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朝日の当たる家 (03)

ドラマ『秘密の森』+東野圭吾著『容疑者Xの献身』の二次創作です。


(7)

漢江の北岸で西と東とに並んだ、二村洞と西氷庫洞との境界に、大橋に連なる大通りがあり、二村洞側に、漢江教会がある。

3月の第2週の月曜日に、龍山署強力班のチェユンスチーム長は、二村洞の御弁当屋「あったかごはん家(ち)」で、イジョンアに、漢江教会への道をきき、わざわざ、外まで出て説明して貰い、その間に、他の捜査員に、彼女の写真を撮らせた。そのときは、漢江教会に行かなかった。イジョンアの写真を撮るための口実に過ぎなかったから。

それから、ちょうど2箇月たって、チェユンスチーム長は、ハンヨジン警部とチャンゴン刑事とともに、再び、御弁当屋「あったかごはん家(ち)」に来た。

イジョンアは、3人揃って現れたのを見て、あっと、小さく、驚いた。

3人とも、おじぎをした。そして、チェユンスチーム長が、話した。「この前、漢江教会への道を教えていただきました。ありがとうございました」

イジョンア「あ、いえ、どういたしまして」

チェユンス「あのときは、あのあと、教会に行かなかったんですが」

イジョンア「はあ……」

チェユンス「今日、これから、行くつもりです。その前に、おききしておきたいことがあります」

イジョンア「はい。なんでしょうか」

チェユンス「イジョンアさんは、漢江教会に、通っていらっしゃるんですか」

イジョンア「いえ、わたしは、教会の前を、毎日、自転車で通っていますけど、中に入ったことは、ありません」

チェユンスチーム長は、パクインスの写真を差し出して、きいた。「この人が、教会に入るか、出てくるかしたのを、見たことがありますか」

イジョンアは、写真を、じっと見つめた。「わかりません」

チェユンス「こちらのお店に、御弁当を買いに来たことは、ありませんか」

イジョンア「ありません。教会の前で見たかどうかは、ぼんやりしていますけど、お店に来たか、来なかったかは、はっきり覚えています。こちらに来られたことはありません」

チェユンス「マスクをしていたら、わからないんじゃないですか」

イジョンア「それはそうですけど、眉や、眼や、額の形で、わかります」

チェユンス「庇付きの帽子を被っていたり、マフラーを頭巾にして眼だけを出していたりしたら、わからないんじゃないですか」

イジョンアは、目を丸くして、チェユンスチーム長を見た。「わからないと思います。前にも来たことがあるお客さんか、知っている人なら、声を聞いたら、わかるでしょうけど。見ただけでは。でも、あの、この人が、あの……」

チェユンス「キムジングさんの身代わりになった人だと、警察では考えています」

イジョンア「でも、キムジングは、どこで、この人に会ったんでしょう? キムジングが来たときに、庇付きの帽子や、マフラーを頭巾にしていた人は、いませんでした。だから、この店でないことだけは、確かです」

チェユンス「ありがとうございました。教会に行く前に、それを確かめに来たんです」

横から、ハンヨジン警部が、言った。「この前、来たときに、おききするのを忘れましたが、新しい自転車を買われたんですね」

イジョンア「はい。自転車がなくなった週は、配達のキムさんの車で迎えに来て貰って、帰りは地下鉄に乗っていたんですけど、新しい自転車を買って、次の週から、また、自転車で通勤しています。登録もしてあります」

ハンヨジンは、ちょっと、ほほえんだ。「ええ、登録を確かめてきました」

イジョンアは、ちょっと、あきれた。「まあ」

ハンヨジン「大家さんは、監視カメラを設置しましたか」

イジョンア「それが、結局、まだなんです。でも、消火器は、わたしの自転車よりも先に、その週のうちに、買って、2階に設置していました」

ハンヨジン警部は、にっこりした。「ええ、前に、大家さんにお話を伺ったときに、確認しました」

イジョンアは、また、あきれた。「まあ」

ハンヨジンは、いたずらっぽい目で、あやまった。「ごめんなさい」

イジョンアも、笑ってしまった。

チェユンスチーム長率いる捜査班は、3月14日、手分けして、御弁当屋「あったかごはん家(ち)」から放射状に遠ざかりつつ、キムジングの目撃者と監視カメラの映像とを探していって、彼がカフェでイジョンアと会っていたことを突き止めたが、そのとき、漢江教会の前も通ったものの、中に入ったり、教会関係者に質問したりはしなかった。

今日も、一応、紺色の庇付きニット帽と紺色のジャンパーの男の写真と、紺色のマフラーと紺色のジャケットの男の写真とを、神父に見せて質問したが、会ったことはない、という返事だった。このふたりのどちらかがパクインスだと告げると、神父は、また、じっと、見直していたが、やはり、分からない、との返事だった。

ハンヨジン警部が、実は、紺色の庇付きニット帽と紺色のジャンパーの男の写真には、パクインスが写っているものと、紺色のマフラーと紺色のジャケットの男が着替えて写っているものとがあると、教えると、神父は、ますます、面妖な、という表情をした。

神父「なんと、面妖なことをするものですね」

ハンヨジン警部「ええ。わたしたちは、キムジングという人が、パクインスさんに、入れ替わりを頼んで、こういうことをしたと、考えていますが、そもそも、キムジングさんが、どこで、どうして、パクインスさんと知り合ったのかが、わからなくて、調べているんです」

神父「この教会で、知り合ったのではないかと考えて、来られたんですね」

ハンヨジン警部「はい」

神父「パクインスさんは、毎週、礼拝に来られていましたが、他の信徒の方と話すことは、ほとんど、ありませんでした」

ハンヨジン警部「パクインスさんと入れ替わった人は、信徒ではなかったと思います。この教会に入ったことがあるのかどうかも、わかりません。教会に、信徒でない人が、ふらりと入って来る、なんていうことは、なかったでしょうか」

神父「そういうことは、あります。そういう方も、歓迎しています。しかし、パクインスさんがいるときに、そういう人が入ってきた、という覚えは、ありません」

ハンヨジン「パクインスさんは、今年の1月末に職場を解雇されて、2月末からはホームレスになっていたと、ききました」

神父は、肯いた。「そうです。教会では、ホームレスになった人や、その寸前のような人々のための活動をしています。パクインスさんは、チョッパンなら、家賃を払うことができたんですが、それは嫌がって、むしろ、ホームレスになることを選びました。毎日、職業紹介所に行って、求人がないか調べるほかは、漢江の岸のベンチにすわって、川を眺めたり、自分の専門の雑誌を読んでいると、おっしゃっていました。もしや、その漢江の岸のベンチにいるときに、キムジングという人と知り合ったんでは?」

今度は、ハンヨジン警部が肯いた。「そのようですね」

神父「教会では、ホームレスの方たちのために、平日に朝食会を、日曜日に昼食会をしています。パクインスさんも、お誘いしたことがありますが、参加されませんでした。自分は、ホームレスの人と話ができない、と、おっしゃっていたことがあります。パクインスさんが、人と話がしやすいのは、仕事のことだと思います。初めて会った人でも、あの人の専門の、建築や土木のことで話しかけられたら、喜んで応じたんじゃないでしょうか」

ハンヨジン「ほんとうに、そうだったんじゃないかと思います。ありがとうございました、神父様」

ハンヨジン警部、チャンゴン刑事、チェユンスチーム長は、大橋の下に来た。青いビニールシートの小さな家が、10軒ほど、並んでいた。

こちら側の岸には、青いビニールシートの家々があるが、反対側の岸には、一軒もなかった。

午後の日が傾いて、大橋の下に差し込んで川の水を光らせているが、北岸は、南に張り出していた土地が、このあたりから東に、上流に行くに従って引っ込んでいく、そのカーブのせいで、青いビニールシートの家の前の道には、西陽が射しこまない。住人は、仕事に出かけていて留守のところもあれば、中で休んでいる人もいた。

ハンヨジン警部とチャンゴン刑事とチェユンスチーム長は、その前を通り過ぎて、少し離れた所にあるベンチまで行った。ここは、明るく、陽が射している。三人は、しばらく、その周りを、取り囲んでいた。

青いビニールシートの家の方から、ひとり、近寄ってきた。ハンヨジン警部が振り向き、チャンゴン刑事とチェユンスチーム長も振り向いた。半白の長髪を後ろで縛っている、がっしりした男性が、立っていた。

ハンヨジン「こんにちは」

ホームレスの男性「こんにちは」

ハンヨジン「ここに、3月頃、毎日、座っている人がいたと思うんですが」

ホームレスの男性「いました」

ハンヨジン「誰かと、話をしているところを、見たことがあります?」

ホームレスの男性「いや……誰かと話しているのを、見たことがない。教会でも」

ハンヨジン「教会で、会ったことがあるんですか」

ホームレスの男性「会ったというより、見たことがあるというだけで、向こうは、気づかなかったと思うし」

ハンヨジン「少し前に、わかったんですけど、ここのベンチに座っていた人は、3月に、亡くなっていたんです」

ホームレスの男性「まだ、そんな年じゃないのに。若くて、元気に見えたけど」

ハンヨジン「ここに来るようになってから、まだ、日が浅かったそうですね」

ホームレスの男性「そのうち、いなくなるかもしれないと思っていました。仕事を見つけるか、他に居場所を見つけるか、して。まだ、若くて元気そうだったから」

ハンヨジン「若いといっても、40歳代ですから、20代の若者のようなわけには、いきません」

ホームレスの男性「そのとおり。再就職はむずかしい。でも、20代の人も、就職はむずかしいですよ」

ハンヨジン「そうですね。仕事の話に誘われたんじゃないかと、思うんです。ここにいたときに」

ホームレスの男性「はあ」

ハンヨジン「だけど、それが、命取りになった」

ホームレスの男性「なんで、また」

ハンヨジン「誰かに利用されたんです」

ホームレスの男性「仕事も家もないから、ちょっとでもいい話があったら、ほいほい、のってくると、思われたんだねえ」

ハンヨジン「あなただったら、だまされたと思いますか」

ホームレスの男性「いや、だまされた末に、こういう暮らしになったわけで」

ハンヨジン「同じように、また、だまされると思いますか」

ホームレスの男性「金のあるときは、金を取るためにだまされ、金がなくなると、命を取るためにだまされる」

ハンヨジン「あなたは?」

ホームレスの男性「今のところは、命を取るような、だましかたは、されてないけれども」

ハンヨジン「なぜ、ここのベンチにいた人が、命を取る相手に、選ばれたんでしょう」

ホームレスの男性「いなくなっても、だれも、不思議に思わないからでしょう。わたしだったら、仲間が、一晩で気づいて、騒ぎますよ」

ハンヨジン「そういうことですね」

ハンヨジンは、教会の神父にしたように、ありがとうございました、と言って頭を下げた。ホームレスの男性も、おじぎをして、青いビニールシートの家の方に戻って行った。

ハンヨジン警部が、ベンチにすわったので、チャンゴン刑事とチェユンスチーム長も、その両側に、それぞれ、すわった。

さっきより、少し、若く、細い男が、下流の方から、空き缶を一杯に積んだ自転車を押してきて、前を通り過ぎた。イジョンアの盗まれた自転車ではない。型や色が違う。その男は、青いビニールシートの家々の、端っこの奥まった所にある家の横に、自転車を停めた。さっきの、半白の長髪のがっしりした男がそばに来て、何か、しゃべった。

しばらくして、細いホームレスの男が、近寄ってきた。

細いホームレスの男「そこに座っていた人のことだけども」

ハンヨジン「はい」

細いホームレスの男「話をしているところは見たことがないけど、誰かと歩いて行くところは、見ましたよ」

ハンヨジン「どっちへ?」

細いホームレスの男は、下流の方を指差して、「あっちの方へ」と言った。

ヨンサン駅に近い方である。

チェユンスチーム長が、紺色の庇付きニット帽と紺色のジャンパーの男の写真と、紺色のマフラーと紺色のジャケットの男の写真とを、細いホームレスの男に見せた。

チェユンス「こんな格好をしていましたか」

細いホームレスの男「いや、こんな格好じゃあ、なかった。ベンチに座っている人と同じような、コートを着ていました」

チェユンス「いなくなった日に見たんですか?」

細いホームレスの男「あのときの後ろ姿が最後でした」

ハンヨジン警部も、チャンゴン刑事も、チェユンスチーム長も、ベンチから身を乗り出して、彼の顔を見た。細いホームレスの男は、ちょっと、たじたじ、となった。

ハンヨジン警部が、「ちょっと、絵に描いてみますから、横から、詳しく教えて貰えます?」と言って、ノートを取り出そうとすると、チャンゴン刑事が、「モンタージュプログラムを持ってきています」と言って、スマホを取り出した。

細いホームレスの男「後ろ姿だけで、顔は見てないから」

チャンゴン刑事「後ろ姿だけでもいいです、アプリで絵に描きます」

ハンヨジン「その、ベンチにすわっている人と同じようなコートを着ている人を、前にも見たことがありますか」

細いホームレスの男「毎日、ここを通っている人に、似ていると思ったけど、自信がない。まだ、薄暗かったし、すぐに曲がって、見えなくなったから」

ハンヨジン「何時頃でしたか」

細いホームレスの男「5時頃か、5時を少し回った頃だったと思いますよ。朝の5時ですよ」

ハンヨジン「今度、その、毎日、ここを通っている人を、教えて貰えますか」

細いホームレスの男「じゃあ、朝の8時頃に来てください」

チャンゴン刑事は、細いホームレスの男に、ききかえしながら、ベンチの男に話しかけたコートの男に似ているという、毎日、ここを通る男のモンタージュも、作った。

翌朝。8時15分頃、漢江教会の東側の大通りを南に行った先にある、大橋の、南詰に向かって、下流の方から、ハンヨジン警部が、ジョギングしてきた。大橋の北詰から、少し下流の方に行ったところの、曲がり角を曲がって、ちょっと高い道に上がったところで、チェユンスチーム長が、川を眺めながら、煙草を喫っていた。大橋の北詰の下の青いビニールシートの家々の端の一軒の中に、チャンゴン刑事がいた。その家の前で、空き缶を潰している、細いホームレスの男が、「来た」と、小さく言った。

ずんぐりした男が、歩いてきた。顔も丸い。髪が短くて薄い。チャンゴン刑事が作ったモンタージュでは、目が細い。対岸のハンヨジン警部からは、わからないが。

ずんぐりした男は、空き缶を潰している男のそばまで来た。ナップザックを肩に掛けていた。通り過ぎて、少し下流に行ったところの角を曲がり、ちょっと高い道に上がった。チェユンスチーム長の横を通り過ぎて、上流の方に、大橋の方に、歩いていく。チャンゴン刑事が、青いビニールシートの家から出てきて、下流の曲がり角へ歩いていった。チェユンスチーム長の横を通り過ぎて、ずんぐりした男の跡を追った。ずんぐりした男は、大橋から続く高速道路の高架下の歩道橋に入った。

ハンヨジン警部が、大橋の南詰から北詰まで渡り切った。そして、ずんぐりした男を追い越して、漢江教会の近くまで、走っていく。

ずんぐりした男の後に、チャンゴン刑事が続き、その後ろに、チェユンスチーム長が続いた。

ハンヨジン警部が、漢江教会の方へ曲がった。

少し、遅れて、ずんぐりした男も、漢江教会の方へ曲がった。

ハンヨジン警部は、教会の庭先で足踏みしながら、ずんぐりした男を見送った。

チャンゴン刑事が、ずんぐりした男の後に続く。チェユンスチーム長が、漢江教会の庭に入った。パクスンチャン刑事が、教会の庭から出てきた。

少し先で、ずんぐりした男が、また、角を曲がった。チャンゴン刑事が、立ち止まった。パクスンチャン刑事が追いついて、角を曲がった。少し後で、チェユンスチーム長が、角まで来て、チャンゴン刑事を追い越して、角を曲がった。その後にチャンゴン刑事が続いた。その後から、ハンヨジン警部が、角を曲がって、ついていった。

こんなことを、あと2回、繰り返したあとで、チャンゴン刑事・チェユンスチーム長・パクスンチャン刑事・ハンヨジン警部は、御弁当屋「あったかごはん家(ち)」に、ずんぐりした男が入っていくのを見た。

ずんぐりした男は、御弁当を買って、「あったかごはん家(ち)」を出てきた。ハンヨジン警部・チャンゴン刑事・チェユンスチーム長が跡をつけた。ついに、ずんぐりした男は、高等学校に入っていった。警察官たち4人が4人ともブルートゥースをはずして、校門の前に、たむろしていると、始業のチャイムが聞こえてきた。

高等学校の、その日の最後の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、しばらくしてから、ずんぐりした男が出てきた。警察官たち4人は、今朝方とは違う姿で、跡をつけた。

ずんぐりした男は、帰りは、漢江教会の前を通り過ぎると、大橋の方には行かずに、そのまま、まっすぐ進み、やがて、曲がり角を曲がって、川から離れた方向に進んだ。

高等学校の教師の、ずんぐりした男は、今朝、御弁当を買った「あったかごはん家(ち)」の、店員のイジョンアが住むヴィラの2階に上がって行った。2階には、イジョンアの世帯と、もう1世帯しか、住んでいない。つまり、ずんぐりした、高等学校の教師は、イジョンアの隣の家の人だった。

ハンヨジン警部と龍山署の捜査員たちは、西氷庫洞の、イジョンアの隣人で、二村洞の高等学校の教師をしている、キムチョルの住民登録を調べた。キムチョルは数学の教師で、テコンドーの有段者だった。見た目は50歳代なのだが、住民登録では、30歳代だった。イジョンアと同じ年頃だが、キムジングよりも年上に見える。

ナミョン駅西側のチムジルバンの出入り口の監視カメラの映像を、もう一度、捜査員全員で、3月9日05時00分の記録から、見ていった。すると、古びたベージュのコートを着たパクインスと、同じくベージュのコートに茶色のマフラーを巻いたキムチョルとが、6時10分頃に、チムジルバンに入ってくる姿が映っていた。それから1時間後、紺色のマフラーと紺色のジャケットの男と、紺色の庇付きニット帽と紺色のジャンパーの男とが、チムジルバンを出て行く。1時間後、紺色のマフラーとジャケットの男が帰ってきて、また1時間後、ベージュのコートに茶色のマフラーを巻いたキムチョルが、チムジルバンを出て行った。

キムチョル、パクインス、キムジング、3人の住民登録を比較参照すると、学歴・職歴・居住歴等、あらゆる経歴に重なる点はない。その限りで、今年3月になるまで、3人は、お互いの存在を、まったく、知らなかった。

キムチョルとパクインスとの接点は、3月初め、パクインスが、二村洞の、キムチョルの通勤コースの道端のベンチにすわるようになった時である。

キムチョルとキムジングとの接点は、3月8日、キムジングが、西氷庫洞の、イジョンアの住んでいるヴィラに、すなわち、キムチョルが住んでいるヴィラに押しかけてきた時である。

そして、キムジングとパクインスとの接点は、3月9日、キムチョルが、ナミョン駅西側のチムジルバンに、パクインスを連れていった時だったと、考えられた。

もう一点、キムチョルとキムジングとが知り合った場所として考えられるのは、イジョンアの勤め先の、二村洞の御弁当屋「あったかごはん家(ち)」であった。

いずれにしろ、キムチョルが、キムジングとパクインスとに、のっぴきならない関わりを持つようになったのは、イジョンアの存在ゆえだと、考えざるを得なかった。

5月も後半になって、日が長く、午後6時半になっても明るい。中学や高校の生徒たちが、クラブ活動を終えて、自転車に乗ったり、歩いたり、三々五々、にぎやかに、道を、川を流れる水のように占めている。ほとんどの生徒が、帰り道を急ぐというより、友達としゃべるのを楽しみながら、歩いたり、自転車を漕いでいる。

西氷庫洞の、二階建てのヴィラ(低層集合住宅)の二階の、キムチョルの住居を、ハンヨジン警部とチャンゴン刑事とが訪ねた。同時に、隣のイジョンアと娘のミリの住居を、チェユンスチーム長とパクスンチャン刑事とが訪ねた。

インターホンに応えて、キムチョルが扉を少し開けて、顔を見せると、ハンヨジン警部とチャンゴン刑事とは、公務員証を見せて、「ソウル特別警察庁のハンヨジン警部です」「龍山署のチャンゴン刑事です」と名のった。

ハンヨジン「先般、起こった、行方不明事件の捜査で、目撃者と思われる方々に、事件当時の状況をおききして回っています。しばらく、お時間をいただけないでしょうか」

キムチョルは、どうぞ、と言って、扉を大きく開けて、奥に身を引いて、扉から手を放した。

ちょうど、隣でも、チェユンスチーム長と、パクスンチャン刑事とが、イジョンアと、遣り取りをしていた。

チェユンス「この前は御弁当屋で、捜査に御協力いただいて、ありがとうございました。あの後、教会に行って、いろいろ、きいてきたんですが、もう一度、確認したいことが出てきたんですが、しばらく、お時間をいただけませんか」

イジョンアも、どうぞ、と言って、扉を大きく開けて、チェユンスチーム長と、パクスンチャン刑事とを、家の中に入れた。

キムチョルの玄関の三和土で、ハンヨジン警部の方が奥に立ち、チャンゴン刑事が扉を閉めた。

キムチョルは、部屋の奥に立って、上がってください、と言った。

ハンヨジン「お邪魔します」

チャンゴン刑事「お邪魔します」

キムチョルが、部屋の中央に、あぐらをかいてすわった。ハンヨジン警部とチャンゴン刑事も、あぐらをかいてすわった。

チャンゴン刑事が、スマホを取り出して、これに入力してメモを取ります、と告げた。

ハンヨジン「さっそくですが、単純な、視力と記憶力の確認をさせてください。最近、わたしに、会ったことがありませんか」

キムチョル「きのう、二村洞との境界の大橋の近くの、南岸側をジョギングしていたでしょう」

ハンヨジン「やはり、覚えていらっしゃいましたね」

キムチョルは、チャンゴン刑事の方に、ちょっと、頭を動かして、「こちらの、チャン刑事さんは、思い出せませんが」

ハンヨジン「ええ、彼も、近くにいたんですが、あなたの視界に入らない位置にいました。わたしたちは、あの近くで行方不明になった人を探していたんです」

ハンヨジン警部は、パクインスの写真を差し出した。「この人に、見覚えは、ありませんか」

キムチョル「この人は、3月のはじめごろ、川岸のベンチに座っていました」

ハンヨジン「しゃべったことがありましたか」

キムチョル「わたしは、この人と、チムジルバンに行きました」

ハンヨジン「いつですか」

キムチョル「3月9日です」

ハンヨジン「それで?」

キムチョル「それで、その人は、先に、チムジルバンを出ていきました。わたしは、もっと、ゆっくりして、あとから、出ていきました」

ハンヨジン「どうして、この人と、チムジルバンに行ったんですか」

キムチョル「見るからに失業中で、川岸のベンチで専門雑誌を読んでいる姿を、毎日、見ているうちに、自分も、いつか、ああなるのではないかという気がしました。せめて、チムジルバンにでも、連れて行ってあげたいと思ったんです。わたしの様子を見て、彼も、同類のような気がしたんでしょう。何の抵抗もなく、一緒に行ってくれました」

ハンヨジン「その日、お仕事は、どうされたんですか」

キムチョル「かぜをひいたと連絡して、休みました」

ハンヨジン「御職業は?」

キムチョル「高校で数学を教えています」

ハンヨジン「彼と、どんな話をしましたか」

キムチョル「ほとんど、話らしい話をしませんでした。名まえも、きかなかった。ただ、人と交わるのが苦手なたちだと、お互いに、わかったんです」

ハンヨジン「彼は、なぜ、先に、チムジルバンを出たんですか」

キムチョル「なぜか知りませんが、先に行くと言って、出て行きました」

今度は、チャンゴン刑事が、質問を始めた。ハンヨジン警部がスマホを取り出してメモを入力した。

チャンゴン刑事「キムジングという人を、知りませんか」

キムチョル「お隣に来て、騒いでいた人でしょう」

チャンゴン刑事「何日だったか、覚えていますか」

キムチョル「ああ、あの、川岸のベンチの人と、チムジルバンに行った日の、前の日でした」

チャンゴン刑事「どんな騒ぎだったか、詳しく、教えて貰えますか」

キムチョル「ちょうど、今ぐらいの時間でしたね。お隣の中学生のお嬢さんが、帰ってきていた。大きな音や声がするから、何ごとかと思って出て、お隣に声をかけたんです。返事をするどころでない騒ぎで、扉を開けたら、そこらじゅう、引っ繰り返っていて、男が、中学生のお嬢さんに馬乗りになって、殴っていました」

ハンヨジン警部が、みるみる、怒りの表情になったが、黙っていた。

キムチョル「お隣の奥さんが、男を止めようとして振り払われたんで、わたしが男をつかまえて、お嬢さんから引き剥がしました。それから、わたしは、ちょっと、テコンドーをするもので、男に、痛い思いをさせてしまいましたが。それで、男は静かになりました。とにかく、話を聞こう、と言って、外に引きずり出しました。それから、わたしの部屋に来て、話を聞きました」

チャンゴン刑事「それで、キムジングさんは、おとなしく、帰りましたか」

キムチョル「おとなしく帰ったと思ったんですが。次の日に、お隣の奥さんが自転車を盗まれたと言って騒ぎ、それに、二階の廊下の消火器も盗まれていたことがわかって、どっちも、あの男が、やったようですね」

ここでまた、ハンヨジン警部が話した。「キムジングさんは、その自転車で、あなたとパクインスさんが行ったチムジルバンに、先に来ていたんです。パクインスというのが、川岸のベンチに座っていた人のなまえです」

キムチョル「そうでしたか」

ハンヨジン「イジョンアさんから巻きあげたお金で、チムジルバンに来ていたんです。そして、パクインスさんを連れ出しました」

キムチョル「どうして」

ハンヨジン「自分の身代わりにするためです」

キムチョル「身代わり?」

ハンヨジン「でも、わからないのは、なぜ、パクインスさんを身代わりに選んだのか……イジョンアさんからお金を取ることに成功したものの、ミリさんを殴るのを止められて、そのうえ、自分がテコンドーで痛い思いをさせられて、それを恨みに思って、イジョンアさんの自転車を盗んだり、消火器を盗んだり、あなたはテコンドーができて強いから、あなたと一緒にチムジルバンにいるパクインスさんを見て、彼なら弱そうだと思って選んだのか……」

キムチョルは、黙って、ハンヨジンのようすを、じっと見ていた。

ハンヨジン「でも、おかしい……そもそも、いつ、身代わりを立てようと考えたのか……チムジルバンに行く前から、消火器を盗んだり、カセットコンロを買ったり……初めは、自殺のつもりだったのが、身代わりを立てることに、考えを変えたのか。でも、それなら、なぜ、初めから、消火器を盗んだのか。ただの仕返し? 身代わりは、あとからの、思いつき?」

キムチョル「わたしが、パクインスさんをチムジルバンに連れて行ったのが、キムジングの手に、パクインスさんを引き渡すことに、なってしまったようですね」

ハンヨジン警部と、チャンゴン刑事とが、キムチョルを、真正面から、見直した。

キムチョル「そういうことでしょう? わたしが、パクインスさんをチムジルバンに連れて行かなければ、キムジングは、パクインスさんを知ることもなく、彼に何かしようなどと、思いつきもしなかったでしょう」

ハンヨジン「チムジルバンで、キムチョルさんと一緒にいるパクインスさんを見なければ、身代わりを立てずに、自殺した……消火器は、ただの仕返しに盗んだだけ……」

つぶやくハンヨジン警部の顔を、キムチョルも、チャンゴン刑事も、見守った。

ハンヨジン警部は、はっと、顔を上げた。「もう、こんな時間ですね。お夕食の時間なのに、長居して、申し訳ありませんでした。今日は、これで、失礼致します」

ハンヨジン警部が立ち上がると、チャンゴン刑事も立ち上がり、キムチョルも立ち上がった。ハンヨジン警部が、玄関に向かい、チャンゴン刑事が続き、キムチョルが、部屋の中央に立ったまま、見送った。

ハンヨジン警部とチャンゴン刑事とが外の廊下に出たとき、隣からも、チェユンスチーム長とパクスンチャン刑事とが出てきた。イジョンアは戸口に立ち、刑事たちとおじぎをし合った。イジョンアは、ハンヨジン警部の方にも振り向いて、会釈をした。ハンヨジン警部も会釈を返した。そして、イジョンアは、扉を閉めた。

4人の警察官は、目配せし合って、声を出さずに、階段を降りていった。車に、パクスンチャン刑事が運転席、チャンゴン刑事が助手席、チャンゴン刑事とハンヨジン警部とが後部座席で、乗り込んだ。

パクスンチャン刑事が車を発進させると、チェユンスチーム長が言った。「途中で、中学生の娘が帰ってきました。わたしらを見て、緊張していました。母親が、すぐに、奥の部屋に行かせたんで、一言も、しゃべる機会がありませんでしたよ」

ハンヨジン「キムジングがミリさんを殴っていたと、隣のキムチョル氏が、言っていたわ」

チェユンス「ええ。馬乗りになって殴りつけたそうです」

ハンヨジン「それを聞いた時、頭に血が上ったわ」

チェユンス「その前に、何があったか、聞きましたか」

ハンヨジン「いいえ。全部、聞かせてください」

チェユンス「まず、キムジングが、家の中に入れろ、と言うので、イジョンアさんが、警察を呼ぶ、と言うと、警察も亭主の味方だ、と言って、せせら笑ったそうです」

ハンヨジン「前に、キムジングを家に入れさせた、ばか巡査がいたせいだ」

チェユンス「それで、キムジングは、上がり込んで、くだを巻くので、イジョンアさんは、娘さんが帰って来る前に追い払いたくて、金を渡したそうです」

ハンヨジン「相手の思う壺だと、わかっていても、早く追い払いたくて、やってしまう」

チェユンス「それでも、キムジングが、おまえはおれから離れられないんだ、などと言い続けているうちに、中学2年生のミリが、帰ってきてしまったそうです」

ハンヨジン「壁蝨(だに)は、わざと、中学生の女の子があらわれるのを、待っていたの?」

チェユンス「そうです。中学生の娘を見て、いい女になってきたじゃねえか、あと3年もしたら、稼げるようになる、どこの店でも雇ってくれると、言ったそうです」

ハンヨジン「中学2年生は14歳で、3年たっても、17歳じゃないの!」

チェユンス「イジョンアさんが、ミリを奥の部屋に行かせて、キムジングを追い立てると、やっと腰を上げて、玄関で座って靴を履いている時に、ミリが後ろから突進してきて、firevase*で、頭を殴りつけたそうです」

ハンヨジン「あっ。それで、外にある消火器を、盗んでいったのね! 仕返しに! 消火器で殴られたものだから」

チェユンス「firevase*が割れて、中の薬品が、キムジングの頭にかかった。キムジングが怒って立ち上がり、ミリを殴り倒して、馬乗りになって、殴りつけたんです」

ハンヨジン「それで?」

チェユンス「隣の、高校の数学の先生が、どうしたんですか、と言いながら、入ってきて、イジョンアさんは、そのとき、ミリからキムジングを引き離そうとしていたのが、逆に振り払われてしまって、そのときに、数学の先生が、テコンドーで、キムジングを打倒したそうです」

ハンヨジン「隣の高校の数学の先生のキムチョルさんの話とも、一致している」

チェユンス「キムジングがおとなしくなったので、キムチョルさんが、とにかく、話を聞こう、と言って、外に引きずり出してくれたそうです」

ハンヨジン「そして、キムチョルさんの部屋で、キムジングの話を聞いたと、数学の先生は、言っていたわ」

チェユンス「イジョンアさんは、ミリと、散らかった家の中を片づけたそうです。キムジングが、いつ、帰ったのかは、知らないと言っていました」

ハンヨジン「隣同士の話は、一致している」

チェユンス「キムチョルさんは、パクインスさんをチムジルバンに連れて行ったことについて、どう、言ってましたか」

ハンヨジン「ああ、それはね……」

今度は、ハンヨジン警部が、キムチョルから聞いた話を、チェユンスチーム長とパクスンチャン刑事とに伝えた。

話を聞き終わったチェユンスチーム長が言った。「専門雑誌を読んでいるホームレスを見て、高校の数学の先生が、明日は我が身と思った、とねえ……」

車が龍山署に着いた。ハンヨジン警部は、パクスンチャン刑事に、4人分の夕食を買いに行かせた。残りの3人で、会議室に入り、スマホにメモした内容を各自のパソコンにダウンロードした。また、ホワイトボードに、キムチョルの証言と、イジョンアの証言とを、並べて書き出した。

パクスンチャン刑事が、夕食を買って、戻ってきた。とりあえず、4人は、黙々と、食事をした。

食事を終えて、ハンヨジン警部は、熱いコーヒーを淹れてきた。カップを持ってホワイトボードの前に立った。「それにしても、変だ。偶然、キムジングがいるチムジルバンに、キムチョルさんがパクインスさんを連れていくなんて。偶然でないとすれば、そうする理由がわからない」

ハンヨジン警部が、コーヒーを飲む。

チェユンス「キムジングは、パクインスさんの住民登録カードを持って行ったに違いないが、使った形跡がありません」

ハンヨジン「そう。それも、おかしい、いくら、自殺を偽装して、借金を逃れたって、そんなに、お金を持っていたわけじゃないし、たちまち、困るんじゃないの。知っている人を頼るわけにもいかないし、住民登録カードを使わなくても、借りられる宿もあるとしたってよ」

チャンゴン刑事「あの、youtube, どうします?」

ユーチューバー・チャンゴンのギターの弾き語りによる、パクインスの"해뜨는 집, The House of Rising Sun"のダビングCDを聴きながら死んでいった人の身元がわからない、と訴える動画は、身元が同姓同名のパクインスだとわかったあとも、より、多くの情報を集めたいからと、パクインスの友人のキム某さんに話して、削除していなかった。

ハンヨジン「あれも、いつまでも置いておけない。もう、削除しなきゃ。身元がわかったと公表しましょう。殺されたとか、キムジングが犯人かもしれないとか、そういうことは、一切、言わないで、身元不明の死者の友人が名乗り出てくれて、お葬式もすませました、もっと情報を集めたくて、ギターの弾き語りの動画を置いていました、と説明する動画を上げて」

パクスンチャン刑事「キムジングの身代わりにするつもりだったんなら、どうして、パクインスさんの好きなパクインスの曲を、かけたままに、しておいたんです?」

ハンヨジン「それよ! あの、イヤホンを着けたまま、ブチェ旅館を出入りしていたでしょう。パクインスさんが。空き地でも、イヤホンを着けていたんだと思う。それで、旅館のCCTVにも、イヤホンを着けた姿が残っていると考えて、空き地で、CDを聴きながら死んでいったように見せかけた方がいいと、思ったんじゃないかな」

チャンゴン刑事「ほんとうに、死ぬまで、聴いていたんだと思いますよ」

ハンヨジン「そうね。音楽に気を取られてくれている方が、手にかけやすかったんでしょうね。やっぱり、殺してから、両足を縛って、その上にガスコンロを置いて、その上に俯せにさせて……」

チェユンス「初めは、ほんとうに、そんな方法で、自殺するつもりだったんですかね」

ハンヨジン「ブチェ旅館に入る前に、ガスコンロを買っていた。そのときから、自殺するつもりだった。ということになるけど、なんか、変だなあ」

ハンヨジン警部は、飲み終わったコーヒーカップを持って、会議室を出て行き、流しで洗って、戻ってきた。他の3人も、飲食の後を片づけた。

ハンヨジン警部は、再び、ホワイトボードの前に立って、腕を組んだ。「ある意味で、キムジングも、すっかり、片づけられたわけね。イジョンアさんの前に二度と現れない」

チャンゴン刑事「ハン警部、キムジングが中学生のミリさんに馬乗りになって殴ってた、って聞いた時、沸騰してたでしょう」

ハンヨジン「そうよ! キムチョルさんは、テコンドーで、痛い思いをさせてしまった、なんて言ってたけど、わたしだったら、ぶち殺してたわ!」

言ってしまってから、ハンヨジン警部は、愕然とした。組んでいた腕を両側に垂らし、半ば、口を開けたまま、立ち竦んだ。それを見て、チャンゴン刑事、チェユンスチーム長、パクスンチャン刑事も、あっと、思い当たった顔をした。

ハンヨジン警部は、チャンゴン刑事に振り向いた。「もし、キムチョルさんが、手加減するのを忘れて、キムジングを殺してしまっていたとしたら」

チャンゴン刑事「3人で、共謀して、キムジングの遺体を隠したのか」

ハンヨジン「だから、キムジングが、もう一日、生きているように見せなければ、ならなかった。だから、もう一人、別の死体が必要になった。そういうこと?」

4人の警察官は、顔を見合わせた。

ハンヨジン「だけど、そんな必要ある? キムチョルさんが、たとえ、勢い余って、キムジングを殺してしまったとしてもよ。目の前で殴られている女の子を助けるためでしょう。起訴もされないわ。せいぜい、書類送検よ」

「そうですね」という、5人めの声が聞こえて、4人の警察官は、振り向いた。ファンシモク検事が、立っていた。

*firevase
https://tabi-labo.com/290986/wt-firevase
いざという場面で助けになる
花瓶の正体とは?
2019/04/01
TABI LABO編集部

(8)

翌日、午後6時半頃、西氷庫洞の、二階建てのヴィラ(低層集合住宅)の二階のキムチョルの住居のインターホンを、ハンヨジン警部が押した。キムチョルが扉を開けると、ハンヨジン警部が言った。「キムチョルさん。今から龍山署へ同行してください。パクインスさん殺害事件、および、キムジングさん殺害事件の捜査のため、キムチョルさんを被疑者として取調べます」

キムチョルは、扉を大きく開けた。ハンヨジン警部の後ろに、チャンゴン刑事、そして、巡査が、立っていた。

ハンヨジン「外出の支度をしてください」

キムチョルは、黙って、一旦、奥に引っ込み、財布とスマホをズボンのポケットに入れて、戻ってきた。

ハンヨジン「大家さんから、マスターキーを預かっています。御自宅の鍵は持ちましたか」

キムチョル「はい」

キムチョルが廊下に出ると、ハンヨジンが、「御留守中、御自宅を、証拠保全のために、警備します」と言った。キムチョルが鍵をかけると、巡査が扉の前に立った。

ハンヨジン警部とチャンゴン刑事とがキムチョルを両側から挟んで、階段に向かった。

イジョンアが、扉を開けた。その後ろに、ミリもいた。

イジョンア「待ってください」

ハンヨジン「今夜は、遅くなるかもしれませんが、署に泊まることはないと思います」

階段の下にも巡査がいた。彼も、警備に残るのだった。

警察車両は、来たときも、帰るときも、サイレンを鳴らさなかった。

龍山署の取調室で、キムチョルを被疑者の席に座らせて、ハンヨジン警部が、机の向かい側の尋問者の席に着き、チャンゴン刑事が、隅の椅子にすわり、ノートパソコンを膝に置いた。

ハンヨジン警部が、キムチョルに、取調べは、録音録画し、裁判で証拠として採用される、あなたには黙秘権があり、弁護士の立ち会いを求めることができる、と説明した。

キムチョルは、弁護士の立ち合いは求めない、と答えた。

ハンヨジン「最初に、キムチョルさんの容疑を説明します。容疑は、パクインスさんの殺害、および、キムジングさんの遺体の隠匿、または、遺棄、または、損壊、あるいは、それらの全部です」

キムチョル「さっきは、パクインスさん殺害事件、および、キムジングさん殺害事件の捜査のための取調べだと聞きましたが」

ハンヨジン「パクインスさん殺害事件、および、キムジングさん殺害事件の捜査のために、パクインスさんの殺害、および、キムジングさんの遺体の隠匿または遺棄または損壊あるいは全部の容疑で、キムチョルさんを取り調べます」

キムチョル「理解しました」

ハンヨジン「では、質問を始めます」

ハンヨジン警部は、ファイルを開いた。「あなたは、ベージュ色のコートと茶色のマフラーを持っていますね」

キムチョル「はい、ベージュ色のコートと茶色のマフラーを持っています」

ハンヨジン警部は、一枚の写真をファイルから取り出した。「これは、あなたと、パクインスさんですね」

3月9日06時10分の、ナミョン駅西側のチムジルバンの出入り口の写真だった。ベージュ色のコートを着て茶色のマフラーを巻いたキムチョルと、同じ色のくたびれたコートを着たパクインスとが、入ってくるところが、写っている。

キムチョル「はい。わたしと、パクインスさんです」

ハンヨジン警部は、また、一枚の写真をファイルから取り出した。「これも、あなたと、パクインスさんですね」

3月9日07時10分の、ナミョン駅西側のチムジルバンの出入り口の写真だった。紺色のマフラーを巻き、紺色のジャケットを着た男と、紺色の庇付きニット帽を被り、紺色のジャンパーを着た男とが、出ていくところが、写っている。

キムチョルは、何も言わない。

ハンヨジン警部は、また、一枚の写真をファイルから取り出した。「これも、あなたと、パクインスさんですね」

ナミョン駅とヨンサン駅との中間の地下鉄の駅の近くのコンビニエンスストアの中の写真である。紺色の庇付きニット帽を被り、紺色のジャンパーを着た男が、レジで清算をしており、そのそばに、紺色のマフラーを巻き、紺色のジャケットを着た男がいる。

キムチョルは、やはり、何も言わない。

ハンヨジン「パクインスさんは、このコンビニエンストアで、食料品と、電池を買いました。CDプレーヤーの電池です。久し振りだったんでしょう。同姓同名の歌手パクインスの"해뜨는 집, The House of Rising Sun"を、12時間、聴き続けていたことが、現場に残っていた電池の消費量から、わかりました。12時間というのは、コンビニエンスストアを出てから遺体が発見されるまでの時間から、死亡推定時刻後の時間を引いた、残りのほとんどの時間です。同じ一つの曲ばかりを」

キムチョル「パクインスさんは、川岸のベンチに座っていた時には、音楽を聴いているようすはありませんでした」

ハンヨジン「電池がなくなったけど、電池を買うお金が惜しかったんでしょう。地下鉄の交通カードを買うお金が必要だったから」

キムチョル「わたしと一緒にチムジルバンに行くときも、自分で地下鉄の料金を払っていました」

ハンヨジン「イチョン駅から、地下鉄に乗ったんですね」

キムチョル「はい」

ハンヨジン「どうして、ナミョン駅まで行ったんですか。チムジルバンなら、ヨンサン駅の近くにもあるのに。ヨンサン駅の方が、イチョン駅に近いのに」

キムチョルは、返事をしない。

ハンヨジン警部は、ファイルから数枚の写真を次々と出して机に置いてから、二組に分けて並べ直した。一方の組に4枚の写真、もう一方の組に2枚の写真。どの写真も、紺色の庇付きニット帽を被り、紺色のジャンパーを着た男が写っている。

ハンヨジン「ここに並べた、6枚の写真は、ヨンサン駅の西側にある、ブチェ旅館のCCTVの録画です。こちらの4枚は、3月9日0時10分、3月9日0時20分、3月9日20時45分、3月9日21時00分の写真です。そして、こちらの2枚は、3月9日7時40分、3月9日19時50分の写真です。この2枚は、パクインスさんです。そして、もう一方の4枚の写真は、キムチョルさんですね」

キムチョルは、黙っている。

ハンヨジン警部は、チャンゴン刑事の方を向いた。「動画をお願いします」

チャンゴン刑事が、ハンヨジン警部とキムチョルとが向き合っている机の上に、ノートパソコンを置いた。

ハンヨジン「まず、紺色のニット帽と紺色のジャンパーを着た人が、3月9日7時40分にブチェ旅館に入ってくる動画、次に、3月9日19時50分に出ていく動画を見てください」

チャンゴン刑事が、2本の動画を、2回ずつ、再生した。

ハンヨジン「次は、紺色のニット帽と紺色のジャンパーを着た人が、3月9日0時10分にブチェ旅館に入ってくる動画、3月9日0時20分にブチェ旅館を出ていく動画、3月9日20時45分にブチェ旅館に入ってくる動画、3月9日21時00分にブチェ旅館を出ていく動画を見てください」

チャンゴン刑事が、4本の動画を、2回ずつ、再生した。

ハンヨジン「次に、3月9日6時10分に、茶色のマフラーとベージュのコートのキムチョルさんと、コートを着たパクインスさんが、チムジルバンに入ってくる動画を見てください」

チャンゴン刑事が、3月9日6時10分に、茶色のマフラーとベージュのコートのキムチョルと、コートを着たパクインスが、チムジルバンに入ってくる動画を、2回、再生した。

ハンヨジン「最後に、3月9日9時10分に茶色のマフラーとベージュのコートのキムチョルさんがチムジルバンを出ていく動画を見てください」

チャンゴン刑事が、3月9日9時10分に茶色のマフラーとベージュのコートのキムチョルがチムジルバンを出ていく動画を、2回、再生した。

ハンヨジン「今度は、同じ動画で、膝の動きを線で結び、他は影にした動画を、再生します」

人の姿が黒い影になり、膝のところに光点を付けた動画が、さっきと同じように、2回ずつ、再生された。

ハンヨジン「今度は、茶色のマフラーとベージュのコートのキムチョルさんの影の膝の動きを、紺色のニット帽と紺色のジャンパーの影の膝の動きと重ねてみます」

3月9日6時10分に茶色のマフラーとベージュのコートのキムチョルがチムジルバンに入ってくるときの、シルエットの膝の動きは、紺色のニット帽と紺色のジャンパーの人のシルエットが、3月9日0時10分にブチェ旅館に入ってくる膝の動き、3月9日20時45分にブチェ旅館に入ってくる膝の動きと重なり、紺色のニット帽と紺色のジャンパーの人のシルエットが、3月9日7時40分にブチェ旅館に入ってくる膝の動きと重ならなかった。

また、3月9日9時10分に茶色のマフラーとベージュのコートのキムチョルがチムジルバンを出ていくときの、シルエットの膝の動きは、紺色のニット帽と紺色のジャンパーの人のシルエットが、3月9日0時20分にブチェ旅館を出ていく膝の動き、3月9日21時00分にブチェ旅館を出ていく膝の動きと重なり、紺色のニット帽と紺色のジャンパーの人のシルエットが、3月9日19時50分にブチェ旅館を出ていく膝の動きと重ならなかった。

ハンヨジン「コートで隠れていても、歩き出せば、膝の位置がわかります。身長は同じぐらいの人でも、歩き方は、人によって違います。

3月9日6時10分に茶色のマフラーとベージュのコートを着てチムジルバンに入ってくるキムチョルさんと、3月9日0時10分と3月9日20時45分に紺色のニット帽とジャンパーを着てブチェ旅館に入ってくる人とは、同じ膝の動きをしています。

3月9日9時10分に茶色のマフラーとベージュのコートを着てチムジルバンを出ていくキムチョルさんと、3月9日0時20分と3月9日21時00分に紺色のニット帽とジャンパーを着てブチェ旅館を出ていく人も、同じ膝の動きをしています。

しかし、3月9日7時40分に紺色のニット帽とジャンパーを着てブチェ旅館に入ってくる人、3月9日19時50分に紺色のニット帽とジャンパーを着てブチェ旅館を出ていく人とは、膝の動き方が違います。

すなわち、紺色のニット帽とジャンパーを着て、3月9日0時10分と3月9日20時45分にブチェ旅館に入った人、3月9日0時20分と3月9日21時00分にブチェ旅館を出た人は、キムチョルさんです」

キムチョルは、黙っている。

ハンヨジン「一方、キムジングさんは、3月9日0時00分から24時00分までの24時間、ブチェ旅館のCCTVにも、チムジルバンのCCTVにも、記録されていません。3月8日に、3月8日23時00分に、ソウル駅のロッテマートで、カセットガスコンロとホットプレートと紺色のニット帽とマフラーとジャケットを清算し、買ったばかりの紺色のニット帽を被って23時15分に出ていく姿が、CCTVに映った人も、キムジングさんではありませんでした。

キムジングさんは、3月8日午後6時過ぎに、二村洞のカフェで、イジョンアさんと話しているのを、従業員に目撃されています。イジョンアさんのカップのココアが自分の手にかかって、熱(あつ)っ、と言ったのを、従業員が聞いています。キムチョルさんとイジョンアさん以外で、生きているキムジングさんを目撃した人の証言があるのは、それが最後です」

キムチョルは、黙っていた。

ハンヨジン「キムチョルさん。あなたは、これらのことについて、納得のいく説明ができるはずです。ここでは、どうしても言いたくないというのなら、今夜は、これで、西氷庫のお住まいにお帰りいただいても構いません。あなたが逃亡するとは、考えていません。しかし、明日、ここに来ていただく時には、お隣のイジョンアさんにも、龍山署に来ていただかなければならなくなります」

キムチョル「その必要はありません。お察しの通り、キムジングさんは、生きて、わたしの住まいから出ることはありませんでした。わたしが、お隣に飛び込んだとき、男が中学生のお嬢さんに馬乗りになって殴りつけているのを見て、わたしは、咄嗟に、技を掛けました。男は気絶しました。イジョンアさんとミリさんとは、男が死んだと思って、動転しました。わたしは、彼は気絶しているだけだから、わたしの部屋に運んで、気がついたら、よく話をして、落ち着かせて帰らせるから、などと言って、安心させました。そして、キムジングさんをわたしの部屋に運びました。その時まで、わたし自身、彼はまだ生きていると思っていました。ところが、自分の部屋で、ひとりになって、彼の顔をよく見たら、ようすが変だと気づき、確かめてみると、既に、心臓は止まり、瞳孔は開き、首の脈は無く、どこからどう見ても、死んでいました。わたしは、あわてました。

そのとき、この頃、いつも、通勤の道で見る、漢江の岸のベンチにすわっている、ホームレスになりきれない男のことを思い出しました。ホームレスたちの近くにいながら、ホームレスになりきれない男です。わたしは、人を殺してしまったことが知られたら、職場にいられなくなり、あのベンチにすわっている男と同じになるのだと思いました。

そして、そのときに、この運命を逆転する方法を、思いついたのです」

一時間後、ハンヨジン警部とチャンゴン刑事とが、イジョンアとミリの住居を訪ねた。戸口に立つイジョンアの後ろに、ミリもいた。

ハンヨジン「残念ながら、キムチョルさんを、お隣に帰すことができなくなりました。キムチョルさんは、パクインスさんの殺害とキムジングさんの殺害を自白しました。供述の内容を裏付ける証拠を収集するため、明日、お隣の家宅捜索をします」

イジョンアが、身を乗り出して、キムチョルの住居の方を見ると、さっきの巡査と交替した、別の巡査が立っていた。

ミリが、イジョンアの後ろから、かいくぐるようにして、外に出た。キムチョルの住居の方を見てから、階段の方に行った。階段の下にも、巡査がいた。

ミリは、ハンヨジン警部とチャンゴン刑事の方に振り向いた。「一晩中、見張っているの?」

ハンヨジン「はい」

ミリ「わたしたちも、見張っているの?」

ハンヨジン「キムチョルさんの住居に近づく人は、見張ります」

ミリ「近づくって、初めから、隣だもの」

ハンヨジンは、苦笑した「そうですね」

ミリ「なんで、キムジングが来る前に、こうやって、見張って、追い払ってくれなかったのよ!」

ミリは、両脚を広げて立ち、両腕の肘を張り、拳を握り締めた。「あんたらは、ここで、こうやって、見張っていても、目の前で、キムジングが、家の中に入れろ、って言って、おかあさんが、帰ってください、おまわりさん、この人をつかまえてください、って言っても、ほっておくんだ!」

イジョンアが、ミリに駆け寄って、抱き締めた。「ミリちゃん!」

ミリ「おかあさんは、わるくない! 全部、キムジングがわるい! あいつを、うちに来させたのは、だれだ! 警察だ! 警察が、あいつの味方をして、あたしとおかあさんが逃げても引っ越ししても転校しても、あいつがつきまとってくるのを、味方して、あいつがわたしたちをいじめる味方をして、警察が、あいつといっしょになって、あたしたちをいじめて、人殺しにして、」

イジョンア「ミリちゃん!」

ミリ「おじさんは、人殺しじゃない!」

ハンヨジン警部が、近づいた。「ミリさん。あした、おかあさまと一緒に、龍山署に来てください。キムチョルさんと、話をしてください」

ミリは、イジョンアを振りほどいた。

ハンヨジン警部は、悲しそうに、まばたきをした。

ミリ「おかあさんが、この人は無理矢理お金を取っていきます、わたしと子供を殴ります、って言っても、助けてくれないんだ、離婚しても、結婚していたから、前は妻だった女の人の家に入るのはあたりまえだ、家に入れてあげなさい、って命令するんだ、妻が働いて稼いだお金を、夫に渡すのは当たり前だ、妻や子供が困っても当たり前だ、お金を渡さなかったら、殴られて当たり前だ、子供が大きくなったら、子供にも稼がせて、お金を取るのは当たり前だ、って言うんだ、泥棒の味方をするんだ、泥棒と一緒にあたしたちを嘲笑うんだ、妻だったんだから、夫の言うことをきけ、よその家のお金を取るのは泥棒だけど、妻のお金を取り上げるのは泥棒じゃない、って言うんだ、よその人を殴ったら強盗だけど、妻や子供を殴ったら強盗じゃない、って言うんだ、夫じゃない、って言っても、離婚したって、夫だった男は夫だ、妻だった女は妻だ、お金を渡せ、って警察が命令するんだ、だけど、離婚しなくても、夫と妻でも、働いて稼いだお金を横取りして、妻や子供が困るのに構わなかったら、泥棒と一緒じゃないか、妻や子供を殴ったら、強盗じゃないのか、それなのに、わたしたちが、強盗をつかまえて動けなくしたら、人殺し、って言って、あたしとおかあさんをつかまえて刑務所に入れるんだ!!」

ハンヨジン「明日、キムチョルさんと、話をしてください」

イジョンアが、再び、ミリを抱きしめた。ふたりに、会釈して、その隣を、すりぬけるようにして、ハンヨジン警部は、階段を降りていく。後に、チャンゴン刑事が続いた。

翌日は金曜日で、イジョンアは、いつもどおり、御弁当屋「あったかごはん家(ち)」に出勤したが、朝の忙しい時間帯が過ぎて休憩に入ると、ミリが高い熱を出しているので早退すると主人夫婦に断わり、帰宅した。ミリの学校にも、かぜで休むと連絡してあった。隣のキムチョルの住居を、警察官たちが家宅捜索している。チェユンスチーム長とパクスンチャン刑事もいた。ミリは、イジョンアが帰ってくるのを待ちかねていた。母と娘とが手に手を取るようにして、出かけようとすると、パクスンチャン刑事が声をかけた。龍山署に行くのなら、警察の車で送っていくという。まるで、出頭するようだが、送って貰うことにした。

龍山署に着くと、パクスンチャン刑事は、イジョンアとミリとを小さな会議室に案内した。母娘が机の前に座ると、刑事は、家宅捜索に戻りますと言って、出ていった。

入れ替わりに、チェックのスーツに身を包んだ中年の男性が、入ってきた。母と娘の前に立って、「キムジング殺害事件の関係者の方ですね」と言った。

イジョンアが、「はい」と答えた。

「弁護士のキムジョンボンです」と、彼は言って、ほほえんだ。

イジョンアも、ミリも、キムジョンボンの人の良さそうな顔を、改めて見直した。

キムジョンボンも椅子にかけて、話し出した。「きのう、取り調べを受けたキムチョルさんは、弁護士の立ち合いを拒否したんです。でも、容疑者に弁護士をつけないわけにいきません。それで、僕が、龍山署に呼ばれました。僕は、ハン警部と友人で、検事にも友人がいますが、一旦、キムチョルさんの弁護を引き受けたら、キムチョルさんの利益を最優先します。警察や検察に秘密を漏らすことは、一切、ありません。しかし、キムチョルさんは、弁護士はいらないと言って、僕に会おうともしないんです」

イジョンア「キムチョルさんの弁護をしてください。あの、弁護費用は、わたしが負担します」

キムジョンボン「いや、キムチョルさんは、自分で弁護費用を払えます。あなたは、キムチョルさんの親族か親戚ですか」

イジョンア「隣に住んでいる者ですが、キムチョルさんは、わたしたちのせいで逮捕されたんです」

キムジョンボン「ああ、僕がキムチョルさんの弁護を引き受けたら、詳しく、事情を伺います。ただし、今も言ったように、僕は、弁護を引き受けた人の利益を最優先します。ということは、場合によっては、関係者の方にとって不利益になることもします。それでも良ければ、あなたから、キムチョルさんに、弁護士を雇うように勧めてください」

イジョンアとミリとは、顔を見合わせた。ふたりで、肯き合って、再び、キムジョンボンの方を向いた。

イジョンア「はい。わたしたちの利益よりも、キムチョルさんの利益を優先してください。キムジョンボンさんを弁護士に雇うように、勧めますから」

キムジョンボンは立ち上がり、部屋の戸口まで行って、扉を開け、外にいる署員に、キムチョルを面会に連れてきてください、と言った。

部屋の外に署員が立って警備していたことに、このとき、初めて、イジョンアとミリとは、気づいた。

キムチョルは、他の留置人と分けて一人だけの部屋に留置されていた。署員から、イジョンアとミリとが面会に来ていると告げられると、誰とも面会をしないと言い張った。

イジョンアとミリとは相談して、面会しなくてもいいから、キムジョンボン弁護士を雇うように、そうしなければ、母娘とも逮捕されるまで龍山署に居座る、との伝言を頼んだ。

伝言を聞いたキムチョルは、仕方がない、キムジョンボン弁護士を雇う、と返事を寄越した。

キムジョンボンは、イジョンアとミリとに、にっこりと笑いかけて、「よく、やりました。これから、ここで面会しますから、お二人は、きょうは、これで、御自宅に帰ってください。あとから、報告に行きます」と言って、立ち上がった。イジョンアとミリの母娘も立ち上がって、くれぐれもよろしくお願いしますと、頭を下げた。3人は、部屋の戸口まで行き、母娘だけが廊下に出た。キムジョンボンは立ち止まり、ふたりが、もう一度、おじぎをした。キムジョンボンも、おじぎを返して、母娘が歩み去っていくのを見守った。

しばらくして、キムチョルが、キムジョンボンの待つ部屋に連れられてきた。キムジョンボンは立ち上がって迎えた。署員が部屋の外に出ると、キムジョンボンはキムチョルにおじぎをした。「名刺は、さっき、お渡ししましたね。弁護士のキムジョンボンです。僕を雇ってくださってありがとうございます」

キムチョルも、おじぎを返した。「お世話になります」

キムジョンボン「どうぞ、おかけください。僕も座ります」

ふたりとも、同時に、椅子に座った。だが、キムジョンボンは、すぐに立ち上がって、キムチョルの椅子の後ろに行った。「少し、前にずらしましょう」

キムチョルが腰を浮かせると、キムジョンボンが前に椅子をずらした。ちょうどいい位置になると、キムジョンボンは、自分の椅子に戻った。

キムジョンボン「さっそく、始めましょう。御自分の容疑は、御存知ですか」

キムチョル「パクインスさんの殺害、および、キムジングさんの遺体の隠匿、または、遺棄、または、損壊、あるいは、それらの全部です」

キムジョンボン「そうです。それなのに、あなたは、パクインスさんの殺害と、キムジングさんの殺害とを、自白しましたね」

キムチョル「キムジングさんの殺害と、キムジングさんの遺体の隠匿、または、遺棄、または、損壊、あるいは、それらの全部との、違いがわかりません」

キムジョンボン「おおいに違います。キムジングさんの遺体は見つかっていません。キムジングさんが死んだとされる日時よりも後で、キムジングさんの帰宅の音を隣人が聞いています。キムジングさんが死亡していなければ、殺人罪は成立しません。あなたは、取調べで、誘導されたり、不当な圧力をかけられたりして、やってもいない罪を自白してしまった可能性があります」

キムチョル「キムジングさんの服を着た人の監視カメラの録画を見せられて、わたしが成りすましているのだと言われました」

キムジョンボン「あなたは、それに対して、黙秘を続けていました。ところが、これ以上、黙秘を続けたら、あなたの隣人のイジョンアさんも警察署に出頭させると言われて、あなたは、キムジングさんの殺害を自白しましたね」

キムチョル「今日、家宅捜索がおこなわれています。キムジングさんの遺体の隠匿、または、遺棄、または、損壊、あるいは、それらの全部の証拠を探している」

キムジョンボン「たとえ、誰かの死体がそこにあったという証拠が見つかっても、それがキムジングさんの死体でなければ、キムジングさん殺害事件は成立しません」

キムチョル「キムジングさんの服を着ている人が歩いている、複数の動画と、わたしが歩いている動画と、パクインスさんが歩いている動画とを見せられて、わたしの膝の動きと、キムジングさんの服を着ている人の膝の動きとが、一致していて、パクインスさんの膝の動きと一致していない動画がある、わたしがキムジングさんに成りすましているのだと、言われました」

キムジョンボン「それは、あなたを誘導するためのブラフです。同じ人でも、疲れている時と、はしゃいでいる時とでは、歩き方が違うでしょう。確かに、人によって、歩き方の癖はありますが、一人の人がいつも同じ歩き方をするわけではない、このときは、たまたま、そういう歩き方だった、ということは、いくらでも言えます」

キムチョル「わたしは、自白をひるがえすつもりはありません」

キムジョンボン「あなたは、キムジングさんの死体を遺棄した場所を質問されても、黙秘を続けています。もし、仮に、どこかに死体があるとしても、時間が経てば経つほど、死因の究明が困難になり、そもそも、殺害されたのか、事故だったのか、病気だったのか、見分けがつかなくなります」

キムチョル「つまり?」

キムジョンボン「このまま、黙秘を続けてください」

キムチョル「わかりました」

キムジョンボン「きょうのところは、これまでにします。家宅捜索の結果次第で、今後の方針を決定します。僕は、この後、イジョンアさんに、あなたとの面談の結果を報告に行きます。何か、伝言はありますか」

キムチョル「わたしのことは心配しないで、ミリさんも学校を休まないで、ふたりとも、元気に暮らすように、伝えてください」

キムジョンボン「何か、持ってきてほしいものとか、ありませんか」

キムチョル「何もありません」

キムジョンボン「では、これで、面談を終わります」

(9)

土曜日の早朝、イチョン駅から、南の、漢江の岸をめざして、キムジョンボンが歩き始めた。アパート群の横を通り抜け、高速道路の下を通り抜けて、川岸に着くと、今度は上流へ、1km余り東の、二村洞と西氷庫洞との境界の大橋をめざした。このあたりは、龍山区の最も南に張り出したところで、川岸が、西北西・東南東方向に続いてから、大橋までの間の中間ぐらいで向きが変わり、西南西・東北東方向に岸が曲がる。その向きが変わるところから少し大橋の方へ行った場所に、ベンチがあった。

キムジョンボンは、ベンチの前まで来て立ち止まり、後ろを振り返った。前に向き直り、ベンチを5.6歩、行き過ぎて、立ち止まり、振り返った。もう、5,6歩、進んで、止まって、振り返る。前に向き直ると、10歩程先に、青いビニールシートの家々が並んでいる。一番手前の家のそばに自転車が置いてある。今は、家々の前に誰もいなかった。

キムジョンボンは、ベンチの方に振り返った。ふむ、と肯いて、それから、ベンチまで、歩いて戻った。ベンチにすわった。しばらく、漢江を眺めていた。それから、下流の方を眺めた。漢江大橋が見える。漢江大橋の北詰は見えないが、ヨンサン駅の東側の大通りに続いている。今度は、上流の方を見た。

キムジョンボンは、あっ、と小さく言って、立ち上がった。

イジョンアとミリとが、上流の大橋の下からこっち側へ出たところで、キムジョボンに向かって、おじぎをした。キムジョンボンも、おじぎを返した。

イジョンアとミリとが、ベンチのそばまで来た。ふたり、揃って、言う。「おはようございます」「おはようございます」

キムジョンボン「おはようございます」

イジョンア「きょうは、キムチョルさんの『供述の裏取り』をなさるときいて、わたしたちも、ごいっしょしたいと思って、参りました」

キムジョンボン「あなたたちまで、こんなに朝早くから来られなくても、よかったのに」

イジョンア「いいえ、警察の『裏取り』には、到底、付いて行かせてもらえないでしょうけど、弁護士さんなら、付いて行ってもいいと言ってくださると思いまして」

キムジョンボン「その、あなたに、そういうことをさせては、なんのために、僕が働くんだか、わかりません」

イジョンア「邪魔にならないようにします。よろしくお願いします」

キムジョンボン「邪魔だなんて、そんな。でも、ミリさんまで、いっしょに行くんですか」

ミリ「はい」

キムジョンボン「パクインスという人と、キムチョルさんとの間に、何があったのかを調べに行くんです。キムチョルさんの弁護が僕の仕事ですが、それは、無実を証明する、というのとは違います。実際に、冷酷な犯罪、残酷な犯罪がおこなわれたとしたら、それを、よくよく調べたうえで、どうやったら、少しでも刑が軽くなるかを考えるんです」

ミリ「はい」

キムジョンボン「キムチョルさんの、冷酷な面、残酷な面を知ることになるかもしれないんですよ」

ミリ「どんな冷酷なこと、残酷なことがあっても、わたしのせいです。わたしは、逃げません」

キムジョンボン「また、自分のせいだ、なんて言う。警察の前でも、そんなことを言ったそうですね」

イジョンア「この子は、言葉が激しくなってしまいがちですが、筋の通ったことを考えています」

キムジョンボン「そうですか……じゃあ、始めましょうか」

キムジョンボンは、そう言って、イジョンアとミリとの間から、向こうの青いビニールシートの家々の方を見た。イジョンアとミリも振り向いた。自転車のそばに、細身の男性が立って、こちらを見ていた。

キムジョンボンは、細身の、ホームレスの男に向かって、「おはようございます」と声をかけた。

細身のホームレスの男は、「おはようございます」と言って、2,3歩、近づいた。

イジョンアとミリも、振り返って、「おはようございます」と言った。

キムジョンボンは、イジョンアとミリとの横を通り抜けて、細身のホームレスの男に、2,3歩、近づいた。「いつも、これぐらいの時間ですか」

細いホームレスの男「一年中、これぐらいの時間です」

キムジョンボン「3月の初めだと、まだ、こんなに明るくないでしょう」

細いホームレスの男「そうですよ。3月の初めの一週間ぐらい、そこのベンチにすわっていた人のことを、ききにきたんでしょう」

キムジョンボン「そうなんです。僕は、弁護士です。最後の後ろ姿を御覧になった人ですか」

細いホームレスの男「警察の人にも言ったんだが、あれが、結局、最後になった」

キムジョンボン「一週間か十日ぐらい、毎日、ここにすわっていた人が、それより前から、何年も前からかな、毎日、ここの通りを歩いて通勤していた人と、漢江大橋の方へ歩いていくのを、見たんですね」

細いホームレスの男「警察の人にも言ったけど、すぐに、そこの角を曲がって、見えなくなったから、絶対にそうだったと言う自信はないです」

キムジョンボン「いつもよく見ている人たちだと思ったのは、服装のせいですか」

細いホームレスの男「そう。よく似たコートを着ていた。片方は、くたびれたコートだった」

キムジョンボン「毎日、ここの通りを歩いて通勤していた人には、何か、特徴がありましたか」

細いホームレスの男「さあ」

キムジョンボン「歩き方とか」

細いホームレスの男「歩き方……」

キムジョンボン「たとえば、うつむいて歩くとか、背をこごめて歩くとか」

細いホームレスの男「いや、そういう歩き方ではありません。寒いから、マフラーに首を縮めていたけど」

キムジョンボン「ベンチにすわっていた人と、話しているところは見ていないんですね」

細いホームレスの男「ベンチにすわっていた人が、誰かと話しているところも見ていないし、すわっていた状態から立ち上がるところも、見ていませんよ」

キムジョンボン「あなた自身は、毎日、ここを通って通勤していた人と、話をしたことがありましたか」

細いホームレスの男「いや、いや。ここの誰とも、話したことがないですよ。ただ、見かけるだけで。わたしは、毎日、龍山区じゅうを周って空き缶を集めるけど、ほかにも、段ボールを集める男もいるけど、よそでも、話をしたことはありませんよ。だけど、この近くの高校の先生らしい、っていうことは知ってますよ。出てくるのを見たことがある」

キムジョンボン「ベンチにすわっていた人の方は、教会で見たことがあるそうですね」

細いホームレスの男「わたしらは、みんな、教会の昼食会や朝食会に行くけど、ベンチの人は来たことがない。だけど、日曜日の礼拝に来ているのを見たことがあります」

キムジョンボン「高校の先生の方は、教会で見たことはありませんか」

細いホームレスの男「高校の先生の方は、教会で見たことはありません」

キムジョンボン「御弁当屋さんで見たことは」

細いホームレスの男「御弁当屋? 入ったことがない」

キムジョンボン「御弁当屋の前を通っているときに、ベンチの人や、高校の先生を見たことはありますか」

細いホームレスの男「ありませんが、時間帯が合わなかっただけかもしれませんよ」

キムジョンボン「そうですね」

細いホームレスの男「わたしだけじゃなくて、ここにいる人で、御弁当屋に入ったことのあるのはいませんよ。警察の人にいろいろきかれたから、わたしらも、お互い同士で話し合ったけど、あの人たちを、ここ以外で見たのは、教会と、高校の近くだけでした」

キムジョンボン「そうですか、よく、わかりました。ありがとうございました」

キムジョンボンがおじぎをした。

細いホームレスの男「これから、教会へ行って、シャワーを浴びて、朝食会ですよ。土曜日はシャワーもさせてくれるんです。あ、ベンチの人は来たことがなかったですよ」

そう言って、細身のホームレスの男は、おじぎをして、自分の家の前に戻っていった。他のホームレスの男たちも、家の前に出てきていた。

キムジョンボンは、ちょっと首を傾げて呟いた。「パクインスさんは髭も剃っていたし、髪も切っていた、とキムチョルさんは言っていた。公園のトイレででも、身嗜みを整えていたんだろう。だから、就職を諦めていない、自分の専門を生かせる仕事に就きたがっている、とキムチョルさんは見抜いた。いつも土木工学の雑誌を読んでいたから」

イジョンアとミリとが、じっと、キムジョンボンの顔を見ている。ふたりの顔を、キムジョンボンは見た。「だから、土木関係の仕事を紹介するから、その前に、チムジルバンに行こう、と誘った」

イジョンアとミリとが、ちょっと、目を見開いた。

キムジョンボンは、また、目を宙に戻した。「と、キムチョルさんは、後から供述している。最初は、ただ、チムジルバンに誘った、と言っていた。ホームレス同然の身の上に同情して、明日は我が身と思ったから。それをまた後から、キムジングを殺してしまったと思ったから、明日は我が身がホームレス同然になると思ったと供述し直している」

イジョンアが、悲しそうな顔をした。ミリも、顔を歪めている。ふたりが、少し、苦しそうな息をした。キムジョンボンが、はっと気がついて、ふたりの顔を見た。「行きましょう」

キムジョンボンが、ベンチの前へ、戻っていく。その後に、イジョンアとミリとが続く。ベンチの前を通り過ぎて、角を曲がって、川岸から離れて、少し高いところに上り始めた。

キムジョンボン「ここに近道があるんですね」

イジョンア「はい」

キムジョンボン「あなたも、知っていましたか」

イジョンア「日曜日に、ミリと一緒に、ハヌル公園まで、歩いたことがあります」

キムジョンボン「さっきの、あの人たちの前も通りましたか」

イジョンア「いえ……大橋の西氷庫洞側にも、これと同じような、近道があって、そこから、一旦、上に上がって、この道から、降りたんです」

キムジョンボン「ああ、なるほど。だから、大橋の下の人たちとは、会ったことがないんですね」

イジョンア「10人ぐらい、いることは、知っていました」

キムジョンボン「知っていましたか」

イジョンア「その日曜日にハイキングした日に、川の向こう岸を歩いて戻ったんです。10軒ぐらい、青いビニールシートの家があるのがわかりました」

キムジョンボン「今日は、大橋の西氷庫洞側の近道から降りたんですね」

イジョンア「あ、そうです」

キムジョンボン「だから、急に、あらわれたから、びっくりしました」

キムジョンボンが、にこっとほほえんで、イジョンアとミリを見た。ふたりも、ほほえみかえした。

ハヌル公園は、龍山区の西の麻浦区の漢江沿岸にある大きな公園である。西氷庫洞から歩き通すと12kmぐらいになる。朝から親子で御弁当を作って、いいハイキングになったが、ミリは、御弁当だけでは足りなくて、公園からの帰りに、おやつも買っていた、おかあさんも食べたじゃない、などとしゃべっているうちに、イチョン駅に着いた。

3月9日の朝、キムチョルとパクインスとは、イチョン駅から地下鉄4号線に乗り、シンヨンサン駅で京釜線に乗り換えて、ナミョン駅に行った。

キムジョンボンと、イジョンアとミリも、地下鉄に乗った。電車の中では、ほとんど、言葉を交わさない。

ふと、ミリが、言った。「なんで、シンヨンサン駅で、乗り換えたのかな。」

キムジョンボン「ヨンサン駅の近くにも、チムジルバンはあるのにね」

その話は、そこで終わった。イチョン駅の次の駅がシンヨンサン駅で、そこで、地上の路線の電車に乗り換える。ナミョン駅も次の駅である。

ナミョン駅の北の端の1番出口から出て、歩いているうちに、6時になった。道路を渡って、西に向かい、すぐに交差点を渡り、道路が南西に曲がっているのに沿って進み、やがて、横丁へ。

目指すチムジルバンに着いた。

キムジョンボン「ここは、どっちの龍山署からも近いなあ」

イジョンア「龍山署は、二つあるんですか」

キムジョンボン「二箇所にあるんです。だから、パクスンチャン刑事が、西氷庫洞の家から、警察の車で連れて行ってくれたでしょう。まちがえないように」

イジョンア「そうだったんですか。まるで、連行されるみたいな気がしましたけど」

キムジョンボン「連行するときには、連行することを告げなければいけませんからね」

ミリ「警察署から近いチムジルバンを選んだの?」

キムジョンボン「直線距離は近いけど、結構、通りが入り組んでいるから、わかりにくいところにあるけどね。灯台下暗し」

キムジョンボンが、チムジルバンに入り、イジョンアとミリも続いた。

キムジョンボンは、イジョンアに向かって言った。「僕は、ここの、ロッカーと駐車場を見て、睡眠室も見るつもりなんです。その、一応、利用客として」

イジョンア「じゃあ、わたしたちも、利用客になります」

ミリ「チムジルバンに来るのは、ひさしぶり」

キムジョンボン「その、会計を、いっしょにしませんか。家族連れに見えるでしょう」

イジョンアは、肯いて、「後で清算してください」

3人揃って、受付に行き、キムジョンボンが会計を済ませて、3人とも、お風呂セットを受け取った。

受付の前を離れてから、キムジョンボンは、あたりを見回して、「監視カメラがありますね」と言って、そちらに頭を動かした。イジョンアとミリも、そちらを見る。

キムジョンボン「3月9日の午前6時過ぎにキムチョルさんとパクインスさんが入るようすが、監視カメラに映っていました。ジャンパーのフードを被っていたり、庇付きの帽子を被っていたり、マフラーを頭巾みたいに巻いていると、顔がわからないけど、午前6時過ぎに入ってきた二人は、そんな恰好じゃなかった。ただ、みんなと同じようにマスクをしていた」

ミリ「受付の人に写真を見せて、こういう人に見覚えはありませんか、ってきいても、わからない?」

ロッカールームに向かって歩きながら、キムジョンボンは答えた。「住民登録証の写真はマスクをしていない。それを見せても、あてになる答えは返ってこない。後になって、似たような髪型や服装の人と並んでいるのを見せられたら、見分けがつきにくくなって、裁判で証言に使えなくなってしまう。だから、警察は監視カメラに頼った」

イジョンア「ああ、わたしは、警察の人から写真を見せられたとき、この人に御弁当を渡したことはない、って思い出したんでした。あの、パクインスさんという人のこと。店に入って、何も言わないで、出ていったんなら、わからなかったでしょう」

ロッカールームの前まで来て、キムジョンボンは、立ち止まり、「先に、駐車場を見ておかなくちゃ」と言った。それで、お風呂セットを持ったまま、駐車場に向かった。受付を済ませた後は、外に出ずに、駐車場に行くことができるのだった。

廊下に、エレベーターのマークのある扉があり、それを開けると、目の前にエレベーターが2台、並んでいた。

エレベーターで地下に降りて、扉が開くと、そこは駐車場である。キムジョンボンが先に降りて、イジョンアとミリも続いた。そんなに広い駐車場ではない。キムジョンボンは、ざっと全体を見渡してから、自転車置き場の方へ行った。今は、一台だけ、置いてあった。自転車の前まで来て、また、キムジョンボンは、全体を見回した。

キムジョンボン「自動車の出入り口に監視カメラがあるけど、駐車券の発券機を境にして、自転車の出入り口は別になってるし、そこからここまで、死角になってるんだ」

ミリ「自転車に乗ってきたら、監視カメラに映らないの?」

キムジョンボン「自転車に乗って入ってきて、停めて、自転車に乗って出ていく人は、監視カメラに映らない。キムチョルさんは、3月9日の午前4時過ぎに、自転車でここから出て、イチョン駅まで行った、と供述しています」

イジョンア「わたしの自転車で、ですか?」

キムジョンボン「そうです。キムチョルさんは、ここのチムジルバンに最初に入ったのは、0時40分頃だったと供述しています。受付でロッカーのカギを貰ったでしょう。あれがない人は、駐車場から、直接、建物に出入りすることはできません。だから、0時40分に着いたときは、キムチョルさんは、自転車で駐車場に入ってから、あの監視カメラのある出入り口に周って、中に入った。そのときは、キムジングさんの紺色のジャンパーを着ていた、と供述しています。紺色の庇付きニット帽も被っていました」

イジョンアとミリとは、顔を見合わせた。キムジョンボンが言う。「中に入りましょう」

キムジョンボンが、先に立って歩きだすので、イジョンアとミリも、後に続いた。エレベーターに乗り、地上階に着いて、降りて、すぐ目の前の扉を、ロッカーのキーで開けて、廊下に入った。ロッカールームは、すぐ先である。

キムジョンボン「じゃあ、一風呂、浴びてきましょうか。ふたりとも、朝御飯は済ませていますか」

イジョンア「コーヒーを飲んできただけです」

キムジョンボン「僕もなんです。後で、朝御飯を一緒にしましょう」

イジョンア「はい。それじゃ、あとで、食堂に行きます」

キムジョンボン「ごゆっくり、どうぞ」

30分ぐらいして、イジョンアとミリとが、食堂に行って、先にすわって、お茶を飲んでいると、まもなく、キムジョンボンも来た。

キムジョンボン「やあ、お待たせしました。睡眠室に寄ってきたものですから」

イジョンア「お休みになりましたか」

キムジョンボン「いや、部屋を見てきただけです」

3人揃って、朝御飯を注文した。まるっきり、一家団欒の図であった。

ミリ「あー、チムジルバンで朝御飯を食べるのは、ひさしぶりだなー」

イジョンア「そうね」

ミリ「前に、ずーっと、チムジルバンに泊まっていたとき、食堂のおばちゃんと、友達になった」

イジョンア「そうだったわね」

ミリ「宿題をしているときに、掃除のおばちゃんが、ジュースを持ってきてくれたことがあった」

イジョンア「そうだった」

ミリ「おばちゃんたち、もしかしたら、今日も、あのときの、あたしみたいな子に、ジュースや、お菓子をあげてるのかな」

イジョンア「そうね……あのときのわたしたちみたいな人が、いるかもしれないわね」

キムジョンボン「ミリさんは、そのとき、いくつだったの?」

ミリ「小学4年生です」

イジョンア「わたしが、ミリを連れて家を出て、キムジングと離婚の調停が終わるまで、チムジルバンにいたのが、5年前です」

ミリ「おもしろかったけどなー」

イジョンア「チムジルバンが飽きて嫌いになるんじゃないかと思ったけど、そうはならなかったわね」

ミリ「うん。また、やってもいい」

イジョンア「ちょっと」

イジョンアが苦笑した。

キムジョンボン「調停が終わってから、ヴィラに移ったんですね」

イジョンア「そうです」

ミリ「もう、腹が立つんだ。離婚したのに、うちに来た。あいつが」

キムジョンボン「ミリさんは、そのとき、どうしていたの」

ミリ「奥にいなさい、っておかあさんに言われて、奥にいたけど、こわかった。また、なぐられるかと思って」

キムジョンボン「うん」

ミリ「学校にも来たの。びっくりした。逃げたら、追いかけてきた。警察官、見て、駆けよっていったら、すみません、うちの子が、なんて言って……うちの子じゃない」

キムジョンボン「警察の人は、そのとき、どうしたの」

ミリ「警察官が、わたしの肩をつかまえてて、あいつに渡そうとした。あいつが手を伸ばしてきて、わたしが、必死で、さわられないように、しがみついたのに、あいつの方に押して、渡そうとするの。いやだ、って言って、泣きわめいて、必死になって、警察官を振りほどこうとしたけど、力が強くて、押さえられて、逃げられなかった」

キムジョンボン「それじゃ、キムジングさんに、引き渡されてしまったの?」

ミリ「小学校の担任の先生が、通りかかって、声をかけてくれたの。先生! って言って、駆けよっていったの。先生、先生、って言ってるうちに、あいつ、いなくなった」

キムジョンボン「警察官に、担任の先生が、何か、言ってくれた?」

ミリ「うん。親のふりをして、誘拐する事件がありますから、って注意してくれた。警察官の顔、ああいうときの表情って、なんていうのかな」

キムジョンボン「気まずそうだった?」

ミリ「そう」

キムジョンボン「苦虫をかみつぶしたような顔?」

ミリ「そう」

キムジョンボン「それにしても、こわかったね」

ミリ「そう。だから、警察は、信用してない」

キムジョンボン「今の話、警察の記録には、残っていないんだ。イジョンアさんが通報したときの記録はあるけど」

ミリ「おかあさんが通報したときも、全然、追い払ってくれないんだよ。その反対だったんだよ」

キムジョンボン「そうだ。それで、警察内部で、問題にしてる。再教育が必要だって、ハン警部が、言いだしてね」

ミリ「ああ、あの警部さんね。ちょっと、小学校の先生に、似てる」

キムジョンボン「ここだけの話だけど、あの人、漫画が大好きなんだよ」

ミリ「ほんと?」

キムジョンボン「名探偵コナンの大ファンなんだ」

ミリ「名探偵コナン! だから、警部になったの?」

イジョンアが、笑い出した。ミリも、キムジョンボンも、大笑いである。

やがて、キムジョンボンが、言った。「イジョンアさん、ミリさん。今日は、ごくろうさまでした。ここからは、僕ひとりで調べます。ふたりは、チムジルバンで遊んでいたければ、そうしてもいいけど、『裏取り』に付いて歩くのは、ここまでにして、帰った方がいいです」

ミリ「それじゃ、わたしたち、チムジルバンに遊びに来ただけじゃない」

キムジョンボン「それでいいんだよ。あのね、僕は、弁護士の仕事をしなくちゃいけない。子供を連れて行くわけにいかない」

ミリ「おかあさんも?」

キムジョンボン「イジョンアさんも、ミリさんを連れて、帰ってください」

イジョンア「はい」

ミリ「おかあさん」

イジョンア「帰りましょう。お仕事の邪魔をしてはいけないから」

ミリ「ふん。まあ、そのほうが、おじさんのためにも、いいのね」

イジョンア「そうね」

イジョンアは、改めて、キムジョンボンの顔を見直して、言った。「どうか、キムチョルさんのことを、くれぐれも、お願いします」


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