時点でレヴィナスの姿勢に反するともいえるが、全体性的な基本図式は今後解体されてゆくので、差し当たっては許容していただきたい。

私が一貫して強調したいのは、「存在(etre)」と「存在者(etant)」のズレであって、これはAB体験図式に落とし込むと、eとEのズレ(隔たりの大きさ)に示し表すことができると思われる。これは、「自然で」「なめらかな」在り方においては、eとE が一致しているということの逆を考えるとよい。スポーツが苦手な人はよくわかると思うが、球技なんかは特にこのギャップの深刻さを痛感する。

そしてここから、e-Eを既存の「パターン」から抽出し、組み直した場合(安永先生はこれを「鞘パターン」という)、e-Eはその内部で更なる「パターン」関係に切ることができる(図3上2つ)。

図3


図3の上から2つ目で示したS-sシニフィアン-シニフィエである。「意味するもの」「意味されるもの」という訳語で知られるように、前者は記号、後者は指示対象「これ」に相当する。あえてレヴィナスに引き寄せれば、Sは〈他者〉の現出、つまり目に見えて、触れることができる「あなた」という記号であり、sはそのずっと向こうでゆらめく、絶対に主題化されず、解読不能な外部といったところか。そこで先に「問いのエネルギー」といった「何?」は、「発話」ないし「言説」という運動に相当する(だからこそ、言説は特定の概念ではなく、諸項をつなぐ、動きのある関係性と呼ぶにふさわしい)。

現れが一つの固定された形態であり、すでに誰かがそこから身を引いているのに対して、言語において成し遂げられるのは、ある現前が間断なく流れ込むことであり、この現前は、あらゆる現れと同じく形態的な、自分自身の現れという避けられない幕を引き裂く」(藤岡訳「全体性と無限」p.170, 強調筆者)

すなわち、S-s連合を甘受せず、妥協しない、「充足した存在という究極的統一体」(p165)に一致することがないということは、広義の「存在(etre)」と「存在者(etant)」のズレと呼べるだろう。より微視的、具体的なものへ入れ子状に増加してゆく「パターン」は、レヴィナスにおける「層状に無限増幅するズレ」(地獄のようなダサさの永久機関)をうまく表現しうるのではないかと思う。「無-始原的」「沈黙した世界」(p.162)とは、要は「ダサくなりようがない世界」なのだ。

図3上から2つめ以降で示したように、e-Eに内在するS-sはあたかも「層状に無限増幅」するようにして、さらに詳細なパターン(S’-s’、S”-s”…)に切ることができるだろう。なぜなら、「意味するもの」は「意味されたもの」に、「意味されたもの」は「意味するもの」へと目まぐるしく立場が変化してゆくものだから

《意味されたもの》は決して完全なる現前にはならないつねに《意味されたもの》は今度はそれ自体が記号になるのであって、まっすぐな率直さをまとってやってくるわけではない」(同上, p.167)

意義の起点となる言葉のうちで、世界は主題化されると同時に解釈されるのであり、そこでは《意味するもの》は自分が発信する記号から決して切り離されず、記号を開陳すると同時に、絶えずそれを取り戻す」(同上, p168)

このような、気が遠くなるような螺旋運動を図3の体験図式にはめ込んでみたつもりだ。eSを統合してAとしているのは、eEと同じような理由があって、両者が体感上同一的に感じられることを指している。(「われわれが熱中してしゃべっている時、「私」は「ことば」そのものである」(安永, p.167))もちろん、eとSのギャップが拡がってゆくこともある。わかりやすいのは話者の話す言語が異なっていて、意思疎通がとれないときや、スピーチであがってしまってしどろもどろになることなど。そうなると、e-Sの間も区切られているのかもしれない。

この図を眺めていると、「われ」eは左へ左へと追いやられていって、対象項に圧迫されていくように見える増大するBに対してAが相対的に圧縮され、退いてゆくように思われるのだ。そしてこの感じは、レヴィナスがいう「下降運動」「無限後退」のイメージと感覚的に似ている。ここで重要なのは、それが主体の意図でやっているわけではなくて、「他性の圧倒的余剰」によって、「そうならざるを得ない」という点だ(だからダサいのである)。

図4

図4は溢れ出る他性に圧倒されて後退するA(e)を表している。イメージとしてはこういう感じである。無限後退(躍起になって「語り直すこと」)しているうちに、「パターン」の比重が気づいたらA<Bに逆転している(より厳密に言えば、はじめから他性が優先していたことに、伏線回収的な面持ちで気付かされるような…精神病然とした体験に転じてゆく)。この点に関しては、さらに考える必要がある。

レヴィナスの「後退」という動きとパターンの無限増幅が今回の要点となるゆえ、ここまでで大体の目標は達成したようなものだが、以上を踏まえて、ファントム理論では離人症がどのように説明されるのか見ていく。
離人症はAf-Fという公式で表現される。通常ではAF-fであったのが、右辺の並びが逆転するのである。詳しい説明は省略するが、要は「Aエネルギーの自律的調整機能(「これ」に対して適量の「何?」を伴わせること)が損なわれた時、そのギャップを補おうとエネルギーを駆使して頑張る(「何?」「何?」「何?」を無理矢理繰り出す)ものの、どうも現実とピントがあわない」という状態である。

離人症では、「世界に膜がかかったように見える」という訴えが出るが、この疎隔感は、突如生じたfとFの距離にあたると考えられる。「何?」が私の内側で空回りして、「これ」の方まで達しない(むしろ遠のいてゆく)イメージである。どうやってもしっくりこないため、eは全力で解釈を試みるが、足掻くほど隔たりf-Fは深まってゆく。安永先生はこの構造を、生卵の中で本来一杯に充填している白身が収縮し、殻と剥がれを生じた状態と表現していてわかりやすい(図5)。

図5 「精神の幾何学」から引用

この「手を伸ばしても伸ばしても届かない」感じは逃れ去る〈他性〉、「無限後退」に通ずる部分がある。解釈不能なのっぺりとした「ある」を、fに収まらないFの量感に見ることもできる。

有馬(2022)は離人症の背景に、以下3点の仮説をおいている。
当事者の認知枠(あるいは人生観)が直面する現実とうまく一致しない。つまりずれている(認知)
②この不一致またはずれを認識し(メタ認知)
③当事者はこのずれを自己意識の観点から認識している(メタメタ認知)

以上の事項をこれまでの議論に適合させて言い直せば、
「存在」と「存在者」のズレを「存在者」が認識し、さらに存在者の中のズレ(自己意識)からそのズレを認識しているということである。ファントム理論の用語で言うのであれば、eとEのズレをeが認識しさらにそのズレ(ぎこちなさ)はSとsの不一致を生み、それがさらにS’-s’のズレを生んでゆくといったところか。
このように、レヴィナスから読めるけれども言語化しづらい、どこまでも細分化される(ダサさの)階層構造を考えてみた次第である。


文献
藤岡 俊博(2020)「全体性と無限」
安永 浩(1987)「精神の幾何学」
有馬 成紀(2022)「境界性パーソナリティ障害と離人症」

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