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人と関わることは、人の凸凹を許すこと

・あっけなく終わった。行ってみれば悪くなかった。

・あまり親しくない人と飲み会などで話すとき、話題は血縁のことや学生時代のことなどになりやすいと思う。そのときに、私には明るく話せる話がない。暗いし消したい過去なので、その話題になって思い出させられるのがつらいし、それを話そうか話すまいか考えたりするのも精神的な負担だ。結局場が暗くなるから話さないで黙っているしかない。でもその選択が間違っているのかもしれない。そういう俗っぽいことをフランクに話せるのが飲みの席というもので、話せば案外みんな暗くならずに流してくれるのかもしれない。こういうところが私が一人で抱え込んでしまうタイプである所以だろうな。

・私は人と話すときに正確さに重きを置きすぎている。だから会話で自分のことなのに「分かりません」が多発する。私は自分の感情や考えや記憶を掴む能力が低いので聞かれてもわからない。わからないからわからないと言うしかない。でもそれでは会話として成り立たない。嘘でもちょっとでも思ったことを断言するほうが会話が続くと分かってはいるが、嘘をついている気持ちになるのでやりたくない。嘘をつくのは苦手だ。つき続けるのが能力的にできない。だから嘘で会話が続くといつボロが出るんじゃないかと戦々恐々とする。そういう気持ちになるのは嫌なので正直に「分かりません」と言っている。このこだわりもコミュ力を上げるには直さなきゃいけないんだろう。

・人と関わるということは、人の凸凹を許すということだ。私にはそれができない(嫌悪感を抱いてしまう)し、できている人がこの世にこんなに多くいる事実に驚いている。そして焦っている。人と関わると不快に思うのにそれを耐えて人と友好的な関係を維持することができるのだろうか?人と関わって不快に思っている時点で向いていないのではないか?

・人と親しくしている人を見て、「私にはできない」と思うことばかりだ。親しい友人はいるけど、気を許せるという親しさではない気がする。意見に異を唱えることができない。相手が言ったことを肯定することしかできない。言われたことを受け入れることしかできない。思ったことが言えない。壁を作っているのは自分だ。

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