尼僧道場 第二話(20世紀の情景)

第二章 結婚前の屈辱

尼僧道場での修行の日々。
有髪の尼は朝5時に起床して身支度を整えて山の上にある寺に行き、夜の10時前に山を下りて道着を洗濯して寝る生活だ。
クーラーがない講堂での座学、写経や読経の稽古だけでなく、掃除や畑仕事など朝から晩までやることが隙間なくありクタクタだ。

ここでは真夏でも4と9のつく日しか風呂に入れない。
部屋に戻ると水で濡らした手ぬぐいで身体を拭くが、女4人が寝る8畳の部屋は汗の匂いでむせ返っている。
もちろん修行が始まってから頭も洗えていない。
汗をかいて臭ってくるし痒くてたまらない。
指導係の尼たちは「いつまでも不潔な頭をしてるんじゃないよ」「臭くてたまったもんじゃあないわね」「頭を丸めたくなったらいつでも私たちに言っておいで。きれいにしてあげるわよ」とチクチク嫌味を言ってくる。

剃髪を済ませている尼たちも風呂には入っていないけど、私たちと違い寮の風呂場で行水くらいはさせてもらっていて近づいても嫌な匂いもしない。なにより坊主頭は顔を洗うついでに頭が洗えるから清潔を維持できる。
加えてお香をもらって道着に染み込ませているようだ。

7月29日
今日は尼たちの休養日だ。
供えものを貰い受けて寮で食べながらくつろぐ者が多い中、外出をする者もいる。
剃髪している4人の見習い尼も外出は禁じられているが寮で休養が許されている。

しかし有髪の尼たちは休めない。
朝は少しだけゆっくり出来たけど、日中は庭の掃除や畑の作物の収穫、さらには寝泊まりしている宿坊の掃除もあって動きっぱなしだった。
夕食をとると待望の風呂だ。ようやく全身を洗える…。シャンプーは「香りの強いものは禁止」ということで使用を禁じられているが、お湯や石鹸を使って洗えるだけでもうれしい。

だけど、私たち有髪の尼はタオル1枚持って寮の玄関で、彼女たちの入浴が終わるまで2時間以上立って待たされた。

寮の中からは賑やかな笑い声が聞こえてくる。きっと休養日でリラックスしているのだろう。尼たちは数人づつ順番で風呂に入り、身体を洗うとともに剃刀で頭を剃りあげて出てくる。
入門した日に髪を0.5ミリに刈られた美鈴と千花は今日が初めての剃髪だ。2人とも数日間でわずかに伸びた髪を先輩尼に剃ってもらったらしく、ピカピカに光る頭を恥ずかしそうにさすりながら、笑顔で風呂から出てきた。

なぜかすごくイライラする…

私語は禁じられているが、有髪のなかでは最年長で普段はOLをしている寿慶が隣で「あんなハゲ頭をしててどこを洗ってるのかしら」とキツい冗談を言った。
全員プッと吹き出し、笑いそうになるのを必死で我慢する。

彼女は結構毒舌だ。いつも先輩尼たちがいないところで、私たちを前にハゲとか絶壁頭とか辛辣な悪口を言っている。有髪の尼はかなりストレスを抱えているのだ。

頭を剃り上げたばかりの千花が「あなたたちも風呂入っていいそうですよ」と私たちに伝えにきた。年下で同じ研修生なのに、剃髪してどこか偉そうな態度だ。
でもようやく風呂に入れる。
私たちは寮に上がり、風呂場に向かう。

風呂場にはいつもの3人の教育係の尼が待っていた。
脱衣場に着くなり「これから10分で全て終わらせてここを出なさい」と命じられる。
(えったった10分?)
「それから、ここは尼の風呂ですから、不浄な髪は浴槽や排水溝に残さずに持って帰りなさい。それができないなら使ってはダメです。いいですね」
(そんなの無理!)

抗議したいが、そんなことをしている時間もないし、覆るわけもない。

風呂に入ると、浴槽には半分も湯が溜まっておらず垢も浮いている…。

「そんなぁ…」
せっかくキレイに身体を洗いたいのにこんな不潔な残り湯しか使えないなんて…。
シャワーもないので、汚れた湯をかけながら洗い場で2人づつ大急ぎで身体と頭を洗う。もちろんシャンプーなどは置いていない。

髪は小さくなった石鹸を手で擦って、泡立てながら洗う。
キシキシと髪が悲鳴をあげるが、洗わないよりは数倍マシだ。
痒くなった地肌を少し爪を立てて洗うと気持ちがよかった。

「あと5分だぞー」「臭い頭は本当に迷惑だからちゃんと洗っておきなさい」
尼たちが風呂に顔を覗かせてからかうように声をかけてくる。

「もうイヤーー」ついに高校生の桂月が絶叫したが構ってはいられない。

風呂の床を見ると4人の抜け毛が散らばっている。
このままにしておくと叱られるに決まっている。
ゆっくり風呂にも浸かることなく最後に抜け毛を排水溝に集めて、ゴミ箱に入れようとすると
「その髪のゴミは持って帰りなさい」と注意を受けた。

風呂の時間が終わった。
リフレッシュするどころかどっと疲れた。
この先、20日以上この生活が続くのか。
生乾きでキシむ髪を触ってみる。このままだと修行が終わる頃には傷んじゃうし、臭いもひどくなるだろう。

(さっさと髪を剃り落としちゃえば楽になるかなぁ…。)

寮を出てボーっと歩きながら部屋に着くと、あれ?1人いない。
寿慶が突然いなくなった。
一体どこに行ったのだろうか?


午後8時30分すぎ

寿慶は脱衣場で教育係の尼たちに囲まれて神妙な顔で正座をしていた。

彼女も寺の一人娘。
婿を取り寺を継ぐ運命なのだが、大学を卒業後に会社員として働くうちに年下の男と恋に落ちてしまった。
彼は宗教の世界などまったく立ち入ったことがない普通の男。
交際は深まり結婚まで考えた時、誰が寺を守るのかと親にたしなめられた。

「私がちゃんと跡を継ぎます。だから結婚させてください」

寿慶は大きな決断をした。会社を3ヶ月ほど休職して夏に道場で修行をして、10月に彼と結婚することにしたのだ。
ささやかだけど秋に結婚式をあげるために髪を残したい。
そのためにシゴキにも耐えている。

修行前まで髪は丁寧に手入れしてきた。
何日も洗わないで不潔になるなんて生まれて一度もなかった。
有髪でも修行が許可されるからここを選んだのに、なんてひどい扱いを受けるのだろう。数日で疲れきってしまった。

教育係の監視がない休養日。
寿慶は修行の間、外界との接触は一切禁止という掟を破り、宿坊と寺の間にある公衆電話を使用してこっそりと彼と話をした。

「修行辛いよ。帰りたい…」「早く会いたいよー」
隠し持っていたテレホンカードを使い電話をした彼女は電話で思い切り甘えた。

それがなぜか寺の尼たちの知るところになっていた。
道着の下に忍ばせていたテレホンカードを風呂に入っている時に見つけられてしまったようだ。

風呂場から外に出ようとした時、照華が「寿慶。話があるから残りなさい」と耳打ちをしてきた。
そのまま脱衣場に戻されて板間の上に正座をさせられる。
「今朝、みやげ屋の前の公衆電話で話をしていたのはあなたでしょ」
誰が密告したのかわからないが、テレホンカードが見つかっては言い逃れができない。

「すみませんでした」寿慶は怯えた声で額を床につけて照華たちに謝罪をする。

「どうせ彼氏とでも話してたんでしょ」
「修行の身で色気づいて、いいご身分だこと」

尼たちは口々に寿慶を罵倒してくるが黙って受け入れるしかない。
高校生だって我慢している掟を社会人が破るなんて恥ずべきだ。

散々罵られた後、掟を破った罰が言い渡される。

「で、どうするんだ?即刻山から下りるのか、この場で頭を丸めるのか。選ばせてやるからすぐに答えろ!」

「はい。頭丸めて修行させてください!」寿慶は即座に答えた。迷っている暇はない。結婚をするには寺を継ぐしかないのだ。

「お願いします。この場で頭を丸めてください」

寿慶はさらに床に頭を擦りつけるように自分よりも年下の女たちに土下座をした。
無念だし屈辱だけど仕方がない。

「言ったな?ここですぐに髪を剃り落としてやるから待ってろ!」
即答されて余計に腹を立てた照華は玄関の近くにある事務所のような部屋に行き、剃髪の道具を持って脱衣場に戻ってきた。

「服を脱いでさっさと風呂場に行け!」寿慶は裸になって、風呂場の椅子に座らされた。

さっき石鹸で洗ったばかりの生乾きの髪をバサバサと広げられ、散髪用の櫛で整えられる。
寿慶の髪は胸の上にかかるくらいある。
照華がその毛先に櫛を当てた時、左胸にあるものを発見した。
それはキスマークのアザ。寺にやってくる前に彼としばしの別れを惜しんだ跡だった。

「お前、何しに修行に来てるんだよ!ふざけるなエロガッパ」男断ちを義務付けられている尼はさらに激昂して罵倒する。

寿慶は神妙に黙り込むしかない。

「もうコイツ本当にどうするかなぁ?」照華たちは寿慶の頭を見下ろすように眺めて考えている。
かなり怒らせてしまった。私、何をされるんだろうか?寿慶は不安な表情を見せる。

そのうち照華がニヤッと笑って恵久にコソコソと耳打ちした。
「それいいわね。あの子たちも呼んでくるわ」と風呂場を出て行った。
数分後、恵久たちは美鈴と千花と妙恵を連れて戻ってきた。

「寿慶は決まりを破って男と電話で話をしていた罰で剃髪をするので見ときなさい」

3人のギャラリーも交えて、ついに照華の手によって剃髪が始まる…。
バリカンを使わず、長い髪を剃刀でいきなり剃るようだ。
真ん中より左にある分け目に剃刀が入った。

ブツッ。ゾ、ゾゾゾ、ゾゾゾゾゾ…

頭の上で骨まで響く恐ろしい音がした。
髪の分け目から真横に剃刀が引っ張られると濡れた青白い地肌が顔を出す。

剃刀による剃髪はバリカンとは違いゆっくりと進行する。

ブツッ。ゾ、ゾゾゾ、ゾゾゾゾゾ…

髪が引きちぎられていく軽い痛みと頭蓋骨に響く髪を剃る音に恐怖を感じて寿慶は目を瞑りながらシクシクと泣き始めた。

「泣くんじゃないよ。お前私らより年上だろう」

照華は寿慶に声をかけながら剃り上げられて、外気に晒されたばかりの頭頂部を指先でペチンと弾いた。
痛くはないはずだけど地肌に直接指が触れたことで、自らの髪が無くなってしまった実感が押し寄せたのか、寿慶はもっと泣き始めた。

「おい。動くと危ないぞ」

嗚咽で肩を震わせる寿慶に何度も声をかけながら、照華は洗面器から手のひらで水を掬い、寿慶の頭にペチャペチャとつけて慣れた手つきでゾリゾリと剃り上げる。

ペチャペチャ…ブツッ。ゾゾゾゾ…ペチャペチャ…ブツッ。ゾゾ、ゾゾゾゾ…

髪が剥がし落とされ、剥き出しの頭皮の面積が徐々に広がっていく。
頭から剥がされた濡れた長い髪は指で摘まれて目の前に置かれたレジ袋の中に捨てられて、ゴミに変わった。

「これでよしっと」

(えっ?)

まだ半分も終わっていないはずなのに、なぜか照華は剃髪をやめてしまった。

「ハハハ。鏡で自分の頭見てみなさいよ」

妙真は笑いながら手鏡を寿慶に渡した。

寿慶は恐る恐る鏡で自分の姿を見る。
そこには前髪もサイドも後ろ髪も手付かずの状態なのに、手のひらの大きさで頭頂部だけが丸く剃り上げられたカッパのような頭。

髪があった時には目立たなかったが、上の方に少し尖った頭の形が周りに残った黒髪に氷山のように白く浮かんでいる。

「ううっひどい…」寿慶は絶望する。

「本当に男好きのエロガッパになったな。おい。この頭で修行を続けるか?」

「イ、イヤです…」

ショックで言葉にならない言葉を寿慶は口にしている。
「あんた。もうすぐ結婚すんでしょ?カッパ頭の姿も記念に撮っとくわね」
散髪道具と一緒に部屋から持ってきた、使い切りのカメラで妙真は寿慶をパチリパチリと写した。
「やめてください!」
裸を隠すのに精一杯の寿慶はカッパ頭を晒しながら必死で訴える。

「おい。エロガッパ。お前私らのこと年下だと思ってバカにしてただろ。知ってるんだぞ?有髪どうしでいる時、私らのことハゲ呼ばわりしてたのもな」

反論できないけど、なんで知っているんだろうか?

「ここで頭丸めて修行してるものは、男とは付き合えないし、それなりの事情を抱えてるものもいるんだ。キスマーク付けて寺に来てるなんてのは許せないんだよ」

「これから少しでも反抗的な態度をとったら、写真をみんなに見せるからな。覚えとけ!エロガッパ!」

照華たちは寿慶を怒鳴り上げると背中を向けて風呂場から出て行く。

(えっ?このまま放置されるの?)

カッパ頭のままの寿慶は狼狽する。

「おい。お前らまだ他人の頭を剃ったことないだろ?エロガッパの頭で練習したら風呂掃除をして寝ろ」と3人に命令した。
妙恵、美鈴、千花の3人は突然の命令に驚きながらも、先輩尼たちが置いていったハサミやT字カミソリを持って寿慶に近づいた。

まず、冷静な妙恵が「先輩方は上手でしたけど、私たちはこんなに髪が長いとうまく頭を剃ることができないと思います」と寿慶の前髪を持ち上げて根本からジョキジョキと切り始めた。
「面白そうー。私がやりたい」千花が妙恵からハサミを奪い頭頂部の一番長そうな髪を手で掴んでジョキリジョキリと切って「はい」と寿慶に手渡す。寿慶は濡れて生命感を失った自分の髪をレジ袋に捨てる。

高校生の尼2人が代わりばんこに自慢の髪をジョキリジョキリ…と切っていく。
かなりの屈辱だがカッパ頭から脱却しなければならない。
耳の上や首周りから長い髪がある感覚が消えてしまった。

「もうすぐご結婚なのにこんな頭じゃカツラ被るしかないですねー」ひと仕事終えた千花は調子に乗って寿慶をイジる。
「とりあえず、もう少し全体を短くしないとカミソリで剃れないでしょ」美鈴がハサミを受け取って櫛を使いながら寿慶の頭をさらに刈り込んでいく。
チョキチョキチョキ…チョキチョキチョキ…
短い髪が顔だけじゃなくて全身にはりついてチクチクするが我慢する。
頭に何度も何度もハサミが通る。

「ここまで短くすれば剃れるかなぁ」美鈴は浴槽から残り湯を汲み上げて、優しく後ろから寿慶の頭にかけた。

寿慶は両手で頭全体をさすって長い髪が無くなった頭を確かめていると、千花が「鏡見ますか?」と手鏡を渡してきた。

(うわっ。サイテー)

時間をかけて散髪されていたから綺麗になってるのかと思ってたけど、頭のてっぺんだけ白々とハゲているトラ刈りの坊主頭はさっきよりも惨めな姿だ。

(早く全部剃って欲しい…)

こんな頭恥ずかしすぎる。

「これから全部剃っていくけど、痛かったら言ってね」
そう断って美鈴が寿慶の後ろ頭を剃り始めようとした。
だけど…カミソリの刃が地肌になかなか届かず、うまく剃れないみたいだ。

「あれ?うまくいかない。あれ?」美鈴は頭をかしげている。
「私がやりましょうか?」と、大きなメガネをかけた妙恵が美鈴からT字カミソリを受け取って、頭の上から額に向けてカミソリを滑らせた。
美鈴とは違って、剃刀の刃が地肌にちゃんとあたってる感触がした。

ブチッ。ゾゾゾゾゾ…ゾゾゾゾゾ…

「おー妙恵ちゃん上手ー」美鈴たちは感心している。
それから妙恵による剃髪が続く。
ブチッ。ゾゾゾゾ…ゾゾゾゾ…
さっきと同じように時々水で頭が濡らされながら、剃髪されるが照華のように手際がよくないし、たびたびピリッと鋭い痛みを感じる。

そしてついに
ゾゾゾゾ…プツッt

一段と鋭い痛みが襲った。

「ごめんなさいっ」後ろ頭を傷つけてしまったようだ。

「ごめん。ティッシュ持ってきて」結構血が出ているみたいでみんな慌ててる。

「大丈夫ですか?」妙恵が心配そうに顔を覗かせるがわざとじゃない。

「うん。大丈夫だから全部やってちょうだい」

妙恵は心配そうな顔をしながら、カミソリを動かし始めた。

ゾゾッゾ…ゾゾッゾ…さっきより慎重に髪が剃られていく。あと少しだ。

「とりあえず終わりました」

頭を剃り終えた妙恵は風呂上がりにも関わらず汗だらけになっていた。
「身体を洗って髪を流してください。掃除は私たちがやりますんで。寿慶さんはケガの消毒をしてそのまま帰っていいですよ」
美鈴も心配そうに声をかけた。

寿慶は言葉に甘えて洗面器でお湯を掬って頭からザーっとかけた。
さっき切った場所だけじゃなくてあちこち頭がヒリヒリする。
とにかく全身を洗い流して風呂から上がり、事務所にいた知らない年配の尼さんに傷の手当をお願いする。

おばさんは「あなた。頭中傷だらけじゃないの。どうしたのよ」と心配された。
明るい部屋の中で頭を見直したら、頭頂部以外の至るところが真っ赤になって血が滲み出ている。
傷口を消毒してもらい、頭に5枚ほど絆創膏を貼られて、寮を出たのだった。

寮を出た寿慶は、ヒリヒリする頭を確かめるように触りながら一人で山を下りていく。

(ああ、こんな頭じゃ結婚式どころじゃないかも…)
彼や家族にどう説明すればいいかわからない。
涼しい夜風が頭に当たる。
今日は風邪をひかないようにタオルを巻いて寝なきゃなぁ…。

まだ1ヵ月以上修行は続く。あれこれ悩むのはとりあえずもう少し後にしようと必死で頭の中を切り替える彼女だった。

※ いつもお読みいただきありがとうございます。
この作品は「旅の支度〜寺を継ぐ娘〜(合わせ鏡②)」「短編 9月1日」の人物が登場しています。まだ読んでいない方はお読みください。
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この話の続き(第三話・第四話)は、年明け以降にします。



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