私が刀鍛冶の道へ飛び込んだ経緯 ⑨

高校3年生の夏休みに、後に私が入門した将平鍛刀場へ行くことになりました。
師 藤安将平は「来るもの拒まず 去るもの追わず」を徹底していた人です。吾妻橋の「解紛塾」で知己を得た藤安には私が刀鍛冶になりたい熱意を持っているのことは伝わっていたでしょう。
ちょうど夏休みに入ったタイミングで、「解紛塾」主幹の高山武士先生が将平鍛刀場の福島市立子山に行かれるので、君も来るか?とお誘いがあり、好機と思い、向かう車に同乗し同行させてもらいました。
立子山に到着しましたが、なぜかある古民家に着きます。
地域の「まるひで商店」さん所有の茅葺の農家建築でした。
そちらではなぜか高山先生歓待の会の様相で、地域の人たちが色々と馳走してくれていました。
全くの余談ですが、この時にいただいた白米の美味しさには人生最大級の衝撃を受けました。
後で思えば、古民家の竈に薪を燃やし、羽釜で、天日乾燥の(おそらく)コシヒカリを炊いた白米をいただいたのです。普段食べている米(これもおそらく、スーパーの安米)はなんだったのか⁉︎、「天と地」とはこういうことか、との衝撃でした。
(農家さんによると思いますけれど)福島の米は美味いぞ。

そんなことを体験しつつ、宴も終わって高山先生一行は車で数分の将平鍛刀場に移動します。
もう日も暮れていたので、鍛刀場に登っていく砂利道に揺られて「どんな所に連れていかれるのだろう?」と一抹の不安を覚えた記憶です。

それから、私は弟子体験としてお世話になり、たしか3日ほどで高山先生は帰られたのですが、当初からのお願いで私はその後も体験を継続させてもらいました。1週間くらいは居たと思います。

知識などではいくらか知ってはいるものの、実務は初めてなので何をさせてもらったかは精一杯すぎて覚えていないのですが、藤安の昔ながらの職人の修業における機微を伝えている部分に「何をするのも自分次第」という姿勢があります。
つまりは、「学びたい、技術を得たいのならば、ここでいくらでもやれ! (大切なもの以外)材料を勝手に使うのも黙認する。 空いた時間に道具や設備も使ってよし」という古い徒弟制の重要な学びの部分といえる、自己研鑽に必要な暗黙の了解を呑み込んでいてくれているのです。
自分が技術を身につけるのに、いくらでも実践できる環境を用意してくれているのです。
ただし一切の強制はないので、自発的にやろうとするかどうかだけです。

図々しい私は、親方のその姿勢に乗じて作りたいものがありました。
一度、小柄小刀を作りたかったのです。
しかし、まさに「門外漢」の私にはここでどうしたら良いのかわからないので当時の兄弟子に「作りましょうよ」と焚き付けて、親方の出張のタイミングで玉鋼や炭を拝借し「折返し鍛錬」から始めて、ついには小柄小刀を作りました。
それはどんなクオリティだったのかは今となってはわかりませんが、「素人」のものとしてはそんなに悪くなかったと思います。
懸命に向き合ったものには、それなりのものが宿っていると、今も信じています。

そんな「イタズラ」をさせてもらい、立子山から帰郷する間際の挨拶で、藤安に「(高校卒業する)春から入門させてください。」とお願いをしました。
対する藤安の答えは何度も色々な媒体で述べていますけれど、第一声「うちは10年だぞ。」でした。
職人というものは10年でやっと一人前、ということはあらゆる書籍からの知識で得ていたので、むしろ私は「それでこそ修業!」、「ここだ!」と思い、入門の約束をして立子山を後にしました。

それからは藤安が主催する「玄門の会」で行った五島美術館での公開製作や、福島市のデパートの個展を手伝ったりと、入門前から積極的に関わっておりました。

晴れて高校を卒業し、約束通り入門に至ったわけです。

以上、私の刀鍛冶入門に至った経緯です。
今現在刀鍛冶を目指す人の参考になるのかはわかりませんが、私はこういったモチベーションで飛び込み、この現在があるという事実だけは伝えたいです。
これらがもし参考になれば幸いです。


さらに余談

大隈俊平氏には目指した当初から入門願いをしており、立子山に行った後日にも3日間ほどの体験修業をしています。大隈氏も住込み修業なので、当時の兄弟子と一緒に生活と作業をしました。
体験したなかで、ここでは刀作りの技術を得られる機会は少ない。と明確に判断をし、大隈氏には「勝手を言って申し訳ありませんが入門のお願いを取り下げます。」と伝えました。
例え、そのような環境であっても一人前になれる自信はありましたが、わざわざ良くない環境を選ぶ意味もないというのが本音でした。
全ては自分のために、表面的な「楽」だけは選ばずに良い環境を探していくのが、より良い結果に繋がるように思います。

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