うつろぐ

痛みと依存のあいだ。

お風呂あがりにまた心臓が痛みを発した。咄嗟に胸を押さえたときにふと思い出す。痩せないと。痩せないといけない。しかしそんなことはすぐに忘れてしまう。ひょっとしたら明日にはもう忘れてしまっていて、お腹いっぱいご飯を食べてしまうかもしれない。ぼくは「食べること」にひどく依存している。

食べることだけが生きがいなのだ。他にもゲームや音楽鑑賞、彼女とのささやかな電話も、生きがいかもしれない。しかしゲームや音楽鑑賞や彼女との電話では、どうしてか「後ろめたさ」を感じてしまう。

これだけ太っているのだから、むしろ「食べること」にこそ後ろめたさを覚えるべきだが、食べることは「生きるのに必要なこと」であるのに対し、その他は「娯楽」のような性質がある。おそらく、だから「食べること」には後ろめたさを感じず、その他の楽しいことには後ろめたさを感じてしまうのだと思う。

また、ぼくの奥には「自分のような人間が何か楽しいことをしていいはずがない」という心理が隠れていると思われる。

ろくに働いてもいないくせにゲームを、音楽を、彼女との幸せなひとときを手に入れていいのだろうか。そのことが脳裏をよぎると、いたたまれない気持ちになるのだ。

心臓がどうにかなってしまってから気付いたのでは遅い。

そのことは当事者として百も承知だが、ついついたくさん食べてしまう。もう少し、もう少しと、自分でも気付かぬ間に食べる量が増えていくのだ。

これを「依存」と言わず、何というのだろう。

胸に痛みを覚え、それが落ちつき、しばらくしてから、せめてと部屋にあるフィットネスバイクを漕ぐことにした。

有酸素運動には心拍数を安定させる効果もあったはずだ。心臓に負荷をかけないよう非常に軽い強度で30分ほど漕いだ。

えらいもので胸のあたりにぼんやりとあった違和感はやわらいだ。しかしまだ微かに残っている。変な感じがする。ぴりぴりと、胸の奥が痛んでいるような気がする。

もはや「実際に心臓に異変が起こっている」のか、「心臓の痛みから生まれた不安により違和感を感じている」のか、自分には分からない。

死ぬことはそんなに嫌ではないが、痛いのは嫌だ。

わがままだろうか。

ただ、いつか自分も人並みに楽しく幸せに生きられる日が来るのだとしたら、ぼくはその日が来るまで健康に生きていなければならない。

考えよう。

口にするものは、すべてぼく自身が選んでいる。

手を動かし、食べ物を口に運ぶのはぼくだ。

よく考えよう。

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