「批判」と「誹謗中傷」は、どちらもコールセンターへの苦情電話。あるいは薬物のようなもの?
昨日書いたこの記事の中で、
「電話が24時間鳴りやまないようなものだ」
と書いた。現代社会では「批判は拝聴されるべき善」という、うっすらとしたバイアスが社会的合意になっている節まであって、そこに付け込んで「批判」を免罪符のように自称しての攻撃が盛んになっている。結果、これを一身にぶつけられる側は多くの場合、不当なレッテルをはられたり、一方的にリソースを奪われたりもする。
ふと思ったのは、もしかしたら「批判」も「誹謗中傷」も、電話のようなものなのかもしれない。しかも、それらはいずれも「苦情の電話」。
当然、苦情にもさまざまなものがある。建設的な意見であれば商品やサービスの改善にもつながるだろう。一方で、最近はほとんどのコールセンターで「この電話はサービス向上のため録音させて頂いております」のメッセージが事前に流れることの意味、そうなった理由も考えた方がいいかもしれない。
どのような案件であろうとも、個人が受けきれる件数って、たかが知れているようにも思うわけであって。全てを拾いきれないなんて当たり前ではあるのだよね。
電話をかける側は、なかなかつながらない電話にイライラしながら、受ける側は常にイラついた相手に対応し続ける。なかなかの地獄案件じゃないだろうか。ましてや、企業ですら相当苦慮しているのが苦情対応。そういうのが個人に集中するわけで…。
たとえポジティブな、嬉しい電話であったとしても、受けられる量には限度がある。ましてや、玉石混淆の「苦情の電話」が殺到した中で、果たしてそれを一身に受ける側にとって、「批判」と「誹謗中傷」とをわける余裕はあるのだろうか。
水溶液に飽和量があるように。コップに入る水の量が限られているように。
状況次第では、そもそもそれらをわける意味すらなくなってしまうのではないだろうか、なんても思える。
ふと。
東電原発事故後に身に付けた「量の概念」が、もしかするとここでも役に立つのかもしれない。
放射線は人体に有害で危険なものだけど、自然界にも太古の昔から存在している。重要なのは、「どの程度の量を受けるか」。日常的に使う薬だってそうだ。どんな有用な薬であっても、用量・用法を守ることが鉄則ではある。
ならば「苦情電話」とは別のたとえとして、「批判」や「誹謗中傷」はいずれもさしずめ「薬物」ともいえるのかもしれない。「薬」と「毒」とは紙一重だし、副作用もあれば用量・用法もある。
素性の知れない赤の他人が「良薬口に苦し」だといって善意で無理矢理飲ませようとしてくる「批判」って、だいたいこういうオチになりがち。
「良薬」として他人に飲ませようとするとしているものは、副作用やアレルギーが出るかもしれない。実はただの毒であるかも知れない。なのに、とにかく「批判」というお手製の薬を飲ませようとする。
挙句、相手が他にどんな薬を服用しているのか、飲み合わせや用量(事情や背景)にも興味がない。そんな状況でデタラメな処方がされれば、無理やり飲ませた大量の「批判」(≒要求)が、たとえ「たまたま」運良く良薬だったとしても、人はあっさり死ぬ。
どう見ても毒でしかない「誹謗中傷」は論外としても、「批判」もまた、「良薬」だからといってむやみやたらと人に飲ませようと迫るものじゃないのかもしれない、なんて思ったのでした。
まあそもそも、見ず知らずの他人にやたらと「お薬」飲ませようと迫る側ってのも、考えてみたら結構ヤバい奴だよね。「批判を聞こうともしない!」と怒りすぎるのも、お門違いなのかもしれない。「薬物中毒」なのは、いったいどちらなのか。
……まあ、それでも、差し出されたたくさんのグラスの中から、いくつかを飲まなければならない機会なんていくらでもあるわけだけれども。
そんなときは、出来る限り毒を避けた飲み方が求められるのかもしれない。
たとえば、ロシアの怪僧『ラスプーチン』は、たびたび毒殺されそうになりながらも、グラスを持って厳寒のロシアの屋外に出て、「(毒などの不純物がないために)凍らなかったグラスのみを飲んだ」という逸話もあるので、そういう歴史的な知見なども参考にしていきたいところだね。
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