【4711】午前2時の円周率、午前5時のモーニングキス 前編
この作品は『シトラスの暗号』から始まる4711シリーズの続編です。よろしければ1作目からどうぞ。
登場人物
✻水木清香
私大附属のS高に通う3年生。美化委員会会計。
家庭科と体育が苦手。好きなものはテディベアとアイスクリーム。趣味はゲーム。
昭和54年12月13日生まれ。B型。
✻織田修司
S高の物理教師。二枚目。
好きなものは寿司とビール。趣味はテニス。ドイツ製の4711というオーデコロンを使っている。愛車はBMW 。
昭和47年1月1日生まれ。A型。
✻堂本元
清香の恋人。S高の2年生。
サッカー部でゴールキーパー。
身長185センチ。
✻立花百合
清香の中学からの後輩。元と同じクラスで、清香に元を紹介した。
珠算部。
身長168センチ。
✻高津美奈
清香の友達。時代劇ファン。
織田先生が大好き。
✻嶋崎佐智子
清香のクラスメイト。放送部。
織田先生が大好き。
✻遠山恵子
S高の国語科教師。美化委員会顧問。
通称けーこたん。
好きなものはキティちゃんと一條誠。
清香を妹か娘のように思っている。
✻若井弘博
S高の体育教師。
ピロピロとあだ名されている。
1997年12月11日(木)
アラームが鳴った。
デジタル時計の電子アラームは、鳴る直前に回路が接続するようなほんの微かな予備音みたいなのがあって、いつもそれで目が覚めてしまう。
最初はそれがわからずに、アラームが鳴り出す前に目が覚めるから、自分に予知能力があるんじゃないかと考えたりした。
「モモちゃんおはようー」
隣で寝ているピンクのくまのぬいぐるみをギュッと抱き締めて、ほおずりする。
ポストペットのモモちゃん。クレーンゲームで500円玉を何枚も投入して、やっと取ったお気に入りだ。
抱き枕代わりに抱いて寝るのに、目が覚めるといつもわたしの腕から逃げている。
夜中になると「オモイ」とか「ウザイ」とか言って、腕から這い出しているのかもしれない、なんて思ったりする。
起き上がると、パジャマのまま靴下を履いてニットのカーディガンをひっかけ、ヒーターのスイッチを入れた。
寒い。外はまだ真っ暗だ。
勉強机に向かう。
数学の予習とリーダーの対訳はゆうべ終わらせたから、あとは古文。
日曜日以外は毎朝5時に起きて勉強する。その代わり、やることが残っていても夜は11時に寝る。
それがわたしの習慣だった。
眠いのを我慢してやるより、この方が効率がいい。
充電器に差してあるPHSに目をやる。
サッカーボールのチャームが付いたストラップがぶら下がっている。指先でちょんと弾いて揺らしてみる。
元くんもそろそろ起きて、眠い目をこすりながら朝ごはんをかきこんでるだろう。
サッカー部の朝練で、7時前には学校に着いてるはずだ。
予習を終わらせて、鞄に教科書とノートを詰める。
木曜日。リーダー、数Ⅲ、家庭科2コマ、古文、物理。
支度をすませると部屋を出て、朝食を摂りに階段を下りた。
7時に家を出た。息が白い。マフラーをぐるぐる巻きにする。
鞄を持つ手が冷たくて、コートのポケットから手袋を出した。
バス停まで15分、そこからJRの駅までバスで30分。下りの電車で2駅。学校まで歩いて20分。
学校に着くと、リーダー用の英和辞典と家庭科の教科書を下駄箱の奥から出して、いかにも家から持ってきた体でサブバッグに入れる。教科書や辞書を置いていくのは禁止されていた。
教室に入る手前で、後ろから来た美奈が追い越しざま「オーッス!」と背中を叩いていった。
「いったあーい」
「お主、背中ががら空きじゃ!」
「辻斬りか!」
あいにく背中に目は付いてないのよ。
教室にはもう佐智子が居て、わたしを見つけると毎週お決まりのセリフを言うのだった。
「おはよー清香ちゃん。リーダーやってきた?」
佐智子にノートを貸して席に着く。
ブレザーのポケットからPHSを出して、着信がないのを確認して電源を切る。
ストラップのサッカーボールを見ると、自然と顔がほころんだ。
本鈴が鳴って、先生が入ってくる。
1限目、リーダーは学年主任のハットリくん。
学級委員の滝沢くんが号令をかける。
「きりーつ、れーい、着席ー」
わたしはPHSを筆箱の中にしまった。
元くん、堂本元は、ひとつ年下のわたしの彼氏だ。
先週の日曜、ふたりで遊園地に行った。
冬の遊園地は日曜と言えどガラガラで、何に乗るにも待つ必要がなくて、寒いのを除けば最高だった。
9月に後輩の百合に紹介されて、付き合い始めて3ヶ月。
まだぎこちないけど、デートの時は手をつないで歩くようになった。
遊園地では、絶叫マシンで絶叫しまくったり、違う味のソフトクリームを買って途中で交換したり、ゲームコーナーで対決したり、すごく楽しかった。
運動オンチなわたしと違って、サッカー部の元くんはエアホッケーもバスケゲームもモグラ叩きもワニワニパニックも高得点だった。
なのになぜか旗上げゲームだけはわたしが全戦全勝で、元くんも不思議がっていた。
反射神経と運動神経は違うんだろうか。わたしにもわからない。
ゲームコーナーの隣にお土産屋さんがあって、そこで小物を見ている時に元くんが言った。
「清香ちゃん、今月誕生日なんでしょ?」
「うん。なんで知ってるの? あ、百合か」
百合はわたしの中学からの友達だ。S校に入ってからは、1年から元くんと同じクラスらしい。
「当ったりー。ほしいものあったら買ってあげるよ」
「ほんと? んー、じゃあね、なんかお揃いのものほしい。ストラップとか」
男子とお揃いのものなんて持ったことがない。
仲良しの女の子とお揃いのノートやペンを買うのとはわけが違う。
元くんと同じものを持つってことは、大々的に恋人宣言しているようなものだ。
あれこれ手に取って検討したあげく、月並みだけど〈サッカー部〉というプレートが付いたストラップにした。小さいサッカーボールもぶら下がっている。
わたしはその場でパッケージを開けて、今まで付けていたビーズのストラップを外してそれを付けた。
新しいストラップが付いたPHSを目の高さに上げて、サッカーボールを揺らしてみる。
ふたりで顔を見合わせて、ふふふと笑った。
家庭科の実習で、縫い針を刺してしまった親指が痛い。
絆創膏の端が剥がれてきてるのが気になってしょうがない。汚くなるから、いっそ剥がしてしまおうか。
お昼は購買のシューサンドと三角パックのコーヒー牛乳。
机をくっつけて佐智子と食べていたら、「サヤちーん」と、孝子ちゃんがやってきた。
孝子ちゃんは美子ちゃんと一緒に野球部マネージャーをやっていて、ふたりは6組の2大美女と言われている。
「古文訳してある?」
「うん」
「ごめん、今日指されそうだからノート写させて」
「どうぞ」
孝子ちゃんにノートが渡ると、「あ、俺も!」と男子が何人か集ってきた。
5限の予鈴が鳴ってもノートが返ってこない。
「あの、わたしのノート持ってる人誰?」
「あ、メンゴメンゴ!」
「なんで玉ちゃんが持ってんの?」
なぜか全然関係ない男子のところにあった。
本鈴が鳴った。
ノートを回収してそそくさと席に着く。
古文は小野じい。
何歳だか知らないけど耳毛がすごく長くて、だからおじいさんにしか見えない。
頭は脂ぎったバーコードだし、ものの言い方や表情がいやらしくて、女子からは特に嫌われている。
あだ名はそのまま「耳毛」。
前に1度「お前ら若井先生のことピロピロって呼んでるだろ。俺は知ってるぞ」って言ってたことがあるけど、自分が耳毛って呼ばれてることは知ってるんだろうか。
「ここの訳、誰か読んでもらおうかな。水木」
「はい」
指されそうと言っていたのに、孝子ちゃんではなくわたしが指された。
ノートに書いてきた訳を読み上げる。
「うん、そこ、誰か他の訳し方した人居ない? 長谷川」
後ろの長谷川くんが立たされる。わたしと同じ訳だった。
「次、五十嵐」
席順でどんどん名前を呼ばれるけど、ひとりとしてわたしと違う訳の人が居ない。
40名中半分以上が指されたのに、みんなわたしと同じだった。
「お前らなー、これ誰かのノート写したんだろ。元ネタ誰だ?」
しーんとした教室。みんな目を伏せている。
「誰だ? 誰の写したの? 挙手しなさい」
仕方なく、小さく手を挙げる。
「何、お前ら全員で水木のノート写したの? なんだお前ら。やる気あんの? もうすぐ期末だぞ?」
ほんと、やる気あんのかしら。
なんかわたしが悪者みたいで、イヤな気分になった。
木曜最後のコマは物理。
今週は実験がないから移動せず、このまま教室で授業を受ける。
さっきの古文でどっと疲れた感じ。早く帰りたい。
明日と明後日頑張れば、その次は日曜だ。
そして、明後日の土曜はわたしの18歳の誕生日。
だけど、今週は日曜のデートはない。
元くんはサッカー部の練習試合で他校に行くそうだ。
プレゼントはこの前もらったし、別にいいんだけど、少し淋しい。
ストラップを買ってもらったあと、日が暮れてきたのでそろそろ帰る時間かなと思ったら、元くんが観覧車に乗ろうと言った。
ほとんど乗る人が居ない観覧車。誰もお客さんが居なくても、1日中こうやって回り続けているんだろうか。
ゴンドラが高く上がってくると、パーク内の舗道のイルミネーションが見えた。
「ねえ、キラキラしてきれい!」
わたしが言うと、
「清香ちゃん、こっち来なよ」
元くんが自分の隣を指さした。
「ダメ、無理。揺れるし怖くて立ち上がれないよ」
「じゃあ俺がそっち行くよ」
揺れるのも構わず、わたしの隣に来て座った。
ちょっと照れくさい気がしながら手をつなぐ。わたしと同じ、冷たい手だった。
そのままイルミネーションを見下ろしていたら、元くんがわたしの手を引いた。
「清香ちゃん」
「ん?」
「キスしても……いい?」
「……うん」
うなずいて目を閉じる。
少し間があって、北風で冷えた唇が触れた。
高所恐怖症だから、目をつぶってる間にゴンドラが外れて落っこっちゃったらどうしようとか考えた。
キスだけだった。そのまま胸を触ってきたりしなかったから安心した。
生まれて初めてキスした時は車の中で、唇にキスされて、舌を入れられて、それが首筋に移って、胸やいろいろ触られたから、男の人にとってそれが普通なんだったらやだなと思っていた。
「じゃあこの計算を前に出てやってもらいましょう」
物理の授業は週2コマ。月曜と木曜にある。
遊園地に行った翌日の月曜日、変な罪悪感で織田先生と目を合わせられなかった。
「今日は11日だからー」
わたしの恋人は元くんで、キスしたってなんの問題もない。
悪いことしたわけでもないのに。
「19番鈴木」
「俺?」
指された鈴木くんが不満そうな声を上げる。
「なんで? 11日かんけーねーよ?」
「そう? 11に5掛けて4引いて3で割って2足して1掛けると19だよ?」
「は?」
「水木、計算合ってる?」
「はい、19です」
「ね?」
「ね? じゃねえよ、ったく」
鈴木くんはぶつぶつ言いながら前に出て計算問題を解いた。
「はい、鈴木淳正解! 素晴らしい! 期末テストもその調子でよろしく」
「無理でーす」
どっと笑いが起こる。
「ねえねえ、ほんとに計算したら19なの?」
隣のまーりんが訊いてくる。
「うん、ほんと。数字も四則計算の順番も法則性があるし、適当に言ったんじゃないよ」
「ふーん。シュージ頭いい〜」
2桁の計算で「頭いい」は、逆に失礼な気がするけど。
罪悪感には理由があった。
1学期の試験休みのあの事件。
『じゃあキスもして。上書きしたいから』
『それはダメです』
『えー、ケチー』
上書き完了。
自分の声が頭の中に響く。
あのまま彼氏なんてできなかったら、こんな複雑な気持ちにはならなかったのに。
そっと自分の唇に触れてみる。
そっか。また上書きされちゃったんだ。
初めてできた恋人とのキスなのに、うれしいだけじゃない、いろんな感情が底の方でざわめいている。
後悔とは違う。でも何かが心の奥でブレーキをかける。
罪悪感は、本当は誰へのもの?
もう2度と、あの人の唇に触れることはないんだろうか。
どんなに好きでも恋人になれないなら、潔く諦めた方がいいだろうに。
終業のチャイムが鳴る。
「じゃあ今日はここまでね。期末は平均点10点アップお願いします」
「だから無理だってー」
「問題もっと簡単にして!」
「これ以上簡単にしたら小学校の理科になるよ。君たち高校3年でしょ?」
「きりーつ、れーい」
先生の声に号令が被る。
「こら滝沢、勝手に締めるな!」
最後は笑い声になった。
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