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episode5.心の限界と本物の死の淵。

高校を卒業し、浪人生となって予備校へ通う生活となった私だったが、常にプレッシャーを抱え続けることになる浪人生活で、それまでもギリギリのバランスを保ち続けていた心の状態は悪化の一途を辿っていた。

急激なうつ状態に見舞われて何にも集中出来ない状態になったり、
ある日突然、電車のホームアナウンスやイヤホンから流れる音楽など、日常的に聞き慣れているあらゆる音が、全て半音ほど下がって聞こえるようになったり。今振り返ればはっきり「病的だ」と思えることも「全て私の心の弱さのせいだ」と言い聞かせて誤魔化しながらやり過ごしていた。

しかし、それももう限界だった。

8月の夏期講習を終えた頃、予備校に通う電車の中で突然視界がブラックアウトした。貧血のような症状を起こし、途中下車するなり私はホームに倒れ込んでいた。目の前がチカチカしてまともに見えない。身体に力も入らない。とうとう、予備校まで辿り着くことすら出来なくなった。

「ああ、もう無理だ。」

自分の身体が完全に制御不能になったその時、やっとそう思った。

それからの日々は殆ど家の自室に引きこもって過ごした。
朝起きて(起こされて)、ごはんを食べ(食べさせられ)、寝て、起きて食べ、夜になって眠る。
気が向けばblogやTwitterに投稿し、いつしかコミュニケーションをする相手は家族とインターネットの住人たちだけになっていった。

そんな生活を続けて4ヶ月ほど経った頃、自身の過失のせいで意識不明の重体になった。

実を言うとその時のことを私はよく覚えていない。
目が覚めた時には眼前に見知らぬ天井が広がっており、意識を失ってから既に5日が経過していた。
意識不明になった私は救急搬送されていて、ICUーいわゆる集中治療室へと運び込まれていたのだ。

早い発見と、病院の適切な処置のおかげで一命をとりとめた。
これが少しでも遅れたりしていたら、今の私はこの世にいなかっただろう。

目が覚めたら覚めたで、喉や鼻、腕、あらゆる箇所に治療の為の管が繋がれていて、ベッドから全く起き上がれない状態だった。
人の手を借りなければ排泄も出来ない。ロクに声も出ない。口から食事もとれない。

生きているんだか死んでいるんだか分からないような心地だった。

慢性的な発熱と体の倦怠感と不眠症。
しんどくてたまらなかった。
とある人物の言葉を借りれば「丸坊主になったほうがマシだ」と思うくらい。

でも私は生きていた。運良く命拾いした。命を拾ってもらった。
徐々に点滴から流動食、それから固形食へと食事が変わっていき、
リハビリのおかげでベッドから起き上がれるようになり、車椅子がなくても一人で歩けるようになってきて、
それらはまるで、赤ん坊が成長して段々と出来ることが増えていくのに似ていた。何かがある意味、リセットされたかのようだった。

そうして自分の体の重さや食べ物を口にする感覚が戻ってきた頃、やっと「生きている」と思った。

退院するまでには2週間程度を要した。
恥ずかしい話だけれど、その時人生で初めて《生きることに必死になれた》と思う。

そして、それまで10代の間にわたって救いの手段として、ある種「憧れの的」として存在していた私にとっての「死」は、身に迫ってみて初めて、それは決して遠いところにあるものではなく、常に自身の隣に存在している身近な存在なのだと知った。「人間という存在は、思っていた以上に脆く弱い存在なのだ」と。

無事に後遺症もなく退院することができ家に戻ったとき、私が入院している間にインターネットで知り合った友人の一人が自ら命を絶って亡くなったと知った。
呆然すると同時に、私は本当に単に運が良かっただけで、どこで何かが少しでも違っていれば死んでいてもおかしくなかったんだと改めて思った。


家に戻った後はゆったりとした時間を過ごした。
体力が戻ってきた頃、近所の本屋でアルバイトを始めて、フリーターをしながら平穏な日常を取り戻していった。
同時に、「人間いつ死ぬか分からない」というのを実体験をもって実感した私は、行きたいと思ったところには行き会いたいと思った人には会いに行くようになった。それが遠かろうが近かろうが関係なしに。

医療技術がぐんぐんと発達して、平均寿命も年々伸びていく。
そして素晴らしいことに、今この国には戦争も内紛もない。
そんな現代日本に生きていて、10代の私にとったら人の命は余るほどに長いものだと過信していたけれど、全くそんなことはなく、
病気にしろ事故にしろ自死にしろ、死因がどうであれ、私自身も含めて人の命は終わりが来てもおかしくない。会いたいと思う人もいつ死んだっておかしくない。

そう思ったら自然と、今という時間を今の為に使うようになっていった。


前話で書き損ねていたが、私は美術大学の受験のために美術予備校に通っていた。(上の写真は、予備校生時代に描いた受験対策用の絵の一部。)
小学生の頃から絵を描くのが好きで、ぼんやりと「絵を描く仕事に就きたい」と思っていたが、高校2年生の折に両親の勧めもあって、美術予備校に通い始めた。
学校終わりに予備校に通い、来る日も来る日もデッサンを描き、絵を描く日々。
絵を描くことは好きだった。
だけどそこに「受験」が付随した途端、その強烈なプレッシャーに押し潰されて予備校もドロップアウトし、何もできない体になってしまったのだった。

さて、そんな私だったが退院後アルバイトを始めて少し経って、徐々にまた絵が描けるようになっていった。
バイト先でコミックを担当していたこともあり、業務の一つとしてPOPを描かせてもらったが、それを見た職場の人たちが喜んでくれることは単純に嬉しかった。(下の写真は実際に描いたPOPの一部。)


もう一度、純粋に「絵を描くことが楽しい」と思った。
そして、絵を描くことが私にとって最も夢中になれることだと改めて感じた。

絵を描くことに命を燃やしたい。

いっぺん死の淵に立ってみて、やりたいことは命ある限り全部やると決めた私は、強く、強く、そう思った。

そうして高校を卒業して2年後の2014年。
関東の美術大学に入学することが決まった。

頂いたサポートは、かどかわの制作活動(絵画制作、展示、リサーチ、レポート)に活用させて頂きます。 ありがとうございます。