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#1 【掌編小説】音楽の実際

 音楽は僕のエネルギー源だ。実際問題として。
 道を歩いている時もひとりで学食をいただいている時も、あるいは授業中でも、とても嬉しい時も、絶望の最中でさえも。実際問題として。
 今、実際問題として、ヘッドホンから僕の両耳に注入される音塊は、脳の酸素とか血液とかセロトニンとかを適度に活性化させて、心臓に届いては血管から全身に行き渡り、手足に歩行を促せる。だから僕は人混みの多い駅前広場をもこうしてすたすたと歩いて、改札を経て山手線に乗ることができる。混み合った車内で僕より背の高い中年男性の鼻息が首筋に当たってる時ですら、僕は内心でメロディを口ずさみ、やり過ごすことができる。実際問題として。
 
 降りた駅の改札を抜けて、きみがいるはずの私鉄の改札の前まで急ぎ足。それも音楽が可能にしてくれる。そこにきみがまだいなくても、僕はメロディと共に、薄い笑みすらたたえながら、待つことができる。
 僕は音楽が好きだから、夢中になって聞いているとあっという間に時間が経ってしまう。それに気づかないことが多い。実際問題として。だから今、僕は時計を見て驚いてしまった。
 約束の時間から一時間近く経つのに、きみはまだ現れていなかった。
 もちろん、実際問題として。
 
『あ……うん、ごめん。なんかお腹痛くなっちゃってさ』
 電話越しにきみはそう言った。
 僕はヘッドフォンの右側を少しずらしただけで通話していたけれど、それでもそれがウソだと分かった。明らかに他の男性の声が聞こえたし、しかもひとりではなさそうだし、そもそも店内BGMらしきものすら聞き取れた。実際問題として。
 
 僕は音楽が好きだけど、音が混ざるのだけは絶えられない。混乱しちゃうんだ。
 だから僕は「今日はもういいよ」と言って自分から通話を終えた。ヘッドホンのポジションを直す。音楽は引き続き心地よく僕にエネルギーをくれる。
 
 その時だった。
 
 ピーッと電子音が鳴って、音楽が止まった。
 何だろうと思ってプレイヤを取り出す。
 バッテリー切れだ。
 
 僕の目の前は真っ暗になる。実際問題として? 分からない。
 音を失った僕はほんの少し狼狽する。
 耳が乾く。
 のどが乾いて水分を欲するかのような本能的欲求で、僕の耳は乾き、音楽を欲している。身体は段々と重くなり、一時間以上立ちっぱなしだった僕の足首が今気づいたみたいに痛み始める。
 音を。
 
 実際問題として、僕はぬかりない性格だ。一瞬の狼狽ですぐに手が打てなかったが、こんな時のためにiPhoneにも音楽を入れてある。ヘッドホンのプラグを挿し直し、僕はまた音楽を聞く。
 
 さて、今朝は見事にフラれてしまったけども、僕の一日は始まったばかりだ。
 乗ったことのない私鉄でどこか目的もなく歩いてみようか。足首は少し痛いけど、音楽があれば大丈夫。
 音楽があれば。
 実際問題として。

【了】

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