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帰り帰られて生きるのさ

「先生は犯人探しをするつもりはありません。」ってやつ、

「しろよ」って思う。


しない理由が全く分からない。

そして、どんなアンチ犯人探しの先生でも、例えば学校で殺人事件とかが起きれば犯人探しをするだろう。

でもガラスが割れてたとかでは犯人探しは行われない。

そのボーダーはどこにあるのだろうか?


学校を卒業すれば常に犯人探しが行われるハイパー監視社会に晒される。

ならば幼い頃からそのシステムに慣れておくべきなのではないか?


先生の説教にはおかしなところが多い。
例えば、「キレた先生が職員室に帰る」というものがある。

いい大人が腹立ったくらいで帰らないで欲しいが、別にこの事自体はそんなにおかしくない。

おかしいのは、「大人は帰っていいのに子供は帰っちゃダメ」というところだ。

僕は小学生の時担任にこれをやられて「腹立ったことを理由に帰っていいなら、今僕は担任の言動に腹が立っているので帰っていいはず!」と思って帰ってしまったことがある。

帰ったら帰り返す。倍帰りである。

いや倍帰りって何?
まあいい。

僕はこの行動は今でも完全に正しい行動だと思っているが、当時帰ったのは僕だけだった。

他の人はなぜかずっと席で沈黙していた。



僕は高校に行っても担任にこれをやられた。

しかもその時僕は学級委員だったため、担任を職員室に呼びに行くという愚の骨頂もいいとこの儀式をこなさなければならなかった。

あの時「担任帰ったしみんなも帰ろうよ!」と言っていたらもっとステキな物語が始まっていた気もする。
青春映画の冒頭のようだ。

しかし、高校生時代の自分は小学生ならではのワイルドさを完全に忘れてしまい、「みんな反省してるんで…」みたいな理由を適当に考えて担任を呼び出していた。


そして、そういう先生ほど「やる気がないなら帰れ!」というセリフを言いがちである。


ということは、職員室に帰った担任はみんなあまりの怒りでやる気が無くなっちゃったということだろう。

まあ公務員なのでやる気がないという理由で職務放棄してもある程度は安定した給料がもらえるのかもしれない。

「やる気がないなら帰れ!」は怒られているようにも取れる発言だが、「やる気がないなら帰っていい」という救いに満ちた発言ではないか。

確かに、自分が指導者の立場だったらやる気がない人には帰ってほしいと思うだろう。

やる気ない側は帰りたいだろうし、やる気ある側は帰ってほしいだろう。だったらやる気のない人はどんどん帰るべきである。人生は冒険や。



そう思い、僕は小学生の時「やる気がないなら帰れ!」と言われてマジで帰ろうとしたこともある。

ただこれはグラウンドに出たところで他の先生に引き止められて未遂に終わってしまった。

やっぱり義務教育はちゃんと受けないといけないのだろう。

それは分かるが、だったら無責任に帰れとか言わないで欲しい。



思えば、小学生の時の自分はかなりロックだった。

今よりも強く「友達なんかいらねー」と思っていたので、周りの目は全然気にしていなかった。

もうガチの説教を食らうことなどなくなってしまったが、万が一僕が今「やる気がないなら帰れ!」と言われてもそう簡単には帰らないと思う。

それどころか、飲み会で「今日はお開きです!」となった後も周りに合わせて帰らずに路上でダラダラすることもある。

小学生の時は、こんな大学生がこの世で一番嫌いだったはずだ。

僕は大人になってしまったのだ。
「やる気がなくてもやらなきゃいけないこと」を学びすぎてしまったのだ。
ふてくされてばかりの10代をすぎ、分別もついて歳をとってしまったのだ。


ただ、今でも胸の奥底では童心を忘れてはいない。

もし「やる気がないなら帰れ!」と言われたら、トム・ブラウンのネタ終わりが如く「やる気ないんで、帰りまーす!」と言ってマッハで帰宅してみたいという欲がある。

もしいつかこの欲望が爆発して、誰かに迷惑をかけたとしたら…



その時は、犯人探しはしないでいただきたい。



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