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焦点は回帰する牢獄へ,君はただの袋だ

2週間という暇を与えられた。

しかし僕はこの2週間という暇を謳歌出来ない。

そんな人は多いのではないだろうか。僕らは暇を嫌う、空白を呪い、隙間を悪魔のように遠ざける。まるでその先に本当の幸福が待っているかのように。

手帳は予定で一杯で、何かを満たそうとしている。

神経症的精神に蝕まれた個体。

一体何を求めてその勤勉さは機能するのだろう。

日々忙しなく、友人と遊び、地位や名声のために邁進する、消費する。ああ、もうこんなにも隙のない人生だなんて、どうしてこれほど満たされているのだろうと。

しかしこれは幻想だ。妄想だ。盲目だ。

欲望も愛も希望も絶望も青春も、お飾りじゃないか。

だってその先、否、その只中にあるのは無だ。空だ。

そうだった。最初からそうだった。何故か忘れていた。

僕らの視界を装飾する広告キャッチフレーズも、学校で習った教訓も、書店に並ぶ成功を促す数々の書籍も。

そんな耳障りの良い目くらましに騙されて盲目になっていた。

小学生の頃、親にこんな事を言った。
"ねえ、母さん、どうしてみんな頑張るの?頑張ろうと思うから、エネルギーを使うんじゃない。温暖化だとか、電気代だとか、仕事だとかいつも言ってるけどさ、そんなのみんな頑張るのをやめれば済む話なんじゃないの?
僕にはどうしてみんながそんなに頑張っているのか分からないよ。"

母は答えてくれなかった。そして兄は笑っていた。

何を言おう、この資本主義経済が導入されている日本 ―否、今日グローバル化の進む社会においては資本主義経済圏という表現が正しいだろうか― は借入から成り立っているのだ。未来の生産性が向上しなければ持続しない。頑張らねばならぬのだ。

しかし、童心の僕はそんな決まり文句を聞きたかったわけではなかろう。共産主義が存在するのだから、人間は資本主義をやめることだって可能なのだろう。物々交換だって良い。

それなのになぜ、本質的に人間は何かをしたがるのか、それを知りたかったに違いない。

歴史ってのは偉大だ。
僕は本だなんて数年前まで読まなかった。
本"だなんて"なんて笑ってしまう。今はそんなこと思っていないのだけれど。しかし、歴史的古典書にはこんなくだらない僕の疑問に真摯に向き合ってくれる人たちが未だに生きてる。本当さ。素晴らしき世界線だ。僕も来世は活字化された存在になっていたい。

人々は、死も惨めさも無知も免れることが出来ないので、そんな事を考えずに済ませる事で幸せになろうとした。 –パスカル–

しかしね、不幸はそんな足掻きから来るらしい。

人間の不幸は、ただ一つのこと、一つの部屋に落ち着いてじっとしていられない事からやってくる。 –パスカル–
そして分かったことは、たしかに一つの実質的な理由があり、それは、私たちが生れながら不幸だという事であった。不幸というのは、私たちがか弱く死すべき境涯に定められており、それを突き詰めて考えると、何によっても慰められないほど惨めだからである。 –パスカル–
真の幸福は、賭け事で獲得出来る金銭や狩で追いかけまわす野兎にあると人々が考えているわけでもない。–中略– 人々が探し求めているのは、こういう気の抜けた平穏な所有の仕方ではない。 –中略– そうではなくて、私たちの考えをそらせ、気を紛らわせてくれるような騒ぎを求めているのだ。–人々が獲物よりも狩猟を好む理由はここにある。 –パスカル–

全く惨めじゃないか。僕らはどうしようもなく愚かな道化だ。喧騒の先に何もない事を知っていながら、仮初めの快楽を感じる事が人間の幸福の探求だとは。

確かにそうなんだ。

何かに没頭している自分は強く活気付いている。

しかし、ふと気付く。

没入する自分を俯瞰する客観的な自分がいる。
その自分は自分を含め他者、社会のことを箱庭の中で織りなされる演劇として見ている。
不意に嘲笑的になる自分はニヒリズムを脳髄で体感し絶望する。
しかしその絶望を超克するためには自分は滑稽な演者に立ち戻るしかないのだ。
そんな主観と客観の回帰的入れ子が未来永劫僕の精神を拘束する。

まるで牢獄だ。

そうして鏡に映った体をよく見てみると、
餌を食らい肥えるだけの、ただの穴の開いた袋じゃないか。