「僕らは何度も君に恋する」

既存の歌詞を引用してこう題するからには断り書きから入らねばならないが、この記事は歌や楽曲やイベントの感想ではない

あくまで、それを受け取った私の個人的体験や心情。私というフィルターを通して成分が偏ったとかそういう次元ではなく、私が取り込んだ他の諸々と結び付いて新たに生じた化合物みたいなものだ。そういうものとして読んだり読まなかったりしてほしい。

 - - - - - - -

ここ2か月ほど私は、特にこれといった切実な事情もないまま、Vtuberの配信のほとんどから遠ざかっていた。推しの一人が復帰して、その所属グループがビッグイベントを開催するというタイミングで、だ。

強いて言えば、「推しを自分にとって重荷にしない」という信条によること、と言えるかもしれない。大前提として、私にとって推しというのは娯楽や幸福感をくれて、それに対しこちらからも正当かつ誠実に報いたいと思うような存在だ。だから重荷になってしまったら私の中で推しは推しであれないし、おそらく娯楽や幸福感をくれる存在であろうとしてくれている推しの意図にも反する。

私は推しを嫌いになったというわけでもなかったし、無関心になったのでも、提供してくれるコンテンツに飽きたのでもなかった。むしろその逆で、楽しいこと、幸せなことが多くなりすぎて(その逆も増えてきたとはいえ)、元々何かを選ぶということが酷く苦手な私には受け取りきれなくなってしまっていた。だからもうだいぶ前から、その時々で目についた配信だけ観て、観きれない配信は片端からYoutubeの「後で見る」リストに放り込んで取捨選択を避けていた。

そして10月下旬、そのリストに5000という上限があることを実体験によって知った。私はリストの中身の整理に取り掛かったが、途中で別の趣味に目移りし、そちらに没頭するあまり作業のお供にYoutubeを開くという行為を忘れた。ただそれだけのことで1年以上も続いてきた習慣が途切れ、以後1か月ほどは全く……あれおかしいな、いまYoutubeの履歴チェックしたら私その時期もすっごい観てる……。とにかく、ついさっきまでの私の自覚のうえではかなり視聴が減っていた。コメントも減った。そしてそれ以上に、Twitterから離れた。リストの整理も、今に至るまで進んでいない。

と、長々と書いておいて何だが、私が実際遠ざかっていたのか否かというのも、それが何故かというのもさして重要ではない。ただ私自身の気の持ちようとして、自分が推しから離れてしまっているように感じていたし、以前からいつかこうなると予感しつつ「ついていく」と言ってきた自分に多少の不誠実さを感じてもいた。重要なのはそこだ。

そして、そんな自己の状態について穏便に纏められそうな言葉にも心当たりがあった。そんなわけで呟いたのが、この一連のツイートである。

このような宙ぶらりんの気持ちのまま、私はまた細々とだが配信を観るようになっていた。そして次の週、冒頭近くで言及した「ビッグイベント」とは別のイベントだが、何か月も前から開催が予告され楽しみにしていた「SHINKAI FES」というオンラインライブを視聴した。

 - - - - - - -

さて、以下を読み進めるのはぜひ「SHINKAI FES」を視聴して、そこで歌われたある歌について少しでも自分なりの印象を持ってからにしていただけると嬉しく思う。全編無料で視聴可能なので。

私はここで自らの心情を書き散らすが、だからといって私の好きな歌に対する読者の印象や解釈を歪めたいわけではない。なので、私の自分語り如きに歪められない印象や解釈を持っていてほしい。







この歌を聴いたのは、SHINKAI FESの時が初めてではなかった。

けれども、以前から何となく好きな歌ではあっても、せいぜい浸るくらいで私自身の内面に取り込めてはいなかった。

SHINKAI FESで聴いた時点でさえも、まだ歌詞への理解が追いついていなかった。が、ライブが終わって、この歌があの時歌われたのは何故だったんだろうと考えた時、「さよならと言えたなら、お別れも寂しくないよ」「僕らは何度も君に恋する」という歌詞に対して私は自己を投影してしまった。その時初めて、憧れではなく等身大に近い形で自己を投影できてしまった。

作詞者やライブの制作者や歌い手の意図と一致しているかなんて今でもわからない。むしろ何かしらズレがあるのではないかと懸念して、この記事を書くうえでもしつこく予防線を張ってきたのは読んでの通りだ。ともあれ、歌詞の少なくとも一部分がこういう形で私の血肉になってしまった。

私は推しに「ついてきてくれる?」と訊かれる度、「ついてきてね」と願われる度に「ついていく」と約束し、「好き?」と訊かれる度に「好きだよ」と答え、そのイベントや生放送が終わる度に「またね」と言い、その後何も告げず(告げたほうが良いなんてこともないが)何週間もよそで他のことに没頭していたりする。離れてしまえば離れていても何てことはないように感じるし、何かの拍子に戻って来てはまた離れがたく感じる。

「8月31日」、つまり楽しい時間の終幕を経て、また次の楽しい時間が来たら顔を出すかもしれないし、その時は別の何処かで楽しい時間を過ごしているかもしれないし、それでも次の次以降には戻ってくるかもしれない。私はそういう在りようをした一介の "ファン" だ。

そんな在りようのまま、推しを推しているその時々を悔いなく楽しんで良い思い出にして、言うなればその時々で推しきって、そのうえでまだ好きならまたあらためて推したらいい、と言ってもらえたような気がした。

もちろんこれは一つの歌から私が何となく感じたことであって、実際に誰かがそういうことを言ってくれたわけではない。創作者や表現者がそういう意図を込めたに違いない、と主張したいのでもない。ただ少なくとも、私にはそういう形でスッと入ってきて、それに私は納得した。

 - - - - - - -

この話にはまだ続きが、というより、私がこの記事を書いた切っ掛けのくだりがある。

私は冒頭近くで「推しの一人が復帰し」と書いたが、その復帰した推しというのはSHINKAI FESや先ほど挙げた歌とは無関係だ。そちらの推しが、というより複数名の推したちが参加したイベントが、SHINKAI FESの2日後から2日間にわたって開催された。

私はその2日間のイベント期間中、『8月31日』のことを特に思い出さなかった。そのイベント自体に集中していた。宙ぶらりんの気持ちのままではなく、集中して楽しめていた。

そしてイベントの終幕から少し経った深夜、先ほど引用したツイートをふと思い出した。私は「推しきった」のほうなのか、それとも「また戻る」のほうだったのか。どちらだろうと悩むまでもなく、私はもう戻ってきていた。この2日間の推しに対しては今の私なりに推しきったと思えたし、同時に、これからの推しに対してもこれからの私にできる範囲で推していこうと思えた。過去に引き留められるのではなく未来に惹かれていた。清々しい気持ちだった。

その瞬間、頭の中で『8月31日』の頭サビが流れ始めた。

さよならと言えたなら、お別れも寂しくないよ。

僕らは何度も君に恋する。

清々しい気持ちなのに、何故か涙が溢れた。数日経ってこの文章を書きながら振り返ってみても、理由は判然としない。おそらく、ほぼ間違いなく、一つではないとは思う。

もしかしたら、その理由のうちの一つとして、私は単なる自己解決ではなく、自ら決めたその在りようを相手側すなわち推しのうちの誰かに肯定してもらいたかったのかもしれない。

肯定されたというのも、あくまで私の勝手な、都合の良い解釈だ。しかしそれでも、ここまで読んでくださった方にはぜひ『8月31日』の予告映像である『8月30日』を観たうえで、あらためて『8月31日』の歌詞を読み解いてみてほしい。

私の感動の片鱗だけでも誰かに伝われば幸いだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?