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感想:ゴジラ-1.0の3つの違和感(ネタバレあり)

 ゴジラ-1.0(以下、マイゴジ)に関して、SNS上の評判を見回すと好印象の反応が多い。全米における評価も追い風となり邦画としては成功の部類と言っても差し支えないといえる。さすが、ゴジラである。
 しかし、その反面、マイゴジの評価に対する否定的な声も一定する存在することは事実である。
 本映画を観た個人的な感想は、後者寄りであることは否めない。最近の風潮では、"逆張り"といわれてしまうだろうが、本映画を鑑賞した中で感じた違和感を言葉にして纏めることは、重要だろうと思い書きつけることとした。
 本映画で感じた違和感を次の3点に切り分けて述べてみたい。①違和感のある"戦中・戦後"、②人間ドラマ③オマージュの強調である。順番にみていこう。

①違和感のある戦中・戦後描写

 本映画の重要な点は、時代設定だろう。既に、宣伝の段階で、終戦間もない頃の"戦後"が強調されており、戦後=戦争の爪痕を重要な点としている。本作品のキモである人間ドラマの主人公が特攻隊員の生き残りであるというのも、その点を表現するためであるだろう。
 個人的には、その戦中・戦後の表現に対しては、違和感を感じざるを得なかった点が、幾つか存在する。
 まず、登場人物の雰囲気や態度が(漠然としているが)、戦争を経験したキャラクターとして感じられないのである。
 例えば、主人公が特攻を拒否して故障と偽り、大戸島に不時着する場面である。自らの故障という嘘に対して、後ろめたさを感じながら海岸で物思いに耽るシーンである。
 ここで、ひとりの整備兵が主人公の嘘に対して、"そういう人間が1人居ても良いんじゃないか"といって赦すのである。
 終戦の間近であるこの時期、戦争の結果が見えてきた時期であることを踏まえると、必ずしもおかしいとは言えないかもしれない。
 しかし、既に、大勢の若者が航空特攻で死んでいる現実がある中、この一言で主人公の行いを片づけられるのだろうか、あまつさえ、整備不良と偽っているのだから、整備兵の立場から考えればパンチの一つくらい、軽蔑の一言がある方が普通ではないか。と感じてしまう。
 ここを、始めとして登場人物の雰囲気や態度が、現代人の感覚に近いように感じ、戦争を経験したキャラクターとしてみられないのである(ただし、安藤サクラの演技は良かった)。 
 次に、占領軍の存在である。本映画では、主人公等を活躍させる為に、徹底的に占領軍の存在をみせない。出てくるのは、ワンカットだけである。"戦後"という時代設定を選び、強調しておきながら、重要なファクターである占領軍が宙に浮いているのは違和感を感じた。
 例えば、ヒロインが主人公に"パンパンにでもなれというのか!"と言い放つシーンがある。ちなみに、パンパンとはアメリカ兵を相手に売春をする街娼のことである。
 しかし、銀座のシーンをみてみると、パンパンの相手であるアメリカ兵の1人も居ないのである。ギブミーチョコレートといってジープに群がる子供の話は、誰でも知っているのではないか?この時期を扱ったNHKの朝ドラでも、民放のドラマでも、アメリカ兵はかならず登場してくるのにも関わらず、マイゴジには一切現れない。
 先に述べたように、主人公達がゴジラと戦うことになるのは占領軍が戦えないからだ。理由は、"ソ連との関係が"ということになっている※1。
 だが、自国の軍艦や船舶に被害が出ているのに、大した戦力もなく、あまつさえ、侵略戦争を引き起こしたような国に任せるだろうか?
 ゴジラが上陸して、銀座を襲撃して破壊の限りを尽くす。その過程で、ゴジラの熱線が国会議事堂と周辺を破壊するが被害については以下の様に述べられている。

膨大な体積に膨れ上がった元固体は、人知を超えた「物質の水蒸気爆発」とでも言うべき爆発を起こし、巨大な火球と化したそれは、あたりのものを無慈悲に巻き込みながらすさまじい勢いで膨張していった。
 その爆発プロセスが起こした爆風は、周辺の建造物を、紙細工のように破壊しながら、半径六キロの範囲すべてを粉砕し尽くした。

山崎貴『小説版 ゴジラ-1.0 』(集英社オレンジ文庫)

東京の地理に詳しい人間ならば、国会議事堂から歩いてすぐの所に、特徴的な第一生命ビル(GHQの司令部)があることに気づくだろう。当然ながら無事であるわけがないのである。 
 終戦直後を舞台としているにも関わらず、占領軍の存在を徹底的に出さないことによって、リアリティーが損なわれている(※2)。
 確かに、主人公達とゴジラを戦わせる為に占領軍の問題は厄介であるのは理解できるが、"ソ連が〜"という言い回しで、それを片付けてしまうのは、やや牽強付会であるように感じるし、そこから、占領軍が出てこないのは"主人公達と戦わせる為"という事が目に見えて分かってしまい、個人的には物語に対する没入感が醒めてしまった。

②人間ドラマについて

 本映画に関する批判として"人間ドラマは要らない"という意見が散見される。確かに、ゴジラに対して"サイエンスフィクション且つ怪獣映画"を求める気持ちは非常に分かるし個人的にも、そちらの方が好きである。しかしながら、ゴジラ映画は時代によって描かれ方が違うし、また、断る毎に"人間ドラマが雑"であるという批判が─特にVSシリーズの際に─時々にあったことを忘れてはいけないだろう(※3)。
 その観点から、考えるならば、人間ドラマが中心のゴジラがあっても良いのではないだろうかとは思う。
 本作の人間ドラマに関しては、その先の展開を読めてしまうという点で大した特徴はない。個人的な感想としては、可もなく不可もなくという評価である。
 これは、ワガママになるが、ヒロインのキャラクター性はもう少し肉付けしても良かったのではないか?とも思う。
 ヒロインが主人公にとって都合が良すぎるような気がしてしまう。PTSDを患った主人公をひたすら支え慰める役回りをこなす清廉であり、よくあるヒロイン像であるといえる。
 個人的には、観ている人を強く惹きつける属性や背景があっても良かったのではないか、一緒に観ていた友人が"実際にパンパンをやらせれば良かったのだ"と激昂していたが、確かに、パンパンやりながら孤児の面倒をみるヒロインというのも良かったかもしれないし(※4)、ただの空襲で焼け出されたのではなく、広島か長崎で被爆している設定でも、ベタだが、ありだったかもしれない。
 PTSD=戦争の傷跡を持つ主人公と、ただ空襲で焼け出されただけではなく、何かしらの苦渋を引き受けたヒロインという組み合わせのほうが、焼け跡の中で、子供(当然これは、ゼロからスタートする"日本"の表象であろう)を通して日常生活を再建し、それを破壊しようとするゴジラ(戦時の業あるいは亡霊の表象、ゼロをマイナスにする存在)を倒して、未来を掴みとる。というプロットを更に引き立たせたのではないか?

③オマージュの強調─シン・ゴジラへの視線

 本作では、今までのゴジラ作品のオマージュが散りばめられている。いちばん分かりやすいのは、銀座襲撃シーンだろう。ここは、54年版ゴジラである。次に、米軍が登場してくるワンカットである。これは、ギャレゴジのオープニングタイトルだろう。そして、特に意識されているのは、シン・ゴジラである。
 オマージュ自体は、非常に分かりやすい。54年版を意識した部分は、いつものゴジラのテーマが流れて盛り上がった。米軍のワンカットも、あそこだけ切り抜けば悪くはない。
 しかしながら、オマージュしていることの分かりやすさが、先に立つのは否めない。
 いちばん、気になってしまったのは、シン・ゴジラを意識したであろう旧海軍軍人が集まってアレコレする組織である。その組織自体よりも、そこで、断る毎に"民間が主導で〜"、"民間が〜"とセリフが挿入される点である。
 シン・ゴジラへの対抗が分かりやすく読み取れてしまう為に、急に、物語からメタ的な視点へと切り離されてしまうために興醒めしてしまう。ここは、民間という部分を強調しすぎなかった方が良かったのではないかとも思う、民間の力を強調することが、監督なりの現代社会に対するエールであり、本映画でいちばん伝えたかった部分であることは理解できるが、正直いってクドいと感じてしまった。
 他にも、終盤のゴジラと戦い決着をつけるシーンについてはオマージュを意識したのか、偶然似たような展開になったのかは不明ではあるものの、ゴジラの倒し方やゴジラの死に方を含めた展開がGMKとソックリでありオリジナリティを見出せなかった。

 以上が、マイゴジを観て感じた気になった3つの部分である。
 総評として、マイゴジを評価するならば、この映画だからこその特徴やパンチが無かった。
 監督は恐らくこの映画を通して、我々自身の力で未来を切り開くこと語りかけたかったのだろう。すなわち、現代の何もしない政府、無責任なアメリカどちらも不都合なことは語らず問題を解決しようとしない(※5)、そういった公的なものに期待せずに自分たちの手で解決するしかないと伝える為に、それらが、更に際立つ戦後直後を設定したのだろう。
 しかしながら、戦後に関する表現は、作り込みが甘く、この時代をこだわって選んだにしてはチグハグで上手く活用できていないように感じ、主人公やヒロインのキャラクターに強烈なインプレッションを感じる様な造詣ではなく、オマージュについては分かりやすすぎた為、メタ的な方向へ意識が飛んでしまい物語から引き離されてしまい醒めてしまう。特に、いちばん重要である"民間〜"の部分は、シン・ゴジラへの対抗としてのオマージュに回収されてしまい、本来、伝えたかったことが、充分に伝わっていないのではないかとも感じた。
 ここで、安易に比較するのは、よくないかもしれないが、同様のテーマ性で言えば、殆ど同時に上映された"鬼太郎誕生ゲゲゲの謎"のほうが、丁寧に描かれており、出来としても軍配があがる。主人公である水木のキャラクター造形に加えて、映画に登場する人々や雰囲気に関して─また人間ドラマとストーリーも含めて─強い印象が残る作品であった。正直にいって、マイゴジよりも人に勧める映画としては"ゲゲゲ"を選ぶ。
 ここまでマイゴジで感じた違和感ばかりを述べてきたが、最後に良かった点も幾つか触れておきたい。
 まず、CGの出来は文句なしに素晴らしかったしコマ割りも悪くなかった。特に海に関する表現は大変良かった。船の下や海中を泳ぐゴジラのシーンはなんとも堪らなかったし、転がる路面電車や軍艦の造形などもよく出来ている。個人的には、終盤の浮上装置を備え付けて戦うシーンは、昔の東宝映画の特撮(妖星ゴラスや宇宙大戦争etc)の雰囲気を感じたし、ゴジラに立ち向かうシーンで"ゴジラのテーマ"が流れるところは"本来の使い方"を意識していて良かった。

※1 これは、オタク的なツッコミとなるため完全に蛇足であるが、太平洋や日本本土でアメリカ軍が活動するよりも、日本に再軍備を促すような政治的策動をする方が、よっぽどソ連の反感を買うのではないだろうかと思う。
 再軍備はアメリカが勝手に行えるものではないか。極東委員会(FEC)への諮問とソ連に対する説明、高雄を接収していたイギリスとの折衝などはどの様に実施したのだろうか。

※2 それはそれとして、あの"ダグラス・マッカーサー"がゴジラに何もしないのだろうか。あの男なら、自分の名誉の為に、FECの決定を待たずに勝手に戦いを挑みそうである。─"戦争を勝利に導き、モンスターを打ち倒した男。ダグラス・マッカーサーを大統領に!"48年大統領選挙のスローガンとしてもうってつけではないか。

※3 人間ドラマのあるゴジラとして、個人的に想起するのは、62年のキングコング対ゴジラである。人間側のコミカルなストーリーが良い。ゴジラシリーズにおいて、人間ドラマは確かに等閑視されていたのは否定できない、54年版ゴジラもプロットは、当時よくあったメロドラマと怪獣映画の組み合わせである。

※4 話は脱線するが、典子は吹き飛ばされて死にかけ、せっかく助かったのに変な痣ができる。主人公とヒロインの関係性、すなわち恋愛要素だが、鑑賞側が感情移入する手段として、ヒロインを酷い目にあわせるのは日本文学ではよくある形式である。そういった意味でも"お約束"であり、敷島が1人でウジウジと悩み、典子と仲を進展させないのも伝統である。詳しくは、斎藤美奈子『出世と恋愛 近代文学で読む男と女』(講談社現代新書)を見よ。 

※5 秋津艇長が"情報統制はこの国のお家芸だ"という場面がある。個人的には、二重の意味があるようにおもう。まず、一つ目が、戦前の日本を指すそのままの意味である。二つ目は、アメリカによる口止めの間接的な暗喩である。占領期、GHQによるプレスコードが存在しており、占領軍による検閲が引かれていた。
 そこから、何もせず隠し事の多い日本政府、無責任に事を起こしても語らないアメリカ(PFASの件を想起して欲しい)という現代的な批判へ繋げたかったのではないだろうか?というのは、あくまで深読みであり、推測の域をでない。


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