個人的な「一期一会」とは

一期一会という諺、四字熟語で思うこと。
中学受験の際には「□期□会」に入る数字はなんでしょうみたいな問題もしばしば見た記憶もある。
正しい意味は、そもそも茶会についての諺であり、人との巡りあわせ、とか一度きりの逢瀬、のような意味はないらしい。初めて知りました。
自分の中では漠然とした意味合いとして、「その人と今日出会って以降、会うことはもう二度とないのかもしれないのだから、その縁を大事にして丁重に接しましょう」のようなものだと思っていた。
僕はハマったものはすぐ熱中しすぎて他のものが漫ろになってしまいガチで、幼い頃はテレビだったりゲームだったり、色んなものをハマってはすぐ没収されていた。その経験から、かなり現在に至るまで幸せな思いをするたびに、好きなものや人ができるたびにいつ失ってもいいような心の準備をする癖ができていた。実際、高校一年生の時、親から没収されるより前に、昔の恋人を好きになりすぎて重いと三ヶ月で振られたことがあった。前持った良い教育だったのかもしれない。
しかし、少し後から気づいたことだが、人間今周りにいる人や持っている大事な物の中で、決して易々と失ってはいけないものがある。失ってすぐヘラヘラ代替品を探して平常を生きてはいけないものもあるのだと、振られて気づいた。とは言っても当時も、全て片付いて執筆している今も、この気づきに文面以上の気概を持って書いているわけではなく、なんとなく漠然と「ああ本当は何がなんでも手を離しちゃあかんかったんやろなあ」ぐらいの感覚で考えていた。
僕にとって、正直明日死んでも多分悔いはない人生を生きているし、今週死ぬと告知されたならまだ足掻きようはありそうだが、明日死ぬと言われたら多分普通にちょっと早起きして部活行ってカラオケして帰ってきたり、もしかしたら親友と酒でも飲んでちょっと夜更かしするぐらいなんだろうなってぐらい未練もやり残したこともない、幸せな人生を歩んでいると自負している。挫折は経験したこともあるけど、オセロの盤面は白が黒を凌駕している人生だと思う。余命宣告されても崩れ落ちることはないだろうけど、今でもあの時恋人から手を離して空っぽな人間になった記憶は泥のような感情と共に残っている。
僕にとって「一期一会」は毎日の小さな幸せや当たり前が目まぐるしく変遷して、嫌われたり縁を嫌われたり、物を失くすことがあろうとも、気にせず割り切って前に進んでいった自分の人生と重ねて気に入っていた言葉だった。一期一会なんかじゃ終わりたくない物をもっとたくさん手に入れてやり甲斐のある苦しみを抱えて生きていきたいと、思う。


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