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まれ天サンプル(第35回)、福島競馬場『色違いの毛虫』

色違いの毛虫

草薙 渉

 鹿又(かのまた)陽一はその前夜に辞書を引き、『凱旋(がいせん)』という漢字がスラスラと普通に書けるよう練習した。そして高校卒業の寄せ書きに、「東京で大学を出たら、超ビックになって福島へ凱旋する」と太い文字で書きつけた。会心の思いだった。その後大学時代は毎年何度か福島へ帰り、ずっと続けていたテニス部に顔を出して先輩風吹かせたりもした。
 だが社会に出てからは、福島には一度も帰っていない。それは再婚した父の伴侶とそりがよくないこともあったが、友人たちに語れるものが何もなく、凱旋という状況ではないことが一番の理由だった。

 大学を出て就職したのは、東証二部上場の商社で繊維関係ではそれなりのシェアを占めていた。だが会社は平均年齢が高く、旧態依然とした社風に染まっていた。
 この会社を変革させると意気込んでの入社だったが、鹿又は半年で寡黙になった。会社は、民主主義でも能力主義でもなかった。わけのわからない個人的価値観や感情的人間関係で揺らぐ、巨大なタンカーのような場所だった。その迷路のような船底を、ろくでもない年長者に小僧あつかいで追い回される毎日でしかない。こんなはずではなかったと、毎日のように思い知らされた。だれも自分のことを尊重していないし、むしろ阻害されている。虐げられている。転職についてさまざまにアンテナを広げてみたが、そっちも思うように運ばない。そんな長い鬱屈の中、一年ほど前からネットの株取引を始めた。

 四季報は手垢で黒ずんだし、関係本もたくさん読み漁った。日商簿記二級の知識をベースに、財務諸表についても猛勉強した。そして耳掻でかき集めるように貯めた五十万を元手に、新興の株を売ったり買ったりして一年間で四倍の二百万に増やした。無駄遣いは一切しない。強気と弱気のせめぎあう新興の証券市場。その坩堝(るつぼ)で、一社一社違うチャートの癖や、売り買いのタイミングも徐々に習得していった。
 年に四倍。このペースでこの先四年行けたら、五億にもなる。五年行ければ、何と二十億だ。もちろん、そんな単純にはいかない。そんなことは百も千も承知している。だがこの一年を振り返ると、迷ったあの局面でクリックしていれば、四倍ではなく十倍にもなっていたという場面もいくつかあった。保守的に石橋を叩いたから四倍だったが、むこう八年を平均して年四倍以上のペースで増やせるという、たしかな自信が出来ていた。

 二十六歳の誕生日は土曜日だった。鹿又陽一はその日、休日を利用して四年ぶりに福島へ帰った。濃いサングラスをして、ニット帽を目深に被って新幹線を降りた。いまはまだ、だれにも会いたくない。親にも友人にも告げないひそやかな帰郷だった。
 見慣れた駅前の店々も、四年という歳月にわずかずつ更新されていた。もっとも自分もこの四年で十キロ近く瘠せたから、知り合いとすれ違ってもだれもわからないだろう。
 交差点の信号で立ち止まったとき、鹿又は息を呑んだ。

 妙子……。交差点の向こうで信号待ちしている女性は、まぎれもなく妙子だった。妙子の隣に、背の高い見知らぬ男性が立っている。男性が何か話しかけて、妙子が微笑んだ。男性は小さな赤ん坊を大事そうに抱いている。
 鹿又は信号が青になる前に、ショルダーを担ぎなおして信夫山の方角へ歩き出した。そうなのだ。自分は社会人になって停滞しているだけだったが、四年という歳月はまぎれもなく流れている。おれは何故、帰ってきてしまったのか。まだまだ、凱旋どころじゃないのに……。

 三月ほど前、五年後には二十億か、ということは、七年後には三百二十億じゃないか、とノートパソコンに映しだされた二百万の残高を見て考えた。そうしたら、いま勤めている会社の株を密かに買い占めてやろう。株式大量保有の5%ルールがあるが、七年かけてM&Aの上手な方法を模索すればいい。時価総額から計算しても、間違いなく実質的筆頭株主になれる。それまで、自分が株をやっていることは社内のだれにも内緒だ。七年後のある日、うちの会社の役員から管理職全員の人事を、一存で決定できる立場になるのだ。
 この新たな目標を持った日から、あれほど辛く嫌だった会社勤めが一変した。同僚の中から使えそうなやつをピックアップしてみたり、つまらないミスをなじる上役も、そのなじり方を密かに記録したりもした。こいつら何も知らないが、七年後のある日、世界がひっくり返る思いをするのだ。いまはこのまま、暗い船底で虐げられていよう。七年したら船長室に登場して、水戸黄門の印籠を掲げるのだ。そのことを夢想するだけでも、思わず頬がゆるんだ。
 だがそんな心地よい夢想も、先週までだった……。

 大通りを渡って左に曲がった。無意識のうちに実家の方向へ歩いていた。そうか、妙子は結婚して、子供まで出来ていたのか、と商店街を歩きながら思った。理髪店のねじり棒が見えたところで、足が止まった。サングラスを指であげて、横目で店内を見ながらゆっくりと通過した。店の中で、白い服を着て一心に客の髪を刈っているケンジの横顔が見えた。あたりまえの日常として、故郷の中に馴染みこんでいた。この街で、みんなひっそりと、そして着実に生きている。この街には、もう自分の場所は、ない。実家のあたりを迂回するように曲がって、気がつくと福島競馬場にたどり着いていた。
 親戚とか知り合いではなさそうだけど、誰だろう、と思いながら、じっとこっちを見つめている老婆とすれ違った。一階スタンドから乗ったエスカレーターで空腹感に襲われころには、すでに老婆のことなど忘れていた。
 三階の赤井食堂で相席になった初老の男は、みすぼらしいグレーの作業着上下に身を包んでいた。上着の胸には、『前田電器店』という刺繍が入っていて、その文字がところどころほつれている。『前田電器店』って……。鹿又は芋煮汁定食を食べながら目を細めた。
「何か?」と、初老の男がこっちを見た。場内テレビに、ゲートインする馬たちが映し出されていた。
「いや、その作業着、万世町にあった『前田電器店』かなと思って」
「ほう、知っているのかね」と、男が身を乗り出す。「十八年前に、火事で倒産してしまったが、私はあそこで世話になっていたんだ。今朝もこの作業着着て、前田さんの墓に線香あげてきたところさ。十八年、毎年そうしている。キミは、『前田電器店』とはどういう?」
「あの火事で死んだ俊彦クンは、小学校で隣の席でした」
 鹿又が、ぽつりと答えた。
「ほうほう」と、男が身を乗り出した。今日はだれとも話したくはなかったのに、と鹿又は暗い気持ちになった。向う正面を流す馬たちが、テレビに映っていた。
 男はおでんとビールを追加注文して、さかんに話しかけてきた。福島は競馬好きが多いが、前田社長もたいそう好きだった。ほう、キミは東京のエリートサラリーマンというわけか。その若さで、あの帝国劇場の緞帳受注をまとめたとは、すごいじゃないか。
 鬱屈した気分だった。鹿又は会社の獲得した大きな商談を、さも自分が活躍したようにふいていた。

 株……。すこし前から、そのIT系会社の株価は妙な動きをしていた。中間決算の監査が終わらず、管理ポストに入ったとニュースが出て、株価はストップ安をつけた。だが手に入る範囲の情報で詳細に検討し、むしろリバウンド急騰の期待を持って総力投資した。そして先週土曜の夜、いきなり『民事再生手続き開始と上場廃止の決定』のIRが出た。
 循環取引? 二百億の簿外負債? 何それ? てっきり、収益計上時点の会計処理の問題だろうと思っていた。それなら、通年で相殺されるから企業財政に大きな影響はないと、そう判断したのだ。だが、ことは複式簿記以前の話だった。架空取引で売上を水増しし、負債を簿外にしてきたと。
 粉飾だ。詐欺じゃないか。一般投資家は、公表されている財務諸表や会社のIRを基準に意思決定するしかないのだ。その財務諸表が出鱈目だったなんて、前提からひっくり返されたのだ。自己責任といわれても、そんなことまで避けようがない。こんなヤクザな会社を上場させた東証や、継続して適性意見を付与してきた監査法人はどう責任を取ってくれるのか。
 株はその後三日間、下げ気配のまま寄らず、金曜成り行きで全株処分した。二百万の残高が二万六千に変わっていた。
 眠れぬまま朝を迎えた今日、気がつくと東北新幹線に乗っていたのだ。

「キミの場合は、ほとんど凱旋といっていいのだが、名を成すまでは、故郷は帰るべきところではないんだな」と、新しいビールを注文した初老の男は言った。「室生犀星(むろおさいせい)という詩人が、ふるさとは遠きにありて思うもの、と詠(うた)ったように、たとえ都でホームレスになっても、帰るところじゃないんだ。私も生まれは犀星と同じ金沢なんだが、縁あってここの前田さんの会社にお世話になったわけだ。あの火事の後、再出発した東京の仕事がうまく行かなくて、ひそかに金沢へ逃げ帰ったこともあった」「どうでした? そのときの故郷は」
 鹿又は注がれたビールグラスに手を伸ばしながら訊いた。
「故郷も、現実なのさ」と男は言った。「そこに住んでいる人間にとっては、私など過去から来た人間でしかなかった。故郷は、遠い都で感傷的に描いた絵空事の世界じゃない。傷ついて逃げ込める、居心地のいい場所でもない」
「なるほど」
 レースが終わって、負けた馬たちがそれぞれに戻ってくるのが映し出されていた。
「だが時間がたてば、変われる」と、初老の男は美味そうに煙草の煙をはいた。「故人曰く、今の自分を見つめすぎる毛虫は、いつまでたっても蝶にはなれない」
「毛虫?」
「そう。若いときは、みんな色違いの毛虫さ」
 男が豪快に笑った。
 そうか、たしかにここは、今の自分がいる場所ではない。東京へ戻って、と鹿又は天井を見上げた。

「社長、今日の成果はいかがでした?」
 黒塗りのBMWのドアを開けた運転手が訊いた。
「今日は競馬どころではなかった。昔の自分に邂逅(かいこう)して、説教までしてしまったよ」と、『前田電器店』の作業着の男が、後部座席に乗り込みながら笑った。(了)


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