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パラレルピープル

先日、朝の情報番組を見ていたら、あるバンドがこんな事を言っていた。

「ライブに来れなかった同級生に、少しでも参加した気になってもらいたい。だから、ライブで着ていたTシャツを洗わずそのまま送るんです。」



僕は今まで、「パリピ」とか「陽キャラ」とか言って陽気な人を穿った視点で見てきた。
しかし、最近は自分の視野の狭さを感じることが多い。

自分の周りにいたパリピなど、まだ氷山の一角に過ぎなかったのである。

世の中には、100%善意で汗だくのTシャツを送りつけてくるようなキングパリピが存在する。
しかもそれを喜んで受け取るキング同級生が存在する。
こんなにも狂おしいのに、双方の合意がとれているキングコミュニケーションが存在するのである。

人は生まれた時は皆同じベイビーだったはずなのだが、人生のどの分岐点でどんな選択をしたら自分はああいった人間になれたのだろうか。

僕はこういう人は、もう同じ世界線の人間ではないのだと思っている。

いわゆるパラレルワールドの人。パラピである。

住む世界が違うので、パラピの思考回路を理解することは一生できない。



しかし、パラレルワールドの住人からすれば僕の行動も理解不能なものであるはずだ。

「なんであの人はBBQで服を脱がないんだ?」とか思われてるに違いない。



パラピとか言ったが、実際にはああいう人達と自分は同じ世界線の人間である。SFの話ばっかしてないで、現実と向き合わなければいけない。

ただ、人生の中にある選択肢を操作するだけでは絶対に相容れることのない違いが人間の間にはある。
先天的に人の顔が違うように、もう「生まれつき」としか言いようのない思想上の違いが人間の間にはある。

「汗だくのTシャツを送りつける」行為を善とする人とそれが理解できない人がいることは、同性愛者と異性愛者がいるのと同じようなものだ。

「何を善とするか」は、広義で捉えれば性癖のようなものに他ならない。
100人いれば、100通りの「善癖」があるだろう。



最近、Twitterで「体育祭で上裸になり、背中に彼女の名前を書いて戦う」という風習の高校が話題になっていた。

僕が理解できないタイプの人間はなんでこんなにも脱ぎたがるのかよく分からないが、「性癖」として野外で裸になりたがる人もいるので紙一重なんだと思う。

このツイートに対する反応は半分が「なんだこれキモ」だったが、もう半分は、「青春だね~」とこれまた100%純粋な気持ちでこの風習を礼賛するものだった。

この行為を心の底から「善」とする癖の人間も存在しているのである。
セナカニオンナノナマエフィリアである。



性癖とは生まれつきのもので、変えろと言われて変えられるものではない。だから差別もしてはいけない。

しかし、たまにまだ名前もついてないような特殊な性癖を持ち、時にはその癖のせいで罪を犯し逮捕される人もいる。

僕らはそれを第三者目線から「なんだこいつキモ」と笑うことはできるが、「もし自分がこの性癖のもとに生まれていたら…」と思うとゾッとする。



同じように、「もし自分がビショビショのTシャツを送りつけることを善とする神経を持っていたら…」と思う。

「思い出をシェアしたい」と思った時に、写真を送るでもなく、電話をするのでもなく、その時着ていた服を郵送するという選択肢が思いつく自分。

満面の笑みで汗まみれのTシャツを脱ぎ、ジップロックか何かに入れて、ダンボールに梱包している自分。

それを受け取った同級生の、喜ぶ顔しか思い浮かばない自分。



正直、同じようにゾッとする。今の僕には理解ができない。

自分が、自分の理解できる自分で良かったと思う。

そして、汗だくのTシャツを送りつけたりする人も、背中に彼女の名前を書いて戦う人も、その癖が自分の中で腑に落ちているならそれでいいと思う。

自分の嗜好が自分で理解できるのは当然と言えば当然なのだが、あのバンドはそのことのありがたみを教えてくれた。

いつしか、僕を僕として生んでくれた親に感謝すら覚えてきた。




ちなみに、例の高校の体育祭で、彼女がいない人は背中に母親の名前を書くらしい。



























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