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彼が恋文を書いた朝の話

 幼い少年は、言葉が上手く喋れなかった。けれども、その代わりとでも言うべきなのか、文筆においては雄弁だった。

 彼の得意教科は国語だった。作文では常に一番だった。
 当然のように彼は、周囲から「文章を書くのが上手いやつ」と認識され、独自の地位を獲得するに至った。
 彼にとっては、文を書くことが唯一の強みだった。
 そのことを、ほかならぬ彼自身も認識していた。

 そんな少年にも、恋心を寄せる女子がいた。
 しかし、生来の消極的な性格が災いして、同じ学級でありながらも親しい関係を築くことはできずにいた。いつも遠くから眺めるばかりで、自分を満足させていたのだった。

 そんな毎日が続いていた、ある朝のこと。
 学級で、誕生月の級友に手紙を送ろうという行事があった。
 該当者は、三人。
 うち二人は、少年の友人だった。
 そしてもう一人は、少年が想いを寄せる女子だった。

 生徒たちには三枚の原稿用紙がそれぞれ配られた。
 教室から私語が消え、鉛筆の走る音だけで満たされるのにそう時間はかからなかった。
 誰もが集中していた。なかでも、少年は特に。
 仲の良い友人、そして、好きな少女への手紙。
 彼の執筆欲に火がつくには十分すぎる理由だった。

 彼は、一〇分と経たないうちに友人二人への手紙を書き終えた。
 彼らの長所を誉めたたえ、自分と彼らの素晴らしい思い出を記し──最後に、日頃遊んでくれる感謝を表して締めくくった。どのような言葉を選べば効果的に届くか、どのような言い回しを彼らが喜ぶかを少年は感覚的に心得ていた。

 一息ついて、少年はそっと辺りを見回した。
 誰もが熱心に用紙を見つめ、筆を動かしている。
 筆が止まっている級友も多くいたが、その顔に浮かぶ苦悶の表情から、彼らが思考に詰まっていることは容易に察せられた。

 ──おそらくは、自分が一番早く書き進めている。

 少年はそう確信し、内心でほくそ笑んだ。

 時計を見れば、授業時間はまだ三〇分以上も残っていた。
 彼は残り時間と気力のすべてを、彼女への手紙に注ぎ込もうと決めた。
 より丁寧により美しく、彼女への祝いの言葉を編み上げるのだ。
 そう決心して、少年は最後の一枚に向かった。

「誕生日おめでとう」
 枕詞の一文を記し、それから──

 ……それから?

 少年の鉛筆は、そこでぴたりと動きを止めてしまった。
 言葉が浮かばないのではない。
 溢れすぎて、まとまらないのだ。

 彼女に対する少年の感情は、恋情で満たされていた。
 言い換えれば、それ以外に語る言葉を持たなかった。
 零か百か、彼に迫られた選択は二つだった。しかし、その言葉の量と重みに、自分と彼女の関係性は耐えきれないと今更のように気付く。

 どう甘めに見積もっても、自分は彼女と親しくはない。その彼女に、自分の恋情にまみれた言葉を贈ったところで、届くわけがないのだ。
 導き出された結論に、少年は愕然とした。

 残された道は、二つだった。
 一つ。「零」の感情に沿った文面、つまり、さほど親しくない相手に送る手紙のように、無難かつ安全な言葉を選びぬく営み。
 しかし、それは彼自身が許さなかった。彼女に対しては、それが失礼なことのように思えたし、見抜かれるのではないかという怖れもあった。

 ならば、残された道は一つ。
 零か百かではなく、その中間を探るという試みだ。百の恋心のうち、いくばくかを削り取り、それを文に織り交ぜるという手法だった。
 ちょうど、珈琲に適量の砂糖を混ぜ込むように。

 少年は、さっそく執筆に取りかかった。
 胸の底に沈殿する言葉を吟味して、その一つ一つをすくい上げていく。
 想いの欠片を筆先にまぶして、マス目を着実に彩っていった。

 ……初稿は、ほどなくして出来上がった。
 少年はそれを見直して、首を傾げる。
 不満。胸中を一言で言い表すならば、そうなる。
 何かが足りないようにも見えるし、逆に過剰だとも思えてくる。
 少年は紡いだ文章に自信が持てずにいた。
 それは彼にとって久々の経験であり、同時に屈辱でもあった。

 こんな中途半端な出来の文章を、彼女に贈るわけにはいかない──
 消しゴムを手に、彼は今しがた書いた文の連なりを消していった。
 後に残ったのは、蛆のように散らばった消し滓と、空白の原稿用紙だった。

 再び鉛筆を手にした少年は、先ほどよりも入念に言葉を選りすぐり、祝いの文を書き連ねていく。
 そして、その筆の動きは、先ほどよりも早く止まった。
 しかし、それは書き終えたのではなかった。
 単純に、途中で止まってしまったのだ。

 畜生、と彼は内心で呟いた。
 畜生、畜生、畜生!
 実際に口に出せば諫められるであろう、「汚い」言葉。
 それらは、えも言われぬ敗北感とともに、心臓をどす黒く染めていく。
 負の感情は血流に乗って、彼の右手を、その指先までをも侵していくように感じられた。

 捨てるように鉛筆を手放し、消しゴムを持ち替える。
 先ほどと同じように、生まれたばかりの文章を殺していく。
 そうして、再び彼は鉛筆を握った。

 焦燥に追い立てられるようにして、少年は文を綴る。
 しかし、書けば書くほどに粗が目につき、やがてまた消すことになるのだった。
 だんだんと、鉛筆と消しゴムを持ち替える間隔が短くなってきている。
 その事実を自覚するに至って、少年の焦りは加速した。

 ──不意に、鐘の音が響いた。
 終業を告げるチャイムだった。
 その時、少年はちょうど消しゴムを握っていて。
 鐘が鳴り終わるのと、紙が裂ける音がしたのは、同時だった。

 我に返った少年の目に映ったのは、黒鉛で濁ったしわくちゃの原稿用紙。 
 擦りすぎてしまったために、その上部は斜めに破れてしまっていた。
 そこに、文は一つもなかった。ただ、自分の名前──「だいた あすき」の筆跡だけが、寒々しく残っているばかりだった。

「では皆さん、お手紙を先生のところに持ってきてくださいね」
 教師の声に応じるように、周囲の生徒たちが席を立っていく。
 少年は立ち上がることができなかった。
 書けなかったという事実が、少年の肩にずんと重くのしかかっていた。

 ひっく、と奇矯な声がした。
 それが自分の喉から漏れたものだと気付いた時には、もう遅かった。
 間を置かず、視界がぼやけた。
 喉が痙攣したように震え、湿った声が溢れ出していく。
 押しとどめようにも、もはや叶わなかった。

「せんせい! あすきくんが泣いてる!」


 隣の生徒が、事件とばかりにはやし立てた。
 周囲の目が、一斉にこちらへと向くのが分かる。
 ほどなくして、いくつかの足音がばたばたと近付いてきた。


「どうしたの!?」「なんで泣いてるの!?」

 口々に尋ねてきた生徒たちは、すぐにはっとしたように黙り込んだ。
 その視線は、机の上にあるくすんだ原稿用紙に注がれていた。

 少年が何か言おうとするよりも先に──声が、降ってきた。

「書くの、むりしなくてもいいよ」
 見上げれば、そこには少女がいた。
「ほんとうに、むりしなくてもいいから」

 彼女は寂しそうに、微笑んでいた。──微笑みながら、泣いていた。
 涙が頬を滑り落ちるより先に、少女は背を向けて駆けだしていた。
 がらり、と引き戸を開く音。遠ざかってゆく足音。
 少年は、弾かれたように腰を上げていた。
 その足が、独りでに動いた。

 廊下へと飛び出すと、少女が廊下の角を折れるのが見えた。
 ──待って!
 そう言いたくても、声は涙に遮られて出なかった。
 だから、少年は後を追った。
 一心不乱に走り続けることしかできなかった。

 少年が追いつくのに、さほど時間はかからなかった。
 少女は走るのを止めて、渡り廊下の柱のそばにうずくまっていたから。
「ごめんね、かきづらかったかな、ごめんね」
 少女は伏せていた顔を上げて、涙ながらに笑った。
 謝るのはこっちのほうなのに、と少年は思う。
 罪悪感を彼女に抱かせていることが、どうしようもなくかなしかった。

 一陣の風が吹き、かさり、と手元で乾いた音が鳴った。
 見れば、自分の左手には原稿用紙が握られていて。
 くしゃくしゃになった紙切れを見て、少年は己を呪う。

 そもそも、言い訳などあるはずもなかった。かける言葉を持ち合わせていないのに、どうして彼女を追ってしまったのだろう。あまつさえ、彼女を悲しませた元凶を携えてまでして、一体何をしたかったのだろう。

 ──ただ、謝りたかった。
 ──書けなかったのは嫌いだからじゃない、と伝えたかった。
 それなのに、言葉は出てくれなくて。
 筆談でもできたらと思うのに、書くものなんてここにはなくて。
 右手に握りしめていたのは、鉛筆ではなく、消しゴムだった。
 原稿用紙には、「だいた あすき」と少年の名前しか記されていなくて──

 だから、少年はそれらを使うしかなかった。
 名字の最後を、消しゴムで消した。
 名前の最初も、同じように消した。
 残った四文字のひらがなを見て、少女は。

「──わたしも」

 潤んだ声で、小さくつぶやいた。
 華奢な手で、皺だらけの原稿用紙を受け取る少女。
 霞がかった視界の向こうで、彼女は淡く笑う。
 日の光のもと、その頬が桜色に染め上げられていく。
 きっと、今の自分だって同じ顔色をしているに違いない。
 そう思いながら、彼は涙を腕で拭って──
「ごめんね」の代わりに「ありがとう」と、言った。


<了>

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