適切な距離

一体誰のために気を遣っているのだろうか

自分のため?相手のため?相手を思いやれる自分を誰かに見せるため?相手を思いやるふりをして自分の得になるように仕向けているの?わからない

わたしがもし、相手のために気を遣っているのならば、相手本位にしすぎだ
自分の気持ちを無視してまで遣う気はどこへ向かうのだろう

幼少期
強く残る 良い記憶はいくらでもあったはずなのに
負の感情は強い

妹はわたしから見るととても自分勝手に見える
それなのに一人前に人を気遣う ふりをしているのか?
その部分がわたしには本当には理解できない

負けず嫌いな年下の子どもに負けを突きつけるほど強くもなかったし、負けを認められない人に突きつけることはとても恐ろしかった
自分の立場をケアするほうが大事に思えた
勝っていても負けている感じで、今もそうだし
自分が負けるように計算して立ち回った
占領された母の膝に 照れ笑いながら、恐る恐る乗ってもすぐに
なんだかそうされているとき笑われている感じがした
わたしのことは大事じゃないのかな
寂しかったし、寂しいことを気づいてほしかった なぜ妹を叱ってくれなかったんだろう?わたしだってママの子どもだし
こんなこと言いたくないけど
無理矢理でも 自分の欲求のままに生きればよかったのかな?生まれたときからこの生き方しかできなかったのかな?
気遣うことなんかいくらでも、未来で学べた

インフルエンザになって具合が悪いと伝えた時とても動揺していた
なんの病気でもない時、体がだるいと伝えた時とても動揺していた
母に心配をかけたらだめだと思った
頭痛がしても、泣くほど嫌な委員会の話も、心配をかける未来が見えたときは何も話さなかった
自分の状態を伝える手段が、話すことしかないのにそれを放棄した
委員会のある金曜日は、朝ごはんを食べられず吐く
何もない日でも吐いていたけど 発熱がないので学校には徒歩で
はじめて原因不明の嘔吐が出たとき、休ませようとしてくれた
胃腸炎かもしれない うつるかもしれない
熱がなかった
父はよく自分の小学生時代の話を持ち出していた
嫌だったなら自分の子どもにはやらなければいいのに
熱がないのに休ませるのをとても不快に思ったようだった
目に見える症状がないときには自分が我慢すればいいんだと学んだ

今の自分は生まれ変わっている けれど一度死んだ自分の死骸を引き摺りながら
死んでしまった自分を抱きしめたい 辛かった 孤独だった
家族との距離を間違えている

誰とも適切な距離で関われない

一人の時間がないと本当に精神がダメになる
ただ、これを既に自覚している点でとても成長を感じる。
家には自分一人になれる空間はない
訳あって父は殆ど24時間家にいる 母との時間は一番自然体でいられるけど やっぱり
自然体に限りなく近い と 自然体 を混同してしまうのは無理がかかる

車を運転できない 図書館にはいけない
お金がない 働いていない カフェに逃げ込むくらいしか浮かばないけどそのたびに飲み物代がかかるのはいまいち乗り気にならない お金と自分の健康を天秤にかけても 状況による

アイデアが足りない 状況を打破したいが
推理ゲームを続けても疲れるだけだよ、と
ほんとそうだなと 自覚はしてる パワーが要る
腐らせた過去を、自分の内面の言葉をきちんと外の言葉に
逃げても大きくなって付き纏ってくることをわかっている
今の三千倍はやく成長したい

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