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言葉と無知

「言葉には理由がある。」

英語の先生に言われた言葉だ。

「文法は言葉のルールだ、文章の構成を整えたり、これから言わんとすることを暗に示すこともできる。」

言葉は声であり、性格であり、立居振る舞いを示すツールなのだと思う。

「私は共通テストで97点を取れましたが、全く英語を喋れません。これが今の日本の英語教育の弊害なんでしょうね。」こんなような言葉を放った方がいると聞いて彼は怒っていた。

「英語教育は大きく変化している。文法には意味があり、その意味を理解できていないバカが多すぎる。だからこんなことを言い放つことができるんだ。」

言語への熱意と敬意をいつも授業中の言葉から感じる。

僕は言葉を疎かにしてきたのだと思う。いや、正確には彼からするとだ。僕はそれなりに言葉に気をつけて、文章を書いたり、読書をしてきたのだと思い上がっていた。なんとなく言葉を使い、なんとなく英語ができるように勘違いをして、読書も文章を書くことも、漠然としたまま18歳になってしまった。

大学生にもなれば本格的に「学び」が始まる。そして僕が苦労して入る大学はきっと同級生も似たような苦労をして入ってきた人たちであろう。僕はそんな人たちの中で、学びの中で、言葉を大切にできるだろうか。

別にいいんだ。こんなことを考えなくても生きてはいけるし、整合性がそこに存在する必要がないこともある。

大量の情報と意味に囲まれて生きてきたが故に、その一つ一つが持つ意味の重要性を見落としてきたのではないだろうか。わかっている「つもり」になっていたのではないか。

だからこそ、自分が生み出す文章や放つ言葉には一層の注意を払う必要があるのだろう。

そんな僕は無知だ。そして無知であることを嫌っている。論理がないことを嫌っている。だからこそ自らの行動や文章、考えに飛躍や論理の欠如があることを知ると悔しさと、悲しさが込み上げる。

その感情は過去の僕自身に向けられたものでもある。不勉強と怠惰を憎む僕から、過去の不勉強で怠惰な僕への感情だ。

いま、ここで、未来を変える決意をしたい。だけど今までにこの言葉を知って、満足して、そこで終わった僕がいることを知っている。だから、少しでいい、毎日やるんだ。文章を書いて自分と向き合ってみる。まずは量をこなそう。2/25の来る日まではとりあえず、1000文字を書き続けるんだ。悲しさをや悔しさを背負っても歩き続けられる状態が真に健康的な状態だ。俯瞰して、客観視して、ダメにならないように。根本を直ぐに断てない時はそれすらも背負って歩けるようになろう。

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