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クリムト展

なんでもできる日になにもしないのは、それはそれでいい。なにかしないといけない日にはできないことだもの。

SNSをみていると 宅配便を待っている時間、何もできなくていらいらしてるひと多い気がするのだけど、わたしはわりかし すきである。今まさにそう。

だらだらする真っ当な言い訳をくれてありがとう、と思う。

誕生日の昼下がり、ぽっかり時間ができた。用事と用事の間。一度帰宅してしまおうか、せっかく外に居るので映画でも観ようか…ううむ、と悩んでいると、クリムト展のフライヤーが目に入る。

クリムトはわたしが一番すきな画家で、展示が決まったとき、誕生日にクリムトが東京へ…?これは神様からわたしへのプレゼントだ。必ず行かなくては。と心に決めたのだった。

もうこれだな、この空き時間はクリムトに呼ばれたのだと、そそくさと上野へ向かう。

結果的に、それは大正解であった。そういえば最近、ひとりの時間がほとんどなかったことに気付く。なんとも贅沢で有意義なひと時だった。


ああ、だからすきなのかと なんだか答えあわせをしているような感覚になった一文を載せておこうと思う。

–––  クリムトにとって生命の表現は、愛し合う男女や 子を宿した女性のありのままの姿と、老いて死にゆく人間の姿であった。

おわりとはじまり。どちらか一方でなくどちらもある。はじまった命と命が出会って、愛し合ってまた新しい命がはじまる。始まれば、いずれ終わる。


異国の文化にも常にアンテナを張り、素敵なものに触れ心揺り動かされれば積極的に自らの作品づくりにも取り入れ、新しいものを生み出していく姿勢。

一貫してロマンチックで美しいのだからそれはもう、すきにならずにいられるわけがなかったのだった。

芸術カンパニーを組んで 劇場装飾(劇場の緞帳や天井画など)もやっていたのはしらなかったので、しることができてよかった。

金箔をつかったきらきらとした作品がすきなはずなのに、気付くと持ってレジに並んでいたポストカードには 黒っぽい、母親と子ふたりのなんとも地味な絵。でも、それが一番心に残ったみたい。


玄関のチャイムが鳴ったので、クリムトの話はここまで。


今後 美術館へ行った折には、一番気に入った作品のポストカードをたった一枚だけ お家に連れて帰ることを 習慣にしようと思います。