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文学について語ることができない

来月から休みに入る。ということで職場の方々がささやかな会を開いてくれた。

話題はなぜだか主に文学のことだった。(仕事は全くそういうのとは関係ない)。

短編「懶惰の歌留多」で、最初の「い」に「生くることにも心せき、感ずることも急がるる」と書きつけた太宰治。若いうちは死を隣に感じながら生き、年をとってからはもっと生きたいと思いながら生きるのがいい。つまり生き急ぐということ。彼はそのままそういう生き方をして死んでいった。

けど気遣いとか常識とか、そういうのが色々あって、現実はそう生きられないよねという話になったのだけど、そこで「でもそういう風に生きようとした人はいつの時代のどの分野にもいる」と言った人がいた。

そうだなと思った。そして文学とか芸術というものはそういう人のものだなとも思った。

良い文章を書く人というのは、ブログやTwitterをみていても、隣に死があるんだなって感じる。それは死を扱った小説を書いてるとか、常に死にたいとつぶやいているとか、そういうわけではなく、生を俯瞰している感じが文章から漂っているという感じ。だから死なんて単語一つも出てきてないのに死のかおりがするというか。

文学は理想の極点にある。現実の反対にある。会話の中である人はそう言った。生き急ぎ、その目は常に理想に向けられているから、自然とそんな文章になるのだろうなと思う。現実はあくまで理想を形づくるための部分的なものなのだ。

ちなみに太宰のそういう思想はロシア文学がベースになっている、という話が主だったのだけれど、私はやはりこうして実際的で現実的なことに思いを巡らせてそれを本質だと勘違いしたり置き換えたりしてしまうので、そういう文学的生き方はできない凡庸な人間だ。現にこれから産休に入って、子どもを育てていこうとしている。生き急ごうとしても、多分できない。

というかこれは私のお別れ会ではなくて…?という感じではあるが仕事の話題よりもこういう話の方が好きなので良かった。なんにせよこれから1年半休めるのは嬉しい。

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