「正義の反対は別の正義」ならば「悪の反対も別の悪」にもなり得るような?

時事の話題に関して。

なんだか「優性思想」だとか「ナチス的」だとかそんな物騒な言葉がちらほら目に入ったので、ちょっと思うところを書いてみる。けど、一部の「強い正義感と信念」を持った人を除けば、全然目新しいことじゃない。いわゆる「ノンポリ」と言われるような人ならたぶん、誰もがうっすらと普通に思っていることだと思う。


現代社会において、ナチスは巨悪の代名詞。そこに「正しさ」を見出すことなど一切できず、完全かつ純粋な悪とされてきた。フィクション作品でもなんでも、ナチスを出せば絶対悪。グラデーションは、ほぼない。まあ、旧日本軍も似たような扱いを受けるのが常だろうけれども、そこは、勝てば官軍負ければ賊軍という定番の話でもある。

もっとも、ジョジョやキン肉マンなどの日本の作品を見れば、少なくともフィクション作品における表現は、昔はもうちょっと緩かった気もする。日本だからだったのかも知れないけれども。

でもたぶん、今は同じキャラや演出はできないんじゃないかな。これは当事者世代がほぼ他界したことで当時の空気感を知らない非当事者ばかりとなり、教義と概念の原理主義化がより強まったのだろうとは思う。差別や戦争責任などの問題もこういう傾向があって、何事も遺恨は世代を超えると解決が一層難しくなると思うんだけどね。


ただ、そうやって社会はがナチスを「絶対悪」として不可触の悪魔化させてきたことで、かえってナチスの過ちが人間ではない「悪魔の仕業」とされ、「善良な市民の正義とは無関係」的に、他人事に理解されてきた面がある気がする。当然ながら、いかに悪魔的であろうともナチスも本来人間で、ナチズムは「人が自然に持ちやすい感情や正義の延長にある」はずなのに。


特に自分の「正義」「優位・優秀さ」を信じて疑わなくなったところから始まる他者への攻撃や不寛容、「言うこときかせてやる」みたいな同調圧力(「リベラル」だとか「フェミニスト」に良くみられるよね)こそが、まさにその萌芽だと思うのだけれどね。知らんけど。



もちろん、ナチスを擁護するつもりなんて一切ない。それでもナチスを「悪魔」ではなく「同じ人間」としてフラットに知ろうとするだけでも、「絶対悪として否定せねばならない存在」へのタブーを破る扱いで、激しく批判されてしまうのだろう。

しかし、そういう雰囲気こそが、かえってナチス的なものへの警戒や抗体みたいなものを妨げた面もあったのではないかな。まるで、「ナチズムは悪魔が患うものであって、人間が患うものではない」みたいな。本来は人獣共通感染症みたいに、人間悪魔共通感染症? なのに。


自ら悪魔になろうと望み、酷いことしてやろうなんて思う人間なんて稀で。

悪魔のような行為が起こってしまった結果はいつだって、最初の動機は迷いのない強い正義やよかれと思っての善意、「涙でてきた」「震えがとまらない」激しく揺さぶられる感情や使命感から生み出されてしまっているのだろうからね。

そういう意味では、たとえば「ネトウヨ」「パヨク」などの勝手なレッテルをはって「異質な存在」「敵」としてしまったり。

自己満足のために他人の存在や考えを全否定したくて、「議論」「批判」を装いながら実は相手を「叩く」「潰す」などが目的化した攻撃なども、ナチス的なものの萌芽なのかもね。



…にもかかわらず、「ナチスは絶対悪」ゆえにハードルが高くなりすぎて、やってる言動が実にナチス的な行為であっても、やっている方は「まさか自分がナチスほど酷い悪であるはずがない。アレは悪魔であって、こっちは人間だぞ?」的になりがちで。

一方でそうした他者に対する「ナチス的だ」との批判や指摘もまた、「ネトウヨ」などのレッテルと同じ「敵認定」と同じ使い方をされてしまいがちで。


「絶対悪」としてケガレ化・単純化・概念化されたがゆえに、多くの人にとって現実離れした存在となってしまうことの方が、かえってナチス的なものの危険性や誰もが陥るリスクなどの理解を妨げ、その復活に寄与してしまっているんじゃないかなぁ、と。それが、なんとなく怖い。

「次にファシズムがやってくるとき、彼らは、『反ファシズム』を掲げてやってくるだろう。」という良く耳にする言葉が、第二次世界大戦でファシズムと戦ったブルガリアのゲオルギ・ディミトロフという方の言葉らしい? と聞くと、なんとも生々しくもある。


つまりなんていうか。


みんな大概、断じて自分達の正義や味方がナチス的だなんてつゆほども思っていないけど、自分の「敵」はみんなナチス的な悪だと信じているよ。きっと、当時のナチスを支持した人たちもそうであったようにね。

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