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「はっきり喋らない人」

・私の社交不安とか今までの声の出せなさを知らない人に「もっとはっきり喋れ」と言われて嫌だった。でもその人は何も知らないのだからしょうがないし、たしかに私ははっきり喋れていないし、でもまだそういう質的なことを気にする段階にもないし、その説明をしてやる間柄でもないので黙っていた。

・色んなことを聞かれたが私が何を考え感じているか分からなかったので答えられなかった。答えられなかったことで自分は空虚で中身がないのだと劣等感を抱いた。だから人と話していてどんどん気分が落ち込んでいった。かなしい。つらい。今泣いてる。集まりに出るといつもこうだ。嫌な気持ちになる。

・人に話したいことがない。興味の範囲も狭いので人の話を聞いていても関連して自分から出てくる話というのもない。私はあまり他人を必要としない人間なのだろうし、人間のことも好きじゃないんだと思う。結局5時間ぐらいいたけど、あんなに長い間他人と話していて話すことが尽きない人たちの社交性や人と話したい気持ちというのは計り知れない。私とはスケールが違う。根本的に仕組みが違うとしか思えない。私のは必要に迫られて模倣して後付けしたもので、みんなのは生得的についているとか。

・私ではない人のことを「あの人見るからに来なさそうだよね、集まりの場が苦手らしい、自分から全然話しかけに行かないしずっと一人でいたじゃん」などと話している声が聞こえて、私も全く一緒なのでやっぱり周りからはそう思われてるよね…と思った。でも変えられないんだもん。ごめんなさい。罪悪感。劣等感。疎外感。私はこれでいいって思えない。早く槙生さんの領域に行きたい。

・集まりに出ると集まりに出てよかったことなんて吹っ飛ぶくらい(くらいというか実際に吹っ飛ぶ)集まりに出て嫌だったことが心に残ってしまい、いつも嫌な気持ちになる。

・いや、でも私が来たことに喜んでくれた人もいた。私といることに慣れていない人とはやり取りが微妙だった。でも慣れている人とはやり取りができていたと思う。やっぱり複数人で喋るのが苦手だ。一対一ならまだ大丈夫。普段関わらないタイプの人と関わると波長が分からなくて噛み合わない。のかもしれない。慣れれば大丈夫になるのかもしれない。慣れるほど人と話すことってないけど。

・嫌な気持ちになっても人と関わることは「挽回のチャンスをあげる」ことかもしれない。嫌な気持ちを嫌な気持ちのまま打ち切ってしまえば負け損になる。人と関わり続ければ、いつか誤解が解けたり、許せたり、諦めたりして嫌だった気持ちを清算できるかもしれない。

・1個目の「・」について。逆に言えばその人から見て私は今日の関わりだけでは社交不安には見えなかったということだ。社交不安に、というかメンタルに何か抱えているように見えていたら、気を使ってそんなことは言えなかったはずだ。今日の時点だけ見たら私はもはや病的ではなく、普通の人の中のグラデーションの「はっきり喋らない人」にいるのだ。それは私が回復したということで、良いことだ。この言葉に落ち込むのではなく喜ぶべきかもしれない。「私は"はっきり喋らない人"になれたのだ」、と。

・そういえば1個目の「・」の人に「思い悩んでいるように見える」とは言われたので、私のメンタルの負の空気は滲み出てはいるようだ。

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