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大学時代の自分を懐古する

先日、Twitterでも書いたとおり、慶応理工院の授業で話したわけですが、学生の方へのアドバイスを求められ、良いか悪いかわからんけど、自分の学生時代のアクションと転機を振り返ったら参考にはなるかな、と思いまとめました。Twitterのスレッドで垂れ流そうと思ったのですが、長くなったのでnoteにまとめた。結果、ただの自己開示です。

■入学前

いきなりですが、自分は浪人までして東大落ちて慶応行きました。こういうのあんま書くもんじゃないとは思いつつも、もはやコンプレックスとかアピールの精神がある歳ではないし、大きな転機でもあったのは事実なので残します。
浪人すると、当初は現役生との差分があって、模試でA判定とか出まくるんですよ。全国ランキング20位とかも出るわけだ。これで調子乗って、基本情報技術者とか、Javaの勉強を始めるわけですね。そしたら受験落ちたwというやつです。もうね、これは人生の最大の教訓で「途中経過が良くても調子乗るな。余裕ぶっこくな。」です。
※中2くらいからプログラミングはじめてて、ソフトウェアエンジニアになることは当時から決めていました。父親もハードウェアエンジニアだった。

■大学1年

ということから、大学1, 2年くらいまではスネてましてね。自分は他のやつと違うんだっていうことを証明するために、意識の高い活動をはじめるわけです。それこそ大学1年で謎に就活イベント行ったりね。大学3年に混じってグループディスカッションとかしてました。その意識の高さからか、起業家という道を意識したことにもなります。

ちなみに入学時はアレックスというテニスサークルに入りました(中学からテニス部だったので)。2年の夏くらいにやめましたが。全然関係ないですが、大きめの総合大学のテニスサークルって、新入生を100人くらい大量採用して入会金を集め(2万円だった気がする)、徐々にフェードアウトしていって2年から30人くらい残って、まともな人数になるっていうビジネスモデルなんですよね。自分もそのフェードアウト組です。

エンジニアであればとにかく早く実務経験を持つべしと思い、エンジニアバイトを探しました。当時Web2.0直前の時代で、mixiが出て1年経ったくらいの頃です(2005年)。入ったのはoregaって会社で、ERPかなんかのパッケージソフトを開発してて、デバッグ作業するテスターはじめました。EclipseでJava開発で、ひたすらテストDBにテストデータ入れたり、UIの挙動を確認したりする係してました。正直、ここで何が学べたか?っていうとあんま覚えてないですね、、、一応、情報工学科だし、基礎的なプログラミングはできたつもりだったのですが(当時はPerlでCGI)、当時の自分のマインドだと、テスターやっても得られるものがなかったように思えます。テスターってマニュアルどうりにやればできるので、仕組みとか理解しなくていいんですよね。とは言え、学生で実務経験ない学生にコード書かせるわけにもいかないし必要な役割ではあるので、難しいところだと思います。

その後、@ucyyのmixiの投稿を見て、ALBERTって会社で同じくテスターバイトはじめました。理由は時給が高めだったから。ただ、こちらは当時B2Cのサービスを中心に展開されていて、今で言うWebっぽいカルチャーで自分のウマと合ったのか、(変に)キャラ立ちして気に入ってもらえて(ここでテニサーの経験が活きて、コールで一気飲みとかカラオケで踊るとかしてた)、社長の上村さんに、新規事業のコード書かせてもらえました。Javaですね。とりあえず最速で動くものは作れたので、一応戦力にはなったと思いますが、後日全部社員の方に書き直されたと聞きましたw当時、デザインパターンとか全く知りませんでしたからね。とりあえずデータベースとつながるところはFactoryって名前付けとくか、くらいのノリ。すみませんでした。

バイト以外だと、起業サークルなるものが各大学で興り出してて、同じ学部より学部外・学外の人たちとつるむようになってました。何やってたか覚えてませんが、なんか色々リサーチして議論してた気がしますね。
そして、この年にライブドア事件が起きます。ヒルズに家宅捜索が入ったのが2016年1月。この時、これからはITで起業や!って言っていた学生がさーっと引いていきました。当時SNSとしてのmixi全盛で、各大学のSNS立ち上げプロジェクトが大量発生していたのですが、これきっかけでシュリンクしていった記憶。その代わり、NPOとかソーシャルベンチャーに学生が集まりだします。

自分は生粋のITだったので、IT界隈に残ったわけですが、逆に人が減ってエッジが立てられたので良かった気がします。Web2.0ムーブが日本ではじまるきっかけであるウェブ進化論が発売されたのものこの年です。スマホ発売前で、ソシャゲも出る前。学生で稼ごうとしたら、営業代行・学生就職斡旋・受託開発しかなかったですね。

起業サークルで言うと、東大のTNKが中心的存在で、同世代だと2代目代表のNYLEの飛翔くんとかが当時頑張って盛り上げようとしていたような。そう言えばその流れで、与沢翼氏の会社も手伝ってたりしましたね、、、当時は情報商材とかではなく、ギャル男の服をモバイルで売る事業をしていました。この後もずっと学部外の人たちとつるむようになって、逆に学部内の知合が過疎りました。学部で卒業するつもりだったし研究室も適当に選んで、結果、起業家の知合ばかりになって、起業時の仲間集めに苦労しましたね。皆起業しちゃってるか、起業に疲れて大企業行く人しかいなくて、誘う人がいないという。起業しちゃうといよいよ友達なんて作ってらんない(むしろ仕事に関係ない人とは会わなくなっていく)ので、起業前の友達の多さ大事です。

あと普通のバイトしたことないコンプレックスがちょっとあって、接客とかしてみたかったとは思います。もうずっとITでしか働いたことない。実はスタバとか青山フラワーマーケットを受けたりはしたことあるんですがw(スタバは受かったけど次どうするか知らなかった、花屋は書類で落ちた)。

■大学2年

ウェブ進化論読んで自分も「インターネット!」っていう感じになりまして、アメリカのウェブサービスを紹介する 100SHIKI というブログでライターインターンを募集していて、著者の田口さんに入れてもらいました。応募は自分だけだったと聞きますw今だったら20人くらい集まりそうですね。はじめてインターネット界隈の著名人との接触で、なんか色々ドキドキした気がします。そこでブログの書き方を教わりました。同時に、頻繁にインターネット界隈の人の飲み会に誘ってもらえたり、一気に世界が広がった気がします。その流れで、弊社株主の太河さんとも出会いましたね。ユーザーローカルのイトマサさんもこの頃。

そんな中、やっぱりコード書きたいと思ったのかどうなのか、当時ウノウという会社がありまして、メルカリの進太郎さんの前の会社ですが、そこでウノウラボっていうエンジニアブログがめちゃくちゃ有名で、それ見て自分もその一員になりたいと思いバイトで応募して入社しました。PHPです。映画生活っていうサービスの細かい機能を実装していました。当時は進太郎さんとはあまり接点がなくて、CTOの尾藤さんはじめエンジニアの方とのやり取りが多かった気がいます。COOの石川さんとか。進太郎さんはちょうどまちつくを作り出してました。あと、社員ブレスト会議かなんかで、当時サークルのメーリングリストが不便でccにメールアドレス入れたら登録されるようなサービスがほしいって言ったら採用されて、リリースされました。「これは8makiのアイディアって言っていい」と進太郎さんに言われた記憶がありますw

この頃になると、それなりにプロダクションのコードも書けるようになっていたので、ちょいちょい受託で仕事受けていたりしました。人月30万円とかだった気がします。インターネット界隈にいると、上記の事件でIT系の学生は珍しく、コード書ける学生はさらに珍しいので、重宝された気がします。そのお金は全部合コンに消えていた気がいます。なぜか週イチくらいで合コン開いたり行ったりしていましたね、、なんでですかね、、、
あと、CNETで学生ライターとして、インターネット系の記事を書き始めてました。岩本さんがいた。ここで記者がサービスを紹介する時の気持ちがちょっとわかった気がいます。
この時くらいに、ANRIさんと会いました。渋谷でソーセージを食べた記憶があります。大学は一緒で2学年上。当時は全然ハマってなかったように思いますw

■大学3年

大学3年になると受託の単価も60万円とかになって、割とお金ができるようになりました。無駄に年会費のかかるグリーンAmexカードを持ってましたね。将来お世話になるだろうから今のうちに関係値を築いておこうってね。それでまた調子乗って意識の高い就職活動・インターン活動を開始して、ゴールドマンサックスとかリーマンブラザーズとか、フォルティスっていう欧州系のファンドでインターン/ジョブしてました。多分、人生で一番鼻が高い時期でしょうね。思い返すと大学3年は就活のことしか記憶にないですね、、、リクルートとか、ワークスアプリケーションズとかのインターンも行きました。

とは言え、根本的には金融市場を回すことに興味があるわけでなく、金融×テックに興味があるんだ、というのに気づいた時でもあります。それまでは、就活で目立つためにイスラム金融について調べたりとか、無駄にドバイに行って不動産を買うふりをしたりしていました。ちなみにこのポジショニングは、就活という点においては意味がありましたね。最終面接で落ちそうになった時にこの話をしたら繋がったことがありますwこれが良いポジショニングかどうかは別として、人と違うネタ・ポジションを築けていると目立つので、ユニーク×アウトプットは当時から今も意識しているポイント

なお起業時は、日本でレバレッジかけれる資源は人と金だと思い、教育と金融で考えたのですが、エンジニアとしてデータ解析やりたかったので、相性の良い金融領域を選ぶことになります。金融業界でのインターン経験もあったから選べた、という点では意味があったと思います。

■大学4年

ことごとく金融系は落ちて、いくつかコンサルで内定はいただいたのですが、もっと亜流の道が良い!と思い、マニアックな外資を探し始めました。結局、当時は金融という産業よりも、誰も知らない時代に入って出世した外資の偉い人に憧れてただけだったわけですね。国会図書館に通って、外資系企業総覧みたいなのを見て、リストアップし、片っ端から連絡した気がします。ただ、英語も微妙な学生を採用するようなところってほぼなくて、しかも給料もちゃんと上がっていきそうなのってブティック・ファンドくらいしか見つからず、うーむとなっていました。あ、そう言えば、ここでCoralの澤山の親父さんがプロフェッショナル寄りの人材エージェントやってて、インドのITとか紹介してもらいましたねw澤山はGSのインターンが一緒だった。

その後も、悶々とこじれた意識高めの就活をしていたわけですが、そんな中、IVPの小野さんとお会いして、IVSの学生スタッフをやらせていただくことになりました。今でこそ毎回20人とかいっぱいいますが、当時は5, 6人の少数精鋭で、受付やスライドのスイッチングとかしていました。そのアフターパーティで太河さんと再開して、ちょうど進太郎さんもいてうまく紹介いただいて、家が近所だったので月一でお会いするようになりました。詳細は下記で。

結局、シリコンバレー行った時にWiLの伊佐山さんにお会いして、ベンチャー行くかってなって前職へ入社、手伝いだした流れです。冒頭の画像は、シリコンバレーでホームステイした時の写真です。その後は上の記事のほうが詳しい。

大学4年時には、今のカンムの株主の多くの人達と接点があり(有安さんとか)、当時から意識して投資家と接するようにしていた結果としては良かった・ありがたかったのですが、逆に言えば学生時代に起業もしていないのに界隈のことが一定わかってしまって、オールインできなかったりアナリストっぽくなってしまうという耳年増(アンリさん命名)に陥りがち。本格的な事業の立ち上げが1.5年くらい遅れた気がします。なんか、著名な人たちとつるんでるだけで進捗してる気持ちになっちゃうんですよね。これは割と注意案件だと思います。

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あんま学生の方の参考になるような記事になりませんでした。結論、
・人と違うことをしろ
・ちゃんと目立て(他の人に見出されないと意味ない)
・結果出せ(自分で稼ぐ力を身に付けろ)

くらいかなー。特に3つ目。学生時代に稼いでる人が起業時に強い印象。周り見てると学生時代に稼いでる人ばかりです(hey佐藤さんはネット自転車屋、naoko-sanは靴とか輸入していたらしい)。

自分は、
①コーディングできるだけでなく、Webサービスや一定ファイナンスにも詳しいという希少性を作れたこと
②ブログ書いたり、目立つ人とつるむようにしていたこと
③受託とは言え営業して稼ぐ経験をしたことで、起業失敗しても食ってける、と思えるようになったこと。稼いだ金でより珍しい機会を得てエッジを立てられたこと(ドバイ行ったりシリコンバレー行ったり)

と、今でこそ振り返れますが、割と結果論。これで起業の成功確率が上がるか?と問われると、そもそもまだまだ成功には程遠い身だし言えることもそんなあるわけじゃないのですが、結局、起業後の成長率勝負です。とは言え、学生時代の活動と出会いで人格形成されたのは事実ですし、普通に楽しかったので後悔とかはないです。
(あまりにもIT起業に最適化された20歳以降の人生なので、もうちょいIT以外のことで好き嫌いに向き合うことをしてても良かったな、とは思います。)
(とは言え、小学校の自由研究からずっと、世の中にないものを作って皆をびっくりさせる、が根源的な欲求なのでものを作り続ける気はします。)

ちょっとマジで仕事関係ないポストになってしまいましたが、カンムでは全方位で採用しているっていうのと、

インターンも募集しているのでご興味ある人は!


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