幻の『兵庫県民歌』追跡記録・その11

  68年前に制定されたにも関わらず、県から半世紀に渡り存在を否定され続けて来た『兵庫県民歌』作詞者・野口猛(のぐち たけし)氏の生涯。

■「白秋さんのお弟子ですね」

『兵庫県民歌』作詞者・野口猛は1906年(明治39年)4月22日、長崎県佐世保市に生まれた。光月尋常小学校(光園小学校を経て現在の佐世保市立祇園小学校に統合)在学中に父が仕事を求めて関西へ移り、家族全員で大阪府西成郡勝間(こつま)村(現在の大阪市西成区玉出)へ引っ越して貧しい少年時代を送ったと言う。

 玉出第二尋常小学校(現在の大阪市立岸里小学校)を卒業後、家計を助けるため電球製作所、造船所の使い走り、木管工場の見習、新聞配達など職を転々としながら独学で教員を目指していた。独学の手段は尾崎行雄主宰の大日本国民中学会の講義録や天王寺にあった大阪英語学校の夜間部で、特に英語は日曜礼拝で教会を訪れるアメリカ人を相手に磨きをかけたそうである。その甲斐あって1928年(昭和3年)、教員採用試験に合格し兵庫県の川辺郡長尾尋常小学校(現在の宝塚市立長尾小学校)代用教員として採用される。

 教師となって以降も研鑽を重ね、池田師範学校(現在の大阪教育大学)で中尾明磨が主宰していた生活綴方研究会に参加する傍ら鈴木三重吉主幹の児童誌『赤い鳥』に子供向けの詩を投稿したり、北原白秋(1885-1942)が主宰する『多磨』の同人となり短歌の指導を受けたりしていた。なお『鹿児島県民の歌』作詞者の坂口利雄(1910-1979)も野口と同時期の多磨同人であった。

 戦時中の1942年(昭和17年)には、神戸新聞社の後援で歌詞の募集が行われた相生市の市歌で三等に入賞した。この際に入選した浦山貢(1899-1949)は歌人で映画監督・浦山桐郎の父。

 1946年(昭和21年)、有馬郡生瀬国民学校(現在の西宮市立生瀬小学校)在職中に日本国憲法公布を記念して兵庫県が歌詞を募集した『兵庫県民歌』に応募し、翌1947年(昭和22年)2月に一等入選となる。5月8日に神戸の親和高等女学校講堂で開催された県民歌発表音楽会で岸田幸雄知事から賞状と賞金1万円を贈られたが、この際に審査委員を務めた詩人の富田砕花(1890-1984)から「白秋さんのお弟子ですね」と声をかけられたと言う。

 1954年(昭和29年)、児童数増加のため尼崎市立水堂小学校から分離した七松小学校の校長に就任。開校に合わせて校歌を作詞する。同年8月、この年に市制施行した川西市の市歌募集で応募作が入選した。
 しかし、この年の暮れに尼崎市長から転出した阪本勝が岸田幸雄らを破って知事に当選し、革新県政が樹立されて以降は教育委員会と現場の教員の間で板挟みになることが多くなり、気苦労が絶えなかったそうである。そのためか、自ら申し出て尼崎を離れ川西市立多田小学校へ移っている(写真右は多田小学校校長在職時、1959年頃撮影か)。

 1964年(昭和39年)、多田小学校校長を定年退職。園田学園の英語教諭となり同校の学園歌や学生歌、また高度成長期で人口が急増した尼崎に次々と開校した新しい市立小学校の校歌を作詞した。

 1972年(昭和47年)5月3日、急性骨髄性白血病のため逝去。享年68(満67歳没)。奇しくも日本国憲法施行、そして兵庫県議会議事堂で『兵庫県民歌』が初めて斉唱されてから25年の節目に当たる日であった。

 筆者は先日、野口家でご遺族が保管されている資料群を閲覧させていただく機会に恵まれた。その資料の内訳は知事の公印が押された表彰状(写真中央)や賞金1万円が入っていた金封(写真左)、各種の新聞記事、晩年に作詞した校歌の楽譜などであったが、新聞の中には前回紹介した1971年(昭和46年)11月15日付の神戸新聞夕刊も含まれていた。それは野口が病床でこの記事を読み、自らが四半世紀前に作詞した県民歌の存在が県から否定されている事実を生前に知っていたことを意味する物証に他ならない。その悔しさはいかばかりだったか、そんなことを考えながら筆者は変色した新聞記事の文字を目で追いかけた。

つづく

※2015年4月24日、11月22日に文面を一部修正

【謝辞】今回の記事執筆・資料の写真掲載に際しては野口富也さん、岡本真理さんのご協力を得ています。この場を借りて感謝を申し上げます。


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幻の『兵庫県民歌』追跡記録

1947年の制定後、半世紀にわたり県から存在を否定されて来た幻の『兵庫県民歌』を追う。(表紙画像はPhotock使用)
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