【日常・カップル】泣いてしまいました(927文字)

「はい、私の勝ち」
謎の言語が飛び交う店内で、
わかりやすい日本語が俺を斬り捨てた。

「無理せず瑜伽にすればよかったんじゃない?」
「前回瑜伽で余裕だったんだよ…だから呻吟にしたのに…」

瑜伽、呻吟というのはこの店の辛さのレベルのことで、
それぞれ二辛、三辛を指している。

「約束守ってもらうからね」
「仕方ない」
「仕方ない?」
「失礼いたしました。謹んで努めさせていただきます」
「よろしい」

彼女は少しゆっくりなくらいの速度で手を動かし、
食事を続ける。
目の前の料理の装いにしては実に優雅な対応。
俺は食事前に半分飲み終えていたラッシーに口をつけた。

「ふふふー楽しみだなー温泉温泉っ」
スプーンが離れて、喉が一度役目を終えると、
歌のように流れ出すメゾソプラノ。
その弾んだ声は、言葉を追ってしまえば悔しいけれど、
とてもきれいに鼓膜を震わせてくる。
ちなみに彼女の食べている器の中身だが、辛さのレベルは楽土。
五辛、である。

最近転職活動を終えたばかりで、
再来月にはほかの会社へと移る彼女。
採用通知が来たという連絡と同時に勝負が持ちかけられた。

「スープカレーを食べて泣いた方が
相手を温泉旅行に連れていくってのはどう?」

彼女は普段から弱音を吐かず、
いわゆるごほうび云々を求めるところもなく、
ただこうしてたまに勝負を持ちかけてくる。
勝負として受ける以上、基本は真剣勝負のつもりでいる。
だから勝つこともある。
けれど今回は…まあ負けてやってもいいか、と思ったのだ。
安全牌なら瑜伽だってことはわかっていたのだから。
それでも少し賭けてはいた。
呻吟はまだお子様OKレベルということになっている。
それくらいは平然と平らげたかったし。

「ひと口味見させてよ」
「え、やめといたほうがよくない?」

彼女がスプーンを持ち上げた隙の静かな湖面を波立たせ、
申し訳程度に上澄みを救い取る。

既に負傷済みの舌に、知らない痛みが追い打ちをかけた。
「…かっら…!」
慌てて残っていたラッシーを飲み干す。
「ほらーわざわざまた泣いて…
つまり宿のグレード上げてくれるってことかな」
「…んなわけあるかよ…」

こんな辛いものをよくもまあ涼しい顔で食べているものだ。
「お前よくこんな地獄みたいなもん食えるな…」
「え? おいしいけど」
「痛覚大丈夫かよ」

彼女は自分の食事を再開する。
店内に響く声や内装から浮いたそれは
蓮池のふちの散歩の静けさにも通ずるのかもしれない。
「ありがとね」
放たれた一言に顔を上げて目に入った表情に
宿のグレード上げてやってもいいか、という思いが頭をよぎる。

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