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ブッダはゲイのサディストなのか?--フロムアニメイシヨン、この血肉を禅に喰らわせて踊れ

ゼンは無慈悲だ。
惨たらしく死ぬか、この血肉をゼンに喰らわせて生きるか、どちらかしかないということをニンジャスレイヤーは書き付けている。

「男は象を街で働かせた。象の仲間が駆けつけ、男を踏み殺した。ナンデ?」
「ブ、ブッダが……ゲイのサディストだからです」
「正解! ブッダはゲイのサディストだ!」
(ガントレット・ウィズ・フューリー)

禅問答の一例だが、他にもザゼン、ボンズ……。ゼンを巡る疑問は尽きない。
ゼンとは……?

誰かに訊いてみようにも、「ゼンなんて言い出したりして、この人はまさかニンジャなのでは?」と疑われムラハチにされる可能性が高すぎる。

では巷に溢れる入門・解説パンフレットの類を読んでジコケイハツすべきか?
どうせメキシコで死ぬようなあほが書いたものばかりで、スカム禅問答にすら遠く及ばない。

そこで、ここに3つの書物を取り上げてレビューを試みる。
ボンズが記したものは1冊も含まれていない。お呼びではないからだ。スモトリ入りカンオケを片腕で担ぎ上げ、自身もろとも火葬釜にダイブする者だけが真のボンズだからだ。
ここに集ったのは、テクノ野郎やダンサー、決断的精神分析家やバイク狂たちである。
ゼンにその身を喰わせて闘った者たちである。


『禅銃 ゼンガン』バリントン・J・ベイリー

猿が出て銃で殺す。
そして武士道で手裏剣とかを持っている男と少年を連れ立って旅立つ。

「アッ、これはニンジャスレイヤーの知られざるエピソードォーなのでは?」と自己暗示したくなるアトモスフィアが不意に漂わなくもない。
しかし猿は思ったよりも殺さないし、禅ガンと呼ばれる木製拳銃は実際多機能だ。
殺す以外にもケガをさせたり痛がらせるだけにしておいたり、他にも色々壊したりとかがある。
猿は美女の豊満なバストを痛がらせて遊んだりするだけなので、セイシンテキが無い。

注目すべきは武士道の男であり、銃器や手裏剣をかなり自在に操れる上、常に奥ゆかしく座禅し続ける。
この物語には宇宙の海賊や暴徒、イキった豚などが満載でイクサにも事欠かないが、男は常に座禅を忘れない。ついにはその手に禅ガンを得たときも、猿のようにバストを攻撃したりはしない。禅ガンは、こうした奥ゆかしい戦士だけが使いこなせる。

では、禅ガンはなぜそう名付けられたのか?

“動静一如。静なるもの、動くは如何?”

これが禅ガンの作動原理ゆえである。
運動と静止の一致。
ここに難しいことは何もない。
フロムアニメイシヨンの第1話をすでに見たやつなら、すぐにわかるだろう。ハイウェイで繰り広げられるニンジャスレイヤーとミュルミドンの追走劇を思い返したり今すぐ見返してみるだけでいい。
平坦が好みの向きは、ヤモトが出る「スワン・ソング……」を見てももちろんいいし、私は実際そうした。
運動とスピードは関係がない。まずはこのことを理解しなければ何も始まりはしないのだ。


『光速と禅炎』フェリックス・ガタリ+田中泯

まずこの本は、物理的にパルプの強さがある。見た目よりも実際軽い。そして荒野めいてザラついた手触り。

手にした感触を楽しんでから表紙を開く。ポエット!
「俳句的事態」「闇のイルカ」「禅の炎」……何たるハイクめいてセイシンテキに溢れる文言か。一部の者へは、しめやかな失禁すら誘うかもしれない。
しかし、フロムアニメイシヨンのゼンを経た今、恐れるものは何もない。何も。

ここでもまた場所の話なのだ。
禅の炎のダンサーの踊りは場所の中にいない。それ自体が場所である。動静一如。禅の炎が先立ち、場所はその後にしかない。
落ち着こう、そしてもう一度見よう、夜のネオサイタマを平行に駆けるヤモト、平坦なバスト、ネオンのライト、オリガミのファイト、カラテのシャウト。
ソードダンサーも確かにダンサーだった、しかし惨たらしく死んだ。ゼンが無かったし、最期のハイクにおいて、生まれ変わるなどということを口走ってしまった。
「誕生から途切れず続く線上」のダンス、決断的に横這いになり、ハイクになってゼンになる者だけが、爆発四散するギリギリをすり抜けてまた踊るのだ。

わからなければ、わかるまでフロムアニメイシヨンと向き合えばいい。たくさんのエピソードォーがあるが、全部にヤモトが出るわけではないことを忘れるな。


『禅とオートバイ修理技術』ロバート・M・パーシグ

ニンジャにもモータルにも、オートバイは欠かせない。
アイアンオトメ、ヤモトもサイドカーに乗れるし、ミュルミドンやピザのデリバリーでも使う。

つまりバイクに乗るやつは十中八九モヒカンだが、この本の著者はそうではない。それどころか、田舎の風景を楽しんだりするし、マシンがトラブった時には荒れ狂って棒で叩く代わりに、工具と説明書に頼ったりするほどのワザマエを持っている。

完全な確信を持っていることに身を捧げる人は決していない。明日もきっと太陽が昇ると熱狂的に騒ぎ立てる人はいないはずである。

しかしこの男、非モヒカンのバイク乗りは、叫んだのだ。明日も必ず太陽は昇る、と。
叫ばなければ太陽は昇らないからだ。太陽に慈悲は無い。だから、勝手に昇ったり沈んだりはしない。そもそも動いているのはヤツではないからだ。

このバイク野郎は息子を連れて、大陸を走り続ける。《クオリティ》とか何かについて延々と語り出したり、巨大シカと命の駆け引きをした思い出を綴ったりする。
だがそれはあくまでインストラクションに留まる。

真に刮目すべきは、道中、ひとりの男が登場するシーンだ。

ガソリンを入れるために立ち寄ったスタンドで、トレーラーに乗馬用のアパルーサを二頭積んだ男が話しかけてくる。馬好きの人間はだいたいオートバイが嫌いなものだが、この男は違っていた。

そう、普通ならこの出会いの直後に銃撃戦かカラテが始まり、馬かオートバイ、あるいは両方がネギトロに変わる。チャメシ・インシデントであり、今やニュースにもならない日常風景。

なぜ男たちはふたりとも生き残ったのか?
ゼンがあったからだ。
この疑問は実際、「ニンジャスレイヤーはなぜヤモトとかのニンジャを惨たらしく殺さないのか?」という疑問と等しい。

……これ以上は蛇足になろう。
これから何をすべきか、わからない者はいないはずだ。
ニンジャスレイヤーはどこから読み始めてもいいのだ、そう、そこにハッキリと書いてあるのだから。

出典一覧
『禅銃』バリントン・J・ベイリー、1984年、早川書房
『光速と禅炎』フェリックス・ガタリ+田中泯、1985年、朝日出版社
『禅とオートバイ修理技術』ロバート・M・パーシグ、文庫版2008年、早川書房

#DHTPOST #ウキヨエ #ニンジャスレイヤー222


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