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潔癖の鉄壁

僕は潔癖症だった。

特に体液が嫌いで、体育の後とかで汗だくの人と体が触れるのが完全に無理だった。
剣道部やバスケ部などの練習場所は空気が「気化した汗」という感じがして近寄りたくなかった。
大学に入るまでは回し飲みも一切NGだった。

「だった。」と過去形で語るということは今はOKということだ。

サークルで沖縄旅行に言った時、泡盛の瓶を男20人位で回し飲みするという日本昔話のようなノリがあり、先輩に好かれたい一心で飲むことにした。

別に酒を飲むことを強要されたわけではない。周りからは「口つけるだけでもいいから!」とも言われていた。

個人的には泡盛をストレートでいくより成人男性数名分の唾液が塗りたくられたガラスを咥えることの方が恐ろしかった。
泡盛ではなく唾液のせいで吐き気がこみ上げてきた。

しかし、意を決してやってみたら意外とできたのである。


この時から僕は体液を克服した。
「克服した」というのは特殊な性癖に目覚めたというわけではなく「絶対無理ではなくなった」という程度の意味である。
一応イヤではあることは明記しておく。



ただ、今でも自分は「汚いもの」に敏感すぎるのではないかと思う。

汗を流して泥にまみれて、ときに涙を流して、そんな仲間と抱き合って…というような人間は、僕にとってはゲテモノ料理のフルコースだ。
しかし、世間にとっては高級おせちの詰め合わせように輝いて見えるのだろう。

僕にとっては汗もおしっこも同じようなものなのだ。
がんばるのはいいことだがちゃんと汗とか体臭とかそういうのはケアしていただきたい。
汗だくの成功よりスマートで効率的な冷房の効いた成功のほうが称賛されるべきである。
しかし、社会は汗を礼賛している。

このズレは未だ解消されておらず、自分が社会に適応していくことができない理由の一つである。

汗が青春の象徴であるように、美しいとされるものには大抵少しの「汚物」が含まれている。

汚物を徹底的に排除した空間は無菌室のように殺風景なものになる。

つまり僕は、体液を避け続けるうちにどんどん殺風景な人間に近づいていってしまっているのだ。



そんな無菌人間の僕は、大学に入ってから「エモい」という言葉を知った。

「エモいってどういう意味ですか?」というのは新歓時期に8恒河沙回される会話だが、僕はその例をいくつか提示されることでなんとなく法則性がわかった。

ボサボサの髪、手ブレが残る写真、吐きガムだらけの道、タバコ、古着、雨、錆…

エモいと称されるものは、不潔な要素が含まれがちだ。



恐らくこれは人間でも同じである。

趣があって面白い人間とは、どこかが濡れているべきでどこかが乱れているべきでどこかが臭くあるべきなのだろう。

極論を言えば、汚れていることはいいことなのかもしれない。



では僕は社会とチューニングを合わせるために、走り、汗を流し、気が狂うほどタバコを吸い、地面に寝転がり、便器を舐め、また走って汗をかき、靴下を脱ぎ、その靴下におみそ汁をいれて、そこから漏れ出てくるエキスをシャワーにして髪を洗えばいいのだろうか。

恐らくそうではない。

大切なのは「清」と「汚」のバランスだろう。

甲子園球児はメチャクチャ汚いが、その分「甲子園優勝」という目標にひたむきに頑張っている姿がメチャクチャ清らかだから感動を呼び、汚ささえもプラスになり、汗が光りだすのではないか。

イケメンや美人のタバコ姿がエモいとされるのも、もちろんイケメンや美人がやっているからだろう。

パチンコ屋の前でシケモク吸ってるホームレスにはエモさのかけらもないはずだ。

このバランスを見極めていくことこそ、僕が無菌室の壁を蹴破るために必要な課題である。




汗とか唾液とかおみそ汁とか、自分で書いてて気持ち悪くなってきたのでここで終わります。





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