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大統領候補の演説 (01)

ドラマ『秘密の森』+エラリー=クイーン著『十日間の不思議(Ten Days' Wonder)』の二次創作です。
物語の中の時間は、2022年2月~4月です。


(1)

「ウィルス感染症のパンデミックが始まってから2年4箇月が経ちました。感染の広がりを防ぐために、人々は行動を規制され、外出を制限され、アルコール消毒とマスクの着用を義務づけられました。ほとんどの産業で業務の縮小を余儀なくされました。世帯収入が減り、生活を脅かされ、親しい人との交流を阻まれてきました。

パンデミックは、まだ、収束してはいません。しかし、ウィルスは変異を繰り返し、徐々に、その殺傷力を弱め、人々は、そろり、そろりと、用心に用心を重ねながら、日常を取り戻しつつあります。

数字は、感染者数・死者数と、人口密度との相関関係を、誰の目にも、はっきりと、つきつけています。

首都圏に、全人口の50%が集中しています。首都には20%弱が集中しています。そして、首都の人口密度は、国内第二の大都市の人口密度の、4倍です。

パンデミックの前から問題となっていた、首都の人口過密。必然的に起こる、住宅不足。それだけが原因ではありませんが、異常なまでの家賃の高騰。

老人にとっては、特に、年金の少ない老人にとっては、医療費か、住居費か、という、どちらを捨てても、人間らしい生活と生存を危うくする選択を迫られる現実があります。

一方、国全体では人口が減少しており、それも、若年人口が減少し、老年人口が増大しています。

単純な、人口の多い・少ないの問題ではありません。人口の偏りが問題なのです。首都に人口が集中すること、若者よりも老人が多すぎること。地域の偏り、年齢の偏り。

人の体も、栄養の偏りは、健康を損ねる大きな要因になります。まさに、パンデミックの感染者数・死者数に表われた通りです。

この問題に、特効薬はありません。

様々な課題が集積して、現在の状態に至りました。どれか一つの課題を解決するのにも、他の課題解決との連携が必要で、複雑で、困難な道のりになります。

喫緊の課題は、パンデミックです。最初は治療法がなかった新型のウィルス感染症。今では、ワクチンがあり、治療法も確立しつつあります。しかし、また、治療法のない感染症が発生する恐れは、残っています。それどころか、気候変動の影響により、今後、ますます、新しい致命的な感染症が発生する危険は大きいと見られています。

わたくしたちの生活や仕事のあらゆる局面で、気候変動の影響を小さくする努力が求められています。首都の人口過密を和らげることも、その努力の一つです。

更に、ウィルス感染症のパンデミックは、一部の人だけの安全を確保するというようなことは不可能であり、すべての人が一定水準以上の住居と医療を確保できなければ、誰も救うことはできないのだ、ということを、明らかにしました。

ただ、そうすることが必要だとわかっていても、一度に全部を実現するのは無理なので、計画的に、すべての人の住居を適正な条件に、医療費を無料に、近づけていく。

第一歩を始める必要があります。大学の移転。首都に50以上あるキャンパスの半数を移転すること。それが、第一歩になります」

大統領選挙は、二大政党の候補者と、10人余りの泡沫候補とで争われた。

泡沫候補の一人は、30歳の女性で、キムサランという名だった。キムサランは、龍山区の漢南洞の住民自治センターの職員だったときに、非営利活動法人を立ち上げて、孤立した人の支援を始め、3年前からは、非営利活動法人の専従となり、更に、今度は、政党を立ち上げて、大統領選挙に挑んだ。

ハンヨジン警部は、仕事が休みの日、ファンシモク検事と一緒に、キムサラン候補の演説会に行った。

その日は、複数の候補者の演説が前後して同じ会場でおこなわれた。どちらも泡沫候補だったが、一方は、IT長者として有名な30代の男性で、演説の前に、これも30代に人気のあるスターが、バンドを引き連れてあらわれて演奏し、まるで、コンサートか演説会か、わからないようになったが、会場の熱気は盛り上がった。続いてのIT長者の登場も、なかなか凝った演出で、ドラマの大詰めに敵の大ボスの悪の帝王が正体を表わす場面のような印象を与えた。それで、肝腎の演説もまた、巧みだったのである。IT長者は、ハンサムで、言語明晰で、すばらしく論理的に見える弁舌を振るい、喝采を浴びた。IT長者が退場すると、演説を聴きに来たのか演奏を聴きに来たのか芝居を見に来たのかわからないながらも、多くの人々は満足して引き上げていった。

その後は、まるで、異次元空間から、平板な日常に戻ったようだった。

会場に残った、まばらな人々を見て、壇上に登ったキムサラン候補は、皆さん、どうぞ、集まってください、と言って、自ら壇を降りた。ハンヨジン警部とファンシモク検事とが立ち上がって、パイプ椅子を運んでいくと、あちこちの人々も立ち上がり、パイプ椅子を持って集まり、半円を作って、すわった。年齢も性別も幅広い層が揃っていた。

キムサラン候補は、自己紹介し、演説をおこなった。オーケストラの指揮者のように両手も動かしている、と見えたのは、手話だった。

首都への人口集中と過密の解消を第一の課題に掲げて、様々な計画を語った。

それらの計画がほんとうに、首都と地方の格差と人口の偏りの解消に役立つのか、それらの計画を実行する政治力が彼女自身にあるのか、はなはだ、あやしいものだ。

そう考える人は多かったし、ハンヨジン警部も、その一人だった。

大統領候補キムサランは、演説を終えると、集まった一人一人の人に語りかけて、意見を聞いていった。明確な、政治的な意見は少なく、漠然とした不安や、日常生活で感じる不便、習慣や制度や様々なルールが、こうであったらいいのに、なぜ、こうなっているのか、というような話が多かった。それらの些細な思いや、ごく個人的な考えを、キムサラン候補は、自治体や国の政治課題につなげていった。タウンミーティングのようであり、グループカウンセリングのようでもあった。見ず知らずの人々が語り合ううちに、友情も生まれた。これは、候補者が、なかなか、うまく、司会をしたので、利害が衝突しそうな意見が別々の人から表明されても、みんなで、とりあえず、相手の事情に耳を傾ける雰囲気を維持したからだった。

ハンヨジン警部は、キムサラン候補に感心した。演説では、経済合理性も実現可能性もないことを言っているように見えた。だが、それは、自由な発言を促すためだった。誰でも、それなりの知識や経験はある。だが、誰もが、限られた知識と経験しか、持っていない。自分の抱えている問題を語る言葉を持とう。他の人の抱えている問題への関心を示そう。自分たちの問題を解決したいという意志を示そう。そこから、政治が始まる。キムサラン候補は、そんなメッセージを発信していた。

ハンヨジン警部自身が、キムサラン候補から語りかけられると、首都は、こどもを連れていける公園や図書館や博物館があるのはいいが、そこに至るまでの交通機関が、道路は車の事故が多く、また、こどもを狙った犯罪も多く、監視カメラがあっても、充分に事故や犯罪を防ぐのに役立っているとは言えない、と述べた。ファンシモク検事も、こども同士の暴力犯罪も多く、監視カメラだけでは防ぎきれない、こどもを取り巻く環境を改善する必要がある、と言った。

キムサラン候補は、重大な指摘だ、と述べ、こどもの事故や犯罪を防ぐことは、同時に、おとなを守ることにもつながる、昨今では、監視カメラは、認知症になって徘徊する老人の捜索にも一役買っている、などと、都市の安全と福祉という政策課題につなげていった。

大統領選挙は3月9日におこなわれた。

ハンヨジン警部は、キムサラン候補に投票した。警察行政に携わる者として、市民の安全を守る職責にある者として、首都への人口集中と過密は、都市を蝕む、引いては国をも蝕む「癌」だと考えている。首都の人口過密と地方の人口減少との同時解消を最重要課題に掲げた、キムサラン候補に期待する。たとえ、今回は落選しても、次にまた、区議会議員か市議会議員か、区長や市長に立候補して、政治家として実績を積んでほしい。そう考えての投票だった。

大統領選挙は、二大政党の激しい接戦となった。僅差で、女性家族部の廃止を公約に掲げた候補者が当選した。

(2)

2022年の4月の第3日曜日はキリスト教のイースターだった。その翌日、恰幅のいい老紳士が、ソウル特別市警察庁に来て、妻が行方不明になったと訴えた。昨日の朝、妻は、江南区の自宅から、京畿道安城市の息子の家に出かけた。ところが、午後になって、自分が息子の家に行ってみると、妻は来ていなかった。夜にはソウルの家に帰ったが、何時になっても妻は帰ってこないし、スマホもつながらない。妻の宝石箱を改めると、中身がなくなっていた。それで、宝石を持って出かけて強盗に遭ったのではないかと心配になった。今朝は、龍山区の妻の実家に寄ったが、そこにもいなかった。その足で来た。

老紳士は、建築会社を経営する、パクテウォンだと名乗った。

パクテウォンは、一室に案内された。椅子にすわって待っていると、警部が巡査と一緒に入ってきた。巡査はノートパソコンを持っていた。

ハンヨジン「お待たせしました。ハンヨジン警部です」

パクテウォン「お世話になります。パクテウォンです」

ハンヨジンと巡査とは、パクテウォンの向かい側にすわった。巡査は、机の上でノートパソコンを開いた。

ハンヨジン「昨日から、奥様と連絡が取れないのですね」

パクテウォン「そうなのです」

ハンヨジン「今も、スマホをお持ちですか」

パクテウォン「はい。もう一度、かけてみます」

ハンヨジン「どうぞ」

パクテウォンは、スマホで発信したが、応答がなかった。

パクテウォン「やっぱり、妻のスマホの電源は切れています」

ハンヨジン「今、お持ちのスマホに、奥様の写真か動画がありますか」

パクテウォン「あります」

ハンヨジン「こちらでコピーして、監視カメラで、奥様を捜しましょう」

パクテウォン「ああ、お願いします」

パクテウォンが、妻の写真をスマホの画面に出した。ハンヨジン警部が、そばの巡査に振り向いて手で合図し、巡査が差し出した手に、パクテウォンはスマホを渡した。

写真と動画が、スマホからパソコンにダウンロードされた。その画面を見たハンヨジンは、声を抑えながらも、驚きを表わして、パクテウォンの顔を見た。

ハンヨジン「お嬢様の写真と間違えられたのでは」

パクテウォン「いえ、妻なのです」

ハンヨジン「先月まで、大統領候補として選挙戦を争った、キムサランさんに、間違いありませんか」

パクテウォン「はい、そのキムサランです」

巡査が、パクテウォンにスマホを返した。

ハンヨジン「キムサランさんが家を出られたときの服装は、わかりますか」

パクテウォン「紺色の帽子とコートとズボンです。鍔の広い、紺色の帽子と、コートは、膝下まで丈のある、前開きでボタンで留める、藍色のデニムのワンピースです。中に、白い、ゆったりした、襟の無い、ブラウスより丈の長い、チュニックとかいうものを着て、脚にぴったりした、濃紺色のジーンズを履いていました。靴は茶色のシューズです。それから、茶色の牛革のトートバッグを持っていました」

ハンヨジン「キムサランさんは、昨日、アンソン市の息子さんの家に行く、と言って、家を出られたのですか」

パクテウォン「そうなのです。息子は、そこにアトリエを持っています。わたしも、後から行くことにしていたのです」

ハンヨジン「息子さんは、何歳でいらっしゃるんですか」

パクテウォン「ああ、サランが生んだのではありません。息子のヨンギは、サランよりも年上です」

ハンヨジン「ああ、なるほど。キムサランさんは自分で車を運転して行かれたんでしょうか」

パクテウォン「バスターミナルまで、わたしが車で送っていきました」

ハンヨジン「キムサランさんがアンソン市行きの高速バスに乗るところは、御覧になりましたか」

パクテウォン「見ていないのです。サランを降ろしたら、すぐに、わたしは教会に行きました。サランは一緒に教会に行かなかったのです。一昨日は一緒に行ったのですが」

ハンヨジン「では、バスターミナルの監視カメラを調べましょう。乗り込んだバスが特定できれば、車内カメラを調べ、運転手にも話を聴きます。キムサランさんが車を降りたところから調べたいので、御自身の車の車種とナンバーも教えていただけますか」

パクテウォン「鉄色のステーションワゴンです。昔から、それを自分で運転するのが好きなのです」

パクテウォンは、車のナンバーも言った。

ハンヨジン「アンソン市の警察にも協力を頼んで、探しましょう。パクヨンギさんの家には、アンソン市の市内バスを利用するのでしょうか」

パクテウォン「市内バスに乗りますが、サランは、ヨンギの家に行く前に、建築中の美術館に行くと言っていました。建築中ですが、庭園は半分しか造成できていませんが、建物はできあがっていて、その正面に、ヨンギの彫刻が置かれているのです。先週の金曜日に、正面玄関の前に据えられたのです。サランは、ヨンギに迎えに来させると言って、出かけたのです。その通りにしたと思っていたのに、わたしがヨンギの家に行ってみると、サランはいなかったし、ヨンギは、迎えに来いという連絡も何もなかったと言う。それで、わたしがサランにスマホをかけてみると、つながらず、とりあえず、車で迎えに行ってみましたが、美術館にいませんでした。ヨンギの家に戻って待っていても何の音沙汰もなかったのです」

ハンヨジン「美術館からパクヨンギさんの家までの距離は、どれぐらいですか」

パクテウォン「2㎞足らずです。美術館と息子の家の中間にバスの停留所があって、どちらかと言うと、美術館の方が停留所に近い。次の停留所は、方角違いで、息子の家から、もっと遠い。だから、美術館から息子の家までは、車を使わないのであれば、バスに乗らずに、歩いていくことになります」

ハンヨジン「では、バスターミナルから美術館までのバスと、美術館とパクヨンギさんの家との間の道を、調べましょう」

パクテウォンは、パクヨンギの家と美術館建設予定地を地図に表示した。巡査がスマホを受け取り、パソコンにダウンロードし、また、スマホをパクテウォンに返した。

ハンヨジン「アンソン市の義理の息子さんの家と美術館と、龍山区の御両親の家、その他に、キムサランさんが行きそうな場所に、心当たりはありませんか」

パクテウォン「わたしも考えてみたのですが、わかりません」

ハンヨジン「後で、何か思い出したら、御連絡ください」

ハンヨジン警部は、捜索の手配を終えると、パクテウォンを部屋の外に導いた。ビルの玄関の隅に、観葉植物の鉢で囲まれた場所があり、テーブルと椅子が置いてある。少し離れた所にウォーターサーバーや飲み物の自動販売機もある。ハンヨジン警部は、パクテウォンをすわらせて、紙コップのコーヒーを二人分、買ってきた。腰を下ろして向かい合って、一口、飲んだ。

ハンヨジン「パクヨンギさんは、キムサランさんの行方不明について、何とおっしゃっていますか。やはり、心配されているのですか」

パクテウォン「息子は、昨日、わたしが、サランは来ていないのかと尋ねるまで、何も心配するわけもなかったのです。昨日の夜、わたしが、ソウルに帰ってから、やはり、サランがいない、と連絡すると、自分のところにも来ないし、連絡も何もない、と返事をしてきて、それから、ようやく、ちょっと、おかしなことだと思い始めて、それでもまだ、サランが自分の意思で、どこかに雲隠れしたと思っているのです」

ハンヨジン「キムサランさんは、先月まで全国を回って演説していたので、どこへ行っても誰かが顔を覚えています。一方、ウィルス対策で、誰も彼もがマスクをしています。帽子とサングラスとマスクは、顔を隠すのに好都合です。パクヨンギさんの推測通り、キムサランさん自身の意思で身を隠したのかもしれません。警察がキムサランさんを見つけても、御本人の意思を確認しないうちは、居場所をお教えするわけにいきません」

パクテウォン「それは、本人が元気でありさえすれば、その後のことは、それから、考えます」

ハンヨジン「宝石を持って出かけたことが、後から、わかったとのことですが、最初、お二人でアンソン市に行く予定を立てたときは、そのつもりはなかったのですか」

パクテウォン「そうなのです。結婚した時に、わたしは、宝石をちりばめた装身具を10個、サランに贈りました。サランは、時々、宝石箱を開けて、中を見るのを楽しみにしていました。でも、身に着けて出かけることはなかったんです」

ハンヨジン「御結婚は、いつ、なさったのですか」

パクテウォン「一昨年です。パンデミックで、規制がありましたから、少人数で、ささやかな式でした」

ハンヨジン「パンデミックでパーティーなどの規制が続いていたこともあると思いますが、キムサランさんは、宝石を装身具として使わずに、財産として持っていたんですね」

パクテウォン「そうです。家の一軒や二軒は買えます」

ハンヨジン「家といっても、いろいろ、ありますが」

パクテウォン「そのうちの一番小さな宝石で、ヴィラの一部屋を一年間、借りられます。一番大きな宝石だと、アパートの建物の中の一戸分を買えます。全部を合わせると、アパートごと、まるまる、買えます」*

ハンヨジン「全部、持って行ったんですか」

パクテウォン「全部、なくなっていました」

ハンヨジン「昨日、キムサランさんが持って行ったことに、間違いありませんか」

パクテウォン「一昨日、キムサランとヨーロッパ旅行の話をしているときに、全部、揃っているのを見ました。宝石も持って行こう、保険も掛けてあるんだし、オペラやバレエを観る時に着けたらいい、とわたしが言うと、サランも喜んで、宝石箱を開けて、どれを持って行こうかしら、などと話しました。ヨーロッパ旅行は、大統領選挙が終わったら、わたしからのサプライズプレゼントにするつもりで、計画を立てていたものでした。わたしたちは新婚旅行をしていないので、その代わりにするつもりだったのです」

ハンヨジン「そうですね、パンデミックのせいで、同じように新婚旅行を先延ばしした人は、多かったと思います」

パクテウォン「警部さんもですか?」

ハンヨジンは、ほほえんだ。「いえ、わたしが結婚したのは、パンデミックの前でした。慶尚南道を観光してまわりました」

パクテウォン「慶尚南道を。わたしの故郷です」

ハンヨジン「そうだったんですか」

パクテウォン「慶尚南道の小さな島が故郷です。島を出て、ドイツに出稼ぎに行きました」

ハンヨジン「ああ、ドイツ村が南海島にありますね」

パクテウォン「そうそう、韓国に帰ってきて、ドイツ村に住んでいる人たちもいます。わたしは、弟のチェウォンとドイツに行って、資金を貯めて、韓国で会社を興したんです。チェウォンもわたしも、韓国に帰ってからは、ソウルに住んでいますが」

ハンヨジン「弟さんもいらっしゃったんですか。弟さんのお住まいはどちらですか」

パクテウォン「同じ家に住んでいます。渡り廊下でつながった別棟です。つまり、玄関が別にあります。裏口は、わたしのいる方だけです。わたしがサランと結婚するまでは別棟はなかったんです。チェウォンは独身を通していて、教会の役員をしています。昨日は、わたしとサランが家を出るよりも早く、教会に出かけていきました。朝食も別で、顔を合わす暇がなかったのですが、わたしが車庫に行った時には、もう、弟の車はありませんでした。わたしも後から一人で教会に行きました。夜は、弟は、わたしよりも先に帰っていて、食事も一人で取って、わたしと話をする機会はありませんでした」

ハンヨジン「今朝は、弟さんと話をなさいましたか」

パクテウォン「ええ、サランが昨日から行方が知れなくなったと、話しました」

ハンヨジン「弟さんは、それについて、何とおっしゃったんでしょうか」

パクテウォン「大統領に立候補して落選したのが恥ずかしくて雲隠れしたんだろうと」

ハンヨジン「ええと、失礼ですが、初めから、泡沫候補と言われていましたから、落選したから雲隠れするということも、ないと思いますが」

パクテウォン「そうなんです。落選するとわかっていても、政治家として有権者に名前を憶えて貰うチャンスだし、同じような泡沫候補が10人以上いるなかで、自分の力量はどれぐらいか、試してみるために立候補したのですよ」

ハンヨジン「わたしも、演説を聴きにいきました。聴衆は少なかったですが、キムサランさんは、一人一人に話しかけて、政治への思いを引き出して、いい集会でした」

パクテウォン「そうだったんですか。ありがとうございます」

ハンヨジン「弟さんの他にも、同居している方がいれば、伺っておきたいのですが」

パクテウォン「アジュンマが二人、います。一人は住み込みで、もう一人は、通いです。住み込みのアジュンマは、同じ敷地の別棟に住んでいて、渡り廊下はありませんし、間に生垣と木戸があります。生垣のこちら側とあちら側とは、別々に、敷地の外との出入り口があります。こちら側が表門、あちらが裏門で、車庫も両側にありますので、通いのアジュンマも裏門を使います。アジュンマたちもクリスチャンです。わたしや弟とは違う教会です。土曜日の夜から日曜日の午前中一杯、二人とも休みを取り、他に、もう一日を交替で休みます。イースターはまた別で、土曜日の午後3時から月曜日の朝まで、二人とも休みを取りました。だから、一昨日、わたしがサランと一緒に宝石を見ていたときには、アジュンマは二人とも家を出た後で、今朝までいなかったのです」

ハンヨジン「よく、わかりました。さっきも言った通り、キムサランさんは、各地で演説したので、どこに行っても、顔を知られています。宝石を売るときに顔を隠したままでは怪しまれますし、保証書なり、正当な持ち主であることを示すものも見せるでしょう」

パクテウォン「実は、宝石を探すのは、探偵に頼みました。前にも別の事で仕事を頼んだことのある探偵です。こちらに来る前に連絡したのですが、後で会いに行きます」

ハンヨジン「では、そちらから、キムサランさんの行方を突き止めることもできるかもしれませんね」

パクテウォン「そうであれば、いいんですが」

ハンヨジン「念のために、お聞きしますが、キムサランさんに、悪意や敵意を持って、害を加えそうな人が、思い当たりますか」

パクテウォン「いいえ」

ハンヨジン「キムサランさんは、住民自治センターの職員だったときにNPOを作り、その後、NPOの専従になっていました。職場の同僚や、住民の、誰かの利益や気持ちを損ねてしまったことも、あるのでは」

パクテウォン「そうかもしれません。そういうことがあったとしても、わたしには、わからない」

ハンヨジン「選挙の時の支援者の方々にも会って、お話を聞いてみたほうが、よさそうですね」

パクテウォン「そうしてください。今は、議員ではありませんが、政党の代表で、事務所があります」

パクテウォンは、スマホで、キムサランが代表を務める政党事務所の住所と電話番号を表示した。ハンヨジン警部もスマホを取り出して、送受信をした。

ハンヨジン「監視カメラの捜査と、関係者の聴き取りを、同時並行で進めます。他に何か、知っておいた方がいいと思われることがあれば、おっしゃってください」

パクテウォン「いえ、今のところは、これ以上、思いつきません」

ハンヨジン「では、こちらで、パクテウォンさんに、これ以上、やっていただくことは、ありません。キムサランさんの居場所は別として、無事が確認でき次第、御連絡します」

パクテウォン「ありがとうございます。いつ、帰ってきてもいいように、うちで待つことにします」

パクテウォンとハンヨジンは同時に立ち上がった。ふたりは御辞儀を交わして、パクテウォンは警察庁から出ていき、ハンヨジンは後ろ姿を見送った。

*ヴィラ、アパート
https://bridgetokorea.net/archives/6575
韓国の住宅事情~ソウルでヴィラが建築ラッシュになるワケとは?
更新日:2020年2月2日 公開日:2017年10月18日


(3)

龍山区の東の端の漢南洞は、大使館の多い地域である。南の端の漢江の近くに首都圏電鉄の漢南駅があり、北の端に地下鉄の漢江鎮駅があり、どちらの駅の周辺にも各国の大使館がある。南の漢南駅の周辺よりも、北の漢江鎮駅の周辺の方が、数が多い。漢南駅と漢江鎮駅の東側を漢南大路が通り、漢江を渡る橋につながっている。漢江を渡ると、江南大路に続いている。

首都圏電鉄は、漢南駅・西氷庫駅・イチョン駅と、漢江の岸の近くを通り、イチョン駅の西で、ぐいっと北に曲がって、ヨンサン駅に至る。

地下鉄は、漢江鎮駅・梨泰院駅・緑莎坪駅・三角地駅と、龍山区を南北のまんなかで二分するように東西に通っている。漢江鎮駅から南南西に伸びて、梨泰院駅の東で、ぐいっと西に曲がる。

漢南洞の住民自治センターは、その曲がり角の少し東側、漢江鎮駅と梨泰院駅との中間にある。

地下鉄の漢江鎮駅から北西に、10分余り、坂道を登ったところに、私立の美術館がある。古美術展示館・現代美術展示館・児童文化センターと、三つの建物がある。

美術館の北側には、高級なホテルやバーがある。

美術館の南側の坂の下に、庶民的な食堂の多い町がある。

1軒の食堂の隣に、キムサランが代表を務める政党の事務所があった。2階建ての1階の東半分が「海ん家(うみんち)」食堂、西半分が「ポヌンパダ党」事務所である。

「海ん家(うみんち)」食堂は、さっきまで昼食の客で溢れていたが、今は、潮が引いたあとのように空いていた。ハンヨジン警部は、ファンシモク検事と一緒に、遅い昼食を摂りに入った。ふたりとも、仕事が忙しくて、昼休みが潰れてしまったのだが、ようやく、連絡を取り合って、ここまで来ることができた。

ハンヨジン警部とファンシモク検事とが向かい合って座ると、娘さんが、熱いお茶を二つ、運んできた。

ハンヨジン「初めて来たんですけど、何か、お勧めはありますか」

娘さん「日替わり定食があります」

「じゃあ、それでいいかな、」と言いながら、ハンヨジン警部がファンシモク検事の顔を見ると、彼も、肯いて、「日替わり定食を」と答えた。

娘さんが戻っていくと、ハンヨジン警部とファンシモク検事とは、同時に、お茶を飲んだ。

ハンヨジン「ああ、ほっとした」

ファンシモク「おつかれさまです」

ハンヨジン「検事こそ」

ファンシモク「こちらの食堂に来たのも、仕事ですか」

ハンヨジン「仕事ですけど、何も起こっていないことを確認に来たようなものです」

ファンシモク「ほう」

ハンヨジン「先月、キムサラン候補の演説を聴きに行ったでしょう」

ファンシモク「はい」

ハンヨジン「ここの食堂は、キムサラン候補の御両親が始めたんです」

ファンシモク「ほう」

ハンヨジン「今は、キムサランさんのおにいさんとおにいさんのお嫁さんが経営者です」

ファンシモク「おや、じゃあ、さっき、お茶を運んできてくれた人は」

ハンヨジン「あ、そうですね、娘さんかと思ったけど、お嫁さんでしょう」

娘さんのように見えるお嫁さんが、定食を2人前、運んできた。湯気の立つクッパとチゲと、おかずとキムチがある。ハンヨジン警部とファンシモク検事とは食事に集中した。

食べ終わって、満足して、ハンヨジン警部は、また、お茶を飲みながら、話した。「この後、隣の、ポヌンパダ党の事務所にも行きます」

ファンシモク「キムサランさんに会いに行くんですか」

ハンヨジン警部「今は、いないはずです」

ファンシモク「選挙違反の捜査ですか」

ハンヨジン警部は、笑った。「いえいえ、そんなことじゃないんです。若いお嫁さんの心配をする、年配の旦那さんのために、ようすを見に行くだけです」

ファンシモク「誰が若いお嫁さんなんですか」

ハンヨジン「キムサランさんです」

ファンシモク「年配の旦那さんとは?」

ハンヨジン「パクテウォンさんです。建築会社の社長です」

ファンシモク「ふたりは、いつ、結婚したんですか」

ハンヨジン「一昨年です。それでね、パクテウォンさんは、キムサランさんに、宝石を10個、贈ったんですって。10個まるごとあったら、アパートを一棟、建物ごと、まるまる、買えるそうです」

ファンシモク「ははあ。それは、すごいですね」

ハンヨジン「すごいでしょう。それが、おととい、まるまる、なくなったんですって」

ファンシモク「アパートが?」

ハンヨジン「いえ、宝石が」

ファンシモク「盗難の捜査ですか」

ハンヨジン「盗難の捜査は探偵に依頼したそうです」

ファンシモク「身内の仕業だと思っているんですね」

ハンヨジン「まあ、そういうことです」

ファンシモク「で?」

ハンヨジン「これから、隣の事務所に行きます」

ハンヨジン警部は、立ち上がった。

ファンシモク検事も立ち上がった。「僕も同行します」

ハンヨジン「検事は検察庁に戻らないと」

ファンシモク「これも検事の仕事です」

「海ん家(うみんち)」食堂の隣の「ポヌンパダ党」事務所の扉を開けると、ちりりん、と鈴が鳴った。

入ってすぐにカウンターがあり、向こう側に応接セット、その向こうに事務机と椅子、その後ろの壁際に棚があった。カウンターの右の隅に、おとなの握り拳ほどの大きさの黒い猫の置物がある。黒猫は右を向いて、一方の前足を上げて、扉を叩くような格好をしている。黒猫の前、カウンターの右に、仕切りがあった。カウンターの左側に通路を空けて、その左に大きな観葉植物の鉢植えが二つある。観葉植物より奥に、事務机と椅子があり、椅子の後ろの壁際に棚があった。通路の行き止まりに扉がある。

ここは、以前、不動産屋で、ほとんど、内装を変えずに、そのまま、使っているのだった。

奥の事務机にすわっていた女性が立ち上がり、左手の事務机の人も立ち上がろうとするのを、手で制して、いい、と示した。

ハンヨジン警部が、ふたりに向かって同時に、器用に、「こんにちは」と言った。ファンシモクは、それぞれに、黙礼した。

奥にいた女性が、カウンターまで歩いてきた。以前、選挙集会を終えて解散するときに、一人一人と握手するキムサランの横に並んで、御辞儀をしていた人で、背格好が似ていた。「こんにちは。以前、キムサランの選挙集会で、お会いしましたね」

ハンヨジン「はい。覚えていてくださいましたか」

相手は、ほほえんで、肯いた。「覚えていますとも。わたしは、キムサランの秘書のカンセジョンです」

ハンヨジン「キムサランさんは、今は、どちらに?」

カンセジョン「今は、アンソン市に行っています」

ハンヨジン「アンソン市には、義理の息子さんのパクヨンギさんのアトリエがあるんですね」

カンセジョン「そうです。おつれあいのパクテウォンさんは、キムサランの父親といってもいい年配です。アンソン市に美術館を寄付したんですよ」

ハンヨジン「美術館を寄付したんですか?」

カンセジョン「設計したのも建築したのも、パクテウォンさんの会社ですが、費用は、全部、パクテウォンさんが負担して、事実上、私立の美術館を、市に寄付して、公立の美術館にしたんです。市は美術館を独立行政法人にしました。美術館の庭園を公園にして、市民が自由に散歩しながら、屋外彫刻を見ることができるようにするんです。若い芸術家の作品を中心に展示して、活躍を支援するそうですよ」

ハンヨジン「市民が自由に散歩しながら屋外彫刻を見る公園に、若い芸術家の支援。すばらしいですね」

カンセジョン「パクテウォンさんが寄付をしたかわりに、美術館の正面に、息子のヨンギさんの彫刻を置くんです」

ハンヨジン「なるほど。まあ、それぐらいは、いいでしょう」

カンセジョン「もう完成して、明日、落成式をします。美術館としての開館はまだ先ですが、建物の落成式です。パクテウォンさんとキムサランは、その日にヨーロッパ旅行に出発するので、テウォンさんの弟のチェウォンさんと、ヨンギさん、それから、キムサランの代理で秘書のわたしが、出席します」

ハンヨジン「実は、わたしは、選挙集会では、公務員とだけ、自己紹介しましたが、ソウル特別市警察庁のハンヨジン警部です」

カンセジョンは、また、ほほえんで、肯いた。「存じています。5年前、特任チームのメンバーだった。ファンシモク検事さんが特任検事だった」

カンセジョンが、ファンシモク検事の方を見た。

ファンシモク「当時、僕たちは、テレビに何度も映りました」

カンセジョン「キムサランも覚えていました。選挙集会では、黙っていましたが。あの特任チームは、キムサランに勇気を与えました。検察と政治家と財界の癒着に、メスを入れましたからね。キムサランも、漢南洞の住民自治センターの仕事だけでは飽き足りなくなって、NPOを立ち上げました」

ハンヨジン「あなたも、住民自治センターにお勤めだったんですか」

カンセジョン「わたしは、法務士*です。キムサランとは、身寄りのない老人のための活動を通じて、知り合いました」

ハンヨジン「そうでしたか」

カンセジョン「きょうは、選挙違反の捜査に来られたんですか」

ハンヨジン「いいえ、まさか。実は、キムサランさんにトラブルがあったと通報してきた人がいたので、こちらに伺ったんです」

カンセジョン「おや、そうなんですか。トラブルは、特に、なかったけど……」

ハンヨジン「事務所で、何か、こわされたり、とられたり、したものは、ありませんか」

カンセジョン「いえ、いえ。ありません」

ハンヨジン「選挙期間中、ポスターを破られたりしたことは」

カンセジョン「ありませんでした」

ハンヨジン「キムサランさんは、今も、ポヌンパダ党の代表なんですね」

カンセジョン「そうです。6月の地方選挙で、ソウル特別市の市議会議員に立候補する予定です」

ハンヨジン「NPOの代表も、続けていますか」

カンセジョン「NPOの代表も続けています」

カンセジョンは、カウンターの下から、NPOのパンフレットを出してきた。

ハンヨジンはパンフレットを受け取った。「なるほど。どうも、こちらでは、調べることは、なさそうです。お時間を取らせてしまって、すみませんでした」

カンセジョン「いいえ、どういたしまして。これからも、キムサランのNPOとポヌンパダ党を、応援してください」

ハンヨジン「はい。では、これで」

ハンヨジン警部とカンセジョン秘書とは、お互いに御辞儀をした。左の事務机の人も、会釈を送ってきた。ハンヨジン警部も会釈を返した。ファンシモク検事も、それぞれに、また、黙礼をして、ハンヨジン警部に続いて、事務所を出た。

キムサランが代表を務めるNPOの事務所も、ここから歩いていける場所だった。東の漢江鎮駅と西の梨泰院駅との中間に、漢南洞の住民自治センターがある。そこよりも少し梨泰院駅に近いところに、NPOの事務所があった。ハンヨジン警部とファンシモク検事とは、そちらに向かって歩きながら、話した。

ハンヨジン「パクテウォンさんは、今朝、ソウル特別市警察庁に、キムサランさんの捜索願いを出しに来ました。昨日からスマホの電源が切られていて連絡が取れないので心配している、と言うんです。キムサランさんの実家に寄ってから、その足で警察に来た、と話しました。そして、わたしと話しているうちに、キムサランさんの支援者には、わたしが話を聞くことになりました。すなわち、パクテウォンさんは、キムサランさんの実家には行ったけど、その隣の政党事務所には行かなかった。妻の両親には、妻の居場所を知っていたら教えて貰えるだろうが、妻の腹心の秘書には教えて貰えないと思った。それでわたしに、事務所の場所を教えたんではないかと思います」

ファンシモク「キムサランさんとカンセジョンさんとが、口裏を合わせていると」

ハンヨジン「パクテウォンさんは、キムサランさんが、高価な宝石を持って外出して、強盗に襲われたんじゃないかと心配だ、と警察官に話しました。それにしても、全部を持ち出すなんて、普通じゃない。家出だと、思ったはずです。探偵を雇ったのも、キムサランさんが宝石を売るだろう店を探り出して、そこから辿っていくつもりなんです」

ファンシモク「キムサランさんは、家出しなければならない理由でもあるんですか」

ハンヨジン「わかりません。ただ、パクテウォンさんが警察庁から帰った後で、調べたんですが、あの食堂と事務所の入っている建物の名義人は、キムサランさんです」

ファンシモク「キムサランさんが、両親の食堂と自分の立ち上げた政党の事務所の入っている建物を所有しているのですか」

ハンヨジン「2年前、パクテウォンさんの名義から、キムサランさんに変更されています。パクテウォンさんからキムサランさんに譲渡されているんです」

ファンシモク「パクテウォンさんは、キムサランさんに、宝石だけでなく、不動産も贈っていた」

ハンヨジン「あの事務所は、以前は不動産屋でしたが、それは、パクテウォンさんの建築会社の、不動産販売部門の出張所でした」

ファンシモク「パクテウォンさんは、キムサランさんの両親の経営する食堂と、自分の会社の物件の販売店を、自分のビルのテナントにしていた。ビルはキムサランさんに譲渡したが、不動産屋はそのまま、テナントとして残していた」

ハンヨジン「今は、食堂の経営者は、キムサランさんの両親ではなく、兄と兄の妻です。経営者が代替わりしたのも、不動産屋が政党事務所になったときです」

ファンシモク「パクテウォンさんの影響力を払拭しようとしたんでしょうか」

ハンヨジン「それだけが理由ではないでしょうけど、大統領に立候補したのは、パクテウォンさんの影響力を払拭しようとする意志のあらわれだったのかもしれません」

ファンシモク「ソウルの人口過密を緩和するために、半数の大学を移転する、移転した大学の授業料と寮費と学生の下宿代と、移転先の小学校から高校までの給食費と授業料を国が負担する、それから、産休や育休に相当する長期休暇や労働時間短縮を、すべての被雇用者が利用するように義務付ける、と言っていましたね。ああいう発想も、そのあらわれでしょうか」

ハンヨジン「心理学的な分析をすれば、そういうことになるのかもしれません。父親的な権威とか、弱者に与えられる保護とか、そういった枠組みから離れて、平等な権利を保障する」

ファンシモク「しかし、移転先とソウルとの間に、24時間15分おきに発着する完全自動運転の電気シャトルバスを運行させる、というのは、関係を切りたくないわけだ」

ハンヨジン「だから、離婚しないで、家出した」

ファンシモク「警察が関わるわけは?」

ハンヨジン「検察が関わるわけは?」

ファンシモク「僕は、ただ、ハン警部と、お昼御飯を食べたかっただけです」

ハンヨジン「届け出があったから、義務を果たすだけです」

あと、もう一歩で、有名なホテルのまわりの、一番賑やかな繁華街に入るという、その手前に、細い横道があり、そこに入った。両側に小さな店が並び、ほとんどは、夜に営業するので、今は準備中だが、片側に、一軒、営業中のカフェがあった。こぎれいなカフェである。その向かい側に、キムサランが代表を務めるNPOの事務所があった。

ドアの横の壁いっぱいに絵が描かれていて、明るい色調の抽象画の背景に、大きな黒猫がこちらに背を向けて、ドアをノックするかのように、片方の前足を伸ばしていた。

ドアの上に看板があった。「孤立者支援NPO」と書いてあった。小さな白い雲が縦に並んだり横に並んだりして、文字の形になっていた。

ハンヨジン警部が、ノックしようとすると、すっと、ドアが開いた。自動ドアであった。一歩、踏み込むと、ちりりん、と鈴が鳴った。

ハンヨジン警部は、一瞬、間違えてカフェに入ったのかと思った。右手に、丸いテーブルが四つと、それぞれの脇に、背凭れの付いた木の椅子が二つずつ、置いてあった。

今は、一つのテーブルだけに、一人の人がいて、紙コップのコーヒーをそばに置き、本を読んでいた。部屋の右端に横長の机があり、その上に、紙コップ、コーヒーと砂糖とクリームのスティック、混ぜ棒が、並び、端に、お湯のサーバーがあった。

扉を入ったところのまっすぐ正面奥に、また、ドアがあった。テーブルの並んでいるところと奥との間の壁は、ドアからドアまでの通路に近い側半分が素通しになっていて、おとなの背丈ぐらいの、観葉植物の鉢が、四つ、並んでいた。その向こうに、事務机が並んでいるのが、植物の間から、見えていた。

観葉植物の奥の事務用スペースから、女性がひとり、出てきた。カンセジョン秘書もそうだったが、キムサランと背格好が似ている。「こんにちは」

ハンヨジン「こんにちは。ポヌンパダ党の事務所から、こちらに来ました」

キムヒソン「カン秘書から、こちらの場所をきいたんですね」

ハンヨジン「そうなんです。キムサランさんについて、お話をうかがいたくて、来ました。わたしは、ソウル特別警察庁のハンヨジン警部です」

ファンシモク「ファンシモク検事です」

キムヒソン「キムヒソンです。キムサランは、今は、アンソン市に行っていると思いますが」

ハンヨジン「カンセジョンさんからも、そう、伺いました。その後、ヨーロッパに行かれるとか」

キムヒソン「そうです。どうぞ、こちらに」

キムヒソンは、奥の事務用スペースに、ハンヨジンとファンシモクとを導いた。事務机が六つ、向かい合わせにくっつけて置いてあった。右手一番奥の机で、男性が一人、パソコンに向かって作業をしていた。キムヒソンは、他の二つの机から、キャスター付きの椅子を引っ張ってきて、手前の机の横に置き、どうぞ、と手で示した。

ハンヨジンとファンシモクがすわるのと同時に、キムヒソンも、一つの椅子にすわった。

ハンヨジン「キムサランさんに、トラブルがあったという通報を受けて、調べているんです。ポヌンパダ党の事務所のカンセジョンさんは、何もないとおっしゃっていましたが」

キムヒソン「トラブルは、こちらでも、ないですね」

ハンヨジン「向こうでも、きいたんですが、何か、こわされたとか、とられたとか、いうようなことは、ありませんか」

キムヒソン「いえ、そんなことは、ありません」

ハンヨジン「近所の人から苦情が持ち込まれるようなことは」

キムヒソンは、ほほえんだ。「近所の人から苦情を持ち込んでもらうために、事務所を開いているようなものです」

ハンヨジン「そうなんですか」

キムヒソン「ひきこもっている人の家族から相談を受けて、出かけていくこともありますし、近所の人から、こういう人がいるけれど、と電話があって、行くこともあります」

ハンヨジン「出かけていって、ひきこもっている人に会えますか」

キムヒソン「会えるときもあるし、会えないときもあります。引きこもっている人の家族と話をして、帰ってきます。引きこもっている人の家族を孤立させないようにしています」

ハンヨジン「うちに、引きこもっている息子や娘がいる、と人に言えない親御さんもいますね」

キムヒソン「そうです。それから、一人暮らしのお年寄りの家に行きます。それこそ、近所の人から、通報を受けて。ごみが溜まっているとか」

ハンヨジン「わたしが、通報を受けて、ここに来たように」

キムヒソン「そうです。それだけだと、住民自治センターのしていることと、あまり、変わりません。実際、住民自治センターから連絡を受けて、出かけていくこともあります。それに加えて、ここは、家族の目を逃れたい引きこもりの人、引きこもりの人から逃れたい家族、どちらも来て、ひとりの時間を過ごしていくことができるようにしています」

ハンヨジン「一見、カフェのようですが」

キムヒソン「向こうのカフェに行く人もいます」

ハンヨジン「こちらは、予約制ですか」

キムヒソン「予約をした人は、奥の部屋で話をします」

ハンヨジン「奥の部屋は、カウンセリングルームですか」

キムヒソン「そうです」

ハンヨジン「今も、カウンセリング中ですか」

キムヒソン「今は、奥のカウンセリングルームは空いています。他に、パソコンで、話をすることもあります」

ハンヨジン「ここで?」

キムヒソンは、奥の事務机でパソコンに向かっている女性の方を見た。「今、彼女が、」

ハンヨジン「あ、それじゃ、途中で、お邪魔をしてしまったのでは」

キムヒソン「わたしは、事務をしていたので、だいじょうぶです。今、空いている机のうちの、二人は、一人暮らしのお年寄りの家に行っています。残りの二つの机の人は、夜に来ます」

ハンヨジン「夜も、活動しているんですんか」

キムヒソン「はい。毎日、同じ人が同じ時間帯に来るというわけではなく、机は、交替で使っています」

ハンヨジン「パソコンもですか」

キムヒソン「パソコンも共有しています。他に、自宅で作業をしている人もいます」

ハンヨジン「ほんとうに、お忙しいところを、お邪魔して、すみませんでした。トラブルがなかったのなら、いいのです」

キムヒソン「今の時間帯は、それほど、忙しくないんです。電話や、パソコンや、スマホで、相談してくる人が多い時間帯は、この後なので」

ファンシモク「僕からも、伺いたいことがあります」

キムヒソン「どうぞ」

ファンシモク「あなたや、キムサランさんが、誰かに相談したくなったときは、どうされているんですか」

キムヒソン「わたしたちのカウンセリングをしてくれる、スーパーバイザーがいます。キムサランは、選挙期間中、個人相談は受けていませんでしたが、スーパーバイザーに相談はしていました」

ファンシモク「キムサランさんが、誰にも行き先を言わずに、どこかに隠れてしまう、などということは、考えられますか」

キムヒソン「誰にでもそういうことはある、という意味では、キムサランにも、そんなときがあるでしょうが、わたしは、特に、これといって、思い当たりません」

ファンシモク「ありがとう。僕からの質問は、以上です」

ハンヨジン警部は、ありがとうございました、では、これで、と言って立ち上がった。ファンシモク検事とキムヒソンも同時に立ち上がった。事務所の出口まで、キムヒソンは、二人を送ってきた。

キムヒソン「そうそう、外の壁の絵は、御覧になりましたか」

ハンヨジン「見ました。大きな黒い猫がドアをノックする絵」

キムヒソン「あの絵を描いたのは、キムサランの義理の息子のパクヨンギさんなんですよ」

ハンヨジン「キムサランさんの義理の息子さんは、彫刻家じゃなかったですか」

キムヒソン「だからね、最初は、彫刻にしたいと言ったんだけど、そんな大きな猫を作ったら道が塞がる、とキムサランが反対して、絵を描くことにしたんです」

ハンヨジン警部は、声を出して笑った。

キムヒソンも笑って、言った。「その絵を描いた頃は、まだ、義理の息子さんじゃなくて、おにいさんでしたけど」

ハンヨジン「おにいさん?」

キムヒソン「NPOを立ち上げたときは、まだ、結婚していませんでしたから。あ、結婚する前から、きょうだいのように、育ったんです」

ハンヨジン「そうだったんですか」

キムヒソン「と、わたしは、聞きました。キムサランからも、パクヨンギさんからも。詳しいことは知りませんが」

ハンヨジン「そうでしたか。きょうは、ありがとうございました」

今度こそ、ハンヨジン警部とファンシモク検事とは、ほんとうに、暇を告げて、事務所を出た。

細い道を歩きながら、ハンヨジン警部とファンシモク検事とは、顔を見合わせた。

ハンヨジン「パクテウォンさんの息子ときょうだいのように育った、っていうことは、こどものときから、知っていた、っていうことですよね」

ファンシモク「あの食堂に戻って、両親に話を聴いたほうが、いいんでは?」

ハンヨジン「そう……わたしたちの好奇心を満たすためには、いいけど、キムサランさんの行方不明の捜査に必要かしら。そんな、父親のような夫から逃れるために、身を隠したのかもしれないのに」

ファンシモク「確かめた方がいいのでは?」

ハンヨジン「そうですね。確かめに戻りましょう」

「海ん家(うみんち)」食堂に戻ると、ハンヨジン警部は、若い女将さんに、身分を告げ、パクテウォンの依頼でキムサランの行方を捜している、御両親がキムサランの行方を知っているなら、警察はこれ以上、介入しない、しかし、御両親もキムサランの行方を知らないのなら、本人の抱えている事情について、御両親に話を聴きたい、と伝えた。

若い女将さんは驚いて、一旦、奥の厨房に引っ込み、また、出てきて、ハンヨジン警部とファンシモク検事とを奥に案内した。厨房には、若い主人と老夫婦とがいた。店の経営者は若い主人に代わっても、厨房の仕事は老夫婦も手伝っていたのである。老夫婦は、警部と検事とを2階に案内した。2階の居間に落ち着くと、若い主人が、お茶を持って上がって来た。若い主人が、お茶を置いて、部屋を出ていくと、老女将が、さっそく、話し始めた。

老女将「今朝、パクさんが来たときは、サランが、こっちに来ていませんか、って言うから、来ていませんよ、って言ったら、そうですか、行き違いになりました、って言って、帰って行ったのに」

ハンヨジン「こちらの御両親のところに寄ってから、ソウル特別市警察庁に来た、とおっしゃっていました」

老主人「連絡をし忘れているだけじゃないですか」

ハンヨジン「わたしたちも、そうじゃないかと思いつつ、一応、関係者の方々に確認を取って周っているんです。最近、何か、トラブルに巻き込まれていなかったかどうか」

老主人「トラブル? 別に、なかったけど……」

ハンヨジン「昨日、パクテウォンさんの義理の息子さんの家に行く、と言って出かけたのに、そちらに行っていなかったそうですが」

老主人「ああ、ヨンギ君。今は義理の息子だが、元々は、きょうだいみたいなものですよ」

老女将「そうですよ。わたしたちからすれば、パクテウォンさんが娘婿で、パクヨンギ君が義理の孫ってことになるけど、ヨンギ君は、まあ、いいけど、テウォンさんが娘婿というのは、おかしな感じがして、落ち着きませんよ」

ハンヨジン「おふたりは、パクヨンギさんを、よく御存知なんですか」

老女将「こどものときは、うちに、よく遊びに来ていました」

ハンヨジン「おふたりは、パクテウォンさんとは、どういうきっかけで、お知り合いになったんでしょうか」

老女将「前の大家さんから、パクさんが、ここを買い取って、隣に不動産屋を開業したんです。パクさんは、建築会社の社長で、不動産屋は販売課長がやってたんですよ」

老主人「うちだけじゃなく、あちこちで、古い建物を買ったり、作り替えたり、売ったりして、儲けていたが、隣に不動産屋ができたときに、今度、この建物のオーナーになったパクテウォンです、って挨拶に見えたが、その次に、サランを連れて来て、養女にしてくれ、って言われて、驚きました」

ハンヨジン「キムサランさんは、おふたりの養女なんですか」

老女将「そうですよ、わたしが生んだのは、下の厨房にいる息子だけです」

ハンヨジン「パクテウォンさんは、どういう事情で、キムサランさんを、お宅に連れてきたんでしょうか」

老主人「その当時、パクテウォンさんが、保育院の理事になったんです。そこから、女の子を連れてきて、うちで養子にしたら、家賃をただにするから、と言われました」

老女将「最初は、てっきり、パクさんが結婚しなかった女の人に産ませた子だと、思ったんですけどね。違いました。ちゃんと、別に両親がいました。本人も覚えてました。小学生になってからおとうさんもおかあさんも死んじゃったんだってことを話しました。なまえも、サランじゃなかったんです。サラン、サラン、とパクさんが呼ぶから、本人も、それでいいと思うようになって、まあ、わたしらも、いいと思って。18歳になったときに、正式に改名したんです」

ハンヨジン警部は、驚きのあまり、しばらく、ものも言えなかった。

ファンシモク検事が、代わって、老女将にきいた。「パクテウォンさんは、どうして、自分の家で育てようとしなかったんですか」

老女将「ヨンギ君がいて、パクテウォンさんの弟のチェウォンさんもいて、チェウォンさんも独身で、男ばっかりで……でも、アジュンマが家の事は何でもやってくれるんだし、別に、サランも引き取ったって、おかしくはないのにね。それとも、やっぱり、男ばっかりの家に、サランを引き取るのは、よくないと思ったんですかねえ。わからないけど」

老主人「まあ、半分は、向こうの家で暮らしてたようなもんだから。小学校には、うちから通ったけど、中学校は、なんとかいう教育方針の、私立の学校に入れて。小学校のときもね、ピアノとバレエを習わせてくれたんですよ。サランが、どっちも、熱心に稽古して。でも、中学校では、やめて、コーラス部に入った。聞きに行きましたよ」

老女将「ピアノもバレエも、私立の学校も、パクさんが費用を出したんです。うちじゃなくて、パクさんの家にピアノが置いてあって、バレエのレッスン室まであったんですよ。見せてもらいましたよ。ピアノの先生も、バレエの先生も、パクさんの家まで教えにきてくれるんです。バレエは、先生の教室に行って、みなさんと一緒に御稽古するのと、家で個人レッスンを受けるのと、両方ですよ。だから、小学校の放課後は、パクさんの家に行っていました。音楽会で、サランは、お姫様みたいな服でピアノを弾きました。バレエも、主役というわけじゃないけど、かわいかったですよ」

老主人「ヨンギ君も、私立の学校です。音楽や美術の教育に熱心な学校です。だから、彫刻家になった。パクさんは、よく、ヨンギ君を連れて、うちに遊びに来てくれました。パクさんが、ヨンギ君と、サランと、うちの息子と、3人を一緒に遊びに連れて行ってくれました。3人とも、ステーションワゴンに乗せて、自分で運転して。ソウルの、公園とか動物園とか遊園地とか博物館とか、全部、行きました」

老女将「サランが中学校に入ると、今度は逆で、平日はパクさんの家から学校に通って、週末に帰ってきました。後で、結局、出かけるとしても、必ず、うちに帰ってから、出かけていきました」

老主人「まあ、サランは、パクさんの家に、下宿したようなもんでした」

老女将「あたしは、ヨンギ君と結婚させる気じゃないかと、思ったんですけどねえ」

老主人「だから、同じ家に住まわせないで、うちの養女にしたのかと思ったときも、あったんだけどねえ」

老女将「パクさんと結婚するとはねえ。サランとヨンギ君が、なかなか、結婚しないから、だったのかしらねえ。仲は良かったんだけど」

ハンヨジン警部は、ようやく、口を開いた。「ヨンギさんのおかあさんは、パクテウォンさんがサランさんをこちらに連れてきた時には、もう、いらっしゃらなかったんですね」

老主人「そうなんですよ」

老女将「そうなんですよ」

ハンヨジン「ヨンギさんのおかあさんは、亡くなられたんでしょうか」

老主人「そうらしいです。ヨンギ君が生まれてすぐに亡くなったそうです」

老女将「サランと結婚するとき、パクさんが、ヨンギの母親は出産の時に亡くなりました、わたしは法律的な意味での結婚をするのは初めてです、っておっしゃったんです。だから、ヨンギ君は、結婚していない相手との間に生まれたんだと思います。それ以上、どこのどなたか、どういう事情だったか、ききはしませんでした。失礼だと思って」

ハンヨジン「パクテウォンさんには、弟さんのパクチェウォンさんがいるでしょう。独身の」

老主人「ええ」

老女将「ひょっとして、弟さんのほうが、父親じゃないかって? そりゃ、違いますよ。あのチェウォンさんは、ヨンギ君に、全然、似てないし、全然、愛情がありませんから」

ハンヨジン「パクチェウォンさんを、よく御存知なんですか」

老女将「一年に一回ぐらいしか、会わないけど。ヨンギ君を見るときも、うるさそうだったし」

老主人「全然、似てない弟さんだ。顔は似ているけど、性格は、全然、違う。テウォンさんは器の大きい人だが、チェウォンさんは器の小さい人だ」

老女将「ヨンギ君は、おとうさんのテウォンさんとも、おじさんのチェウォンさんとも、顔が、あんまり、似てないけど。からだつきは大きくて、おとうさんにそっくりだけど。顔は母親似なんでしょう。それに、おとうさんは建築家で、息子さんは、彫刻家。おとうさんは、金儲けもうまいけど、芸術が好きだから、そっちに似たんですよ」

ここで再び、ファンシモク検事が、きいた。「キムサランさんが、一昨日、アンソン市のパクヨンギさんの家に行くと言って出かけたのに、結局、行かなかったとすると、どこに行ったと思われますか」

老女将「そうですねえ……。サランは、生みの親のことを何にも言わないけれど、ほんとは気にしてるんじゃないかと、思うことがありますよ。生みの親のことは、サランは、ヨンギさんの方が話しやすくて、そっちに行って、パクさんには黙っていて、って頼んでいるのかもしれませんよ」

老主人「そうだなあ」

ファンシモク「パクヨンギさんは、キムサランさんの行き先を知っていると思うんですね」

老女将「そう思いますよ、知らなかったら、ヨンギ君も、心配して、警察に行ったり、うちに電話してきたりすると思います」

ハンヨジン「パクテウォンさんが理事をしている保育院の場所は、御存知ですか」

老主人「ええと、だいぶ前に、端書が届いて、取っておいたんですが」

老主人は、立ち上がって、棚の前に行って、探し始めた。

老女将「サランが、保育院に行ったかも知れないと思われるんですか」

ハンヨジン「サランさんが、生みの親の事が気になって行動しているとしたら、保育院にも行ってみるんじゃないかと、思うんですが」

老女将「そうかもしれませんねえ」

老主人が、端書を手にして、戻ってきた。「この保育院です」


もう、夕方だった。ハンヨジン警部とファンシモク検事とは、キムサランが8歳から9歳までの1年間を過ごした保育院に来た。

江南区には、富裕層の住む地区と、貧困層の住む地区とがあるが、保育院は、経済的にも地理的にも、中間といってよい所にあった。

20年前に「海ん家(うみんち)」食堂の老主人夫婦に端書を出した職員が、今も務めていた。院長になっていた。

キムサランが、最近、ここを訪れなかったかという質問には、来ていない、と答えたが。

院長室で、20年前のアルバムと、キムサランから届いた手紙とを、棚から取り出してきて、ハンヨジン警部とファンシモク検事とに、語った。

「キムサランさんは、去年、こちらに見えたことがありました。20年ぶりに会いましたから、最初は、お互いに、顔がわかりませんでした。りっぱになっていて、感心しました。

キムサランさんは、元のなまえを、キムソヨンといいました。ソヨンは、おかあさんが亡くなったとき、この近くのスラムで暮らしていたんです。おとうさんが勤めていた会社がパクテウォンさんに買収されて、解雇されてしまいました。もっとも、その前から、ソヨンのおかあさんやソヨンを殴ることがあったそうです。失業してから、ますます、暴力がひどくなったのです。そして、スラムで暮らすようになりました。最後は、酔っ払い運転の車にはねられて亡くなりました。ソヨンのおかあさんは賠償金で墓地を買いました。おかあさんが病気になってから、ソーシャルワーカーが訪問していました。ソーシャルワーカーは入院を勧めましたが、そうするとソヨンは施設に入れられる、母も幼い娘も離れ離れになりたくないと言って、入院を拒否しました。それで、ヘルパーを、毎日、派遣しました。おかあさんが亡くなった時はソヨン一人だけだったのです。泣きながら、ソーシャルワーカーにスマホで連絡してきたそうです。ソヨンのおかあさんは、夫と同じ墓地に葬られましたが、夫の墓碑のような、りっぱな墓碑は建てられませんでした。

保育院に来たソヨンは、ぼんやりしていました。同じように親を亡くした子や、親がいても虐待された子が、集まっているのですが、どの子とも話しませんでした。わざと話をしないのではなく、できないのです。御飯も、ろくに食べません。あるとき、ソヨンが、あまりにかわいそうで、思わず、抱きしめてしまったことがあります。ソヨンは、ゆっくり、涙を流し始めて、そのうち、わたしにしがみついて、泣いて、泣いて、泣きました。ソヨンのおかあさんは、亡くなる前に、おとうさんは、結婚したばかりのときは、やさしい、いい人だったんだと、ソヨンに話してくれたそうです。夫婦とも、親の反対を押し切って結婚したので、その後、何があっても、親族の支援を受けることができませんでした。いろいろと不運なことが重なって、おとうさんは、だんだん、おかあさんや、ソヨンを、殴るようになったそうです。でも、おかあさんは、おとうさんの悪いところは、少ししか、言わずに、仕合せだったときの話をしました。そして、ソヨンを一人で残していくのが悲しいと、泣いたそうです。ソヨンも泣いて、二人で泣いているうちに、おかあさんの声が聞こえなくなって、死んでいた、と。

キムサランさんは、去年、こちらに来て、今、わたしたちがこうしているのと同じように、20年前のアルバムを見ながら、わたしと話をしました。当時、保育院にいた、ほかのこどもたちのことを、キムサランさんは、よく覚えていて、一々、誰それは、今はどうしているんですかと、尋ねました。それから、自分自身が保育院に来たばかりのときは、誰とも話もできなかったことを、思い出したんです。そのときまで、キムサランさんは、おかあさんが亡くなったときの話を、すっかり、忘れていました。おかあさんも自分も、おとうさんに殴られたことだけ、覚えていたんです。

キムサランさんは、その後、御両親の墓地に行って、おかあさんの墓碑を、おとうさんのと同じような、りっぱなものに造りなおしました。そのときの写真を、手紙と一緒に、わたしに送って来てくれました」

ソウル南部の標高300mほどの山の斜面の墓地。

二つの墓碑が並んでいる写真が1枚。

そして、もう1枚、母親の墓碑の前に花を置いているキムサランが写っている写真があった。キムサランは、黒いワンピースを着て、真珠の首飾りをしていた。

ハンヨジンが院長に尋ねた。「この、キムサランさんが写っている写真は、どなたが撮ったんでしょうか」

院長「パクヨンギさんです。手紙にも書いてあります。その墓碑を作った人です」

院長が差し出す手紙を、ハンヨジン警部が受け取った。ファンシモク検事と身を寄せ合って、一緒に読んだ。そうして、次のようなことがわかった。

ソヨンの母親は、交通事故の賠償金を、全部、夫の墓を建てるために使ったわけではなかった。真珠の首飾りを買って、弁護士を頼んで遺書を作り、ソヨンへの遺産として保管させていた。そのことは、ソーシャルワーカーに伝えてあった。ソーシャルワーカーは、保育院の当時の院長に伝えていた。院長は、ソヨンの養父母に伝えた。ソヨンが18歳になって、サランに改名しようとする時、その弁護士に相談するように、養父母が言ってくれた。ソヨンは、弁護士から、遺書と真珠の首飾りを受け取った。11年後に、自分で働いて稼いで貯めた、お金で、母親の墓碑を造りなおした。墓碑を造ってくれたのは、この世で一番の心の友の、パクヨンギであった。

*法務士
https://ko.wikipedia.org/wiki/법무사
法務士


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