MADの歴史についての覚書

はじめに

 この文章は、2010年に書かれたものである。かれこれ26歳の文章になるものだった。当時は一貫したMAD論を書きたいという思いでこの文章を書いていたけれど、未完のままで終わっている。このまま死蔵してしまうのはもったいないと思い、ここで公開する。

 もちろん、事実誤認は多くある。また現状としてMAD文化はもっと進歩を遂げており、この文章を書かれた当初とは状況が違うことも認識している。そのことに関しては、コメントして頂ければと思う。ただし、現状として、それらを改めて修正するほどの余裕もない。そのような時代の制約と、筆者の能力不足のものとして読んでいただきたい。

 なお、この文章は購入しなくても全文読める。何か感じ入ることがあれば、投げ銭代わりに利用して頂ければ嬉しい。

個人複製技術の誕生

 まず、MADの存在自体が「個人複製技術」と平行していることを指摘しなければならない。

 「個人複製技術」というのは、私達がテープレコーダーやビデオデッキによって、個人が勝手に映像や音声を録音することが可能になる技術の総体を指す。わざわざ「個人」というのを付けたのが、あらゆる複製技術は業務用と個人用に分割されるからだ。少なくともテープレコーダーが発売された当初に、CDを個人で作るということが可能であるのは一握りであったことは間違いない。

 また、音声および映像が複製可能=録音可能になった時点で、既にそれが編集技術と密接な関係を持つ、という事実も指摘しておきたい。如何なる録画技術であれ、その録音の始まりと終わりは必ず存在する。その始まりと終わりを決定すること自体が、既にその情報を切り取る目線=編集として現れる。コラージュという技法自体は、美術史的に言うならば、既にピカソの『藤編の椅子のある静物』(1912年)が有名であり、それ自体は珍しいことではない。しかし、彼らが使用した技法は、その性質上、自然物等のコラージュをふんだんに使っており、むしろそれらは「複製技術」から隔たって存在している。むしろ、私達が注目するべきなのは、フォトモンタージュを「発明」したと主張するラウル・ハウスマンが、軍事記念の絵はがきからアイデアを思いついたということを確認すること(コラージュとフォトモンタージュ・藤村里美氏の論文より)のほうが、私達の考えにより近くなるだろう。

 だが、「紙」――というより静止画――はその性質上「個人複製技術」とは、その技法が「切り刻み、配置しなおす」という方法では同質であっても、実際の編集現場において異質であることは間違いが無い。「紙」が少なくとも再生する機械が必要なくても、その作品を見ることが出来るのとは違い、音声/録画は、再生機械の存在が必要となる。私達は新聞に挟まれた広告を、ハサミを持ってくることによってコラージュすることは可能であるが、録音にしろ、録画にしろ、まず段階として記録しなければならず、また記録するにしたところで、それらを編集するためには、また職人的なハサミさばきが必要になった筈である。

 私達が問題にしたいのは、そのハサミさばきというのが、むしろ録音スイッチのオン/オフによって切り取るという作業のほうがより一般的であったということだ。既に一九七八年によって最初の「MADテープ」の存在が確認されている(参考)が、私達が問題にしたいのはむしろ一九八一年における「タモリのオールナイトニッポン」において「つぎはぎニュース」というコーナーが存在していたということだろう。ポイントは恐らくラジカセの値段になるのだが、一九六九年に二万七千八百円の、さらにマイクとラジオの音がミキシングできるラジオが存在していることから考えるならば(参考: ここに掲載されているMR-411を参考。ただしこのページによれば、大卒初任給は一九七〇年時点で四万円弱ということを考えると、普及するのにはもう少し時間がかかったように思える。)、二つのラジカセを用意して、切り貼りすることを考えることは、難しいことではない。

 またもう一つのポイントとしては、ラジオ文化における「エアチェック」という文化だ。「エアチェック」とは、ラジオやテレビ番組を録音して楽しむことを指す言葉なのだが、「エアチェック」の文化が、八〇年代にはそれなりにあったことを考えるなら、既に録音して、その音声をためておくことに抵抗が無かったのは間違いないだろう(むしろ、その文化の延長上にMADテープが存在していた、と推測することが可能だ)。

 そして、ビデオテープの普及によってMADテープにも新たな局面が生まれる。

音声と映像を切り離す

 基本的に、編集としては「切り張り」という方法が一番簡単であることもあって、最初のMAD作品群が歌詞のきりばりであったり、NHKニュースのきりばりであったことは、最初に確認した通りだ。しかし、段々ビデオデッキが普及するに従って、映像までもがその「切り張り」の対象となっていく。
ここで、一つ面白い証言を紹介する。それはこのサイトの1978年論ノートというものだ。

 ここでは七十年代のアニメ視聴文化を、記憶出来ないもの=一回性のものとして捉えており、八十年代のアニメ視聴文化を、記憶し録画するものとして移行していくという視点を持っている。当然のことながら、問題はビデオデッキの普及率なのだが、一九八四年には18.3%という統計が出ている(参考)。

 映像作品の自主制作自体は既に、一九八三年に発表された「愛國戦隊大日本」などがあるように、映像の編集自体は、同好の間でそれなりに行われていたというのは妥当ではあるが、しかしMADテープのあり方と、それら自主制作のアニメーションは製作の方法として距離があることを確認しなければならない。そして、その距離こそが、音声を使ったMADテープと、映像を使ったMADテープの違いを際立てるものでもある。

 両者共に素材を製作し、編集しなおして配置するという方法は一緒なのだが、例えば後に作られた「タクラビジョン」の映像を見るとわかるように、あるアニメの主題歌に対して、それに合うアニメーションを配置するという方法を使う。少なくとも、ここでは単なる配置の妙を競うだけではなく、一つの映像作品に対する反省のあり方も反映している。それは簡単に言ってしまえば、「音声と映像を切り離す」という操作のことである。

 もちろん、音声には音声しか存在しない以上、この操作は事実上ありえない。だが、ビデオデッキが登場し、絵と音が存在するようになった以上、同時にまたこれらを切り離すという操作も同時に生まれる。またアニメ自体が、オープニングアニメという存在が生まれている以上、このように映像と音を重ね合わせるというあり方もまた親密であるように思われる。これらは演出に対する反省が無ければ生まれないことでもあり、そしてそれを踏まえた上で笑いに持っていくという操作が必要でもある。

 また、もう一つ指摘しておくならば、これらの録画技術がアニメを「一回性のもの」から「録画し何度も見れるもの」にした上で、「何度も視聴したことを前提としてその作品を作り直す」という過程が恐らく存在している、ということだ。これは推測でしかないが、恐らくそうだろう。自主制作のアニメーションと違うのは、何かしらのシーンをリテイクすることはあっても、そのシーンをその場所において使用するということは決定されている。だが、MADの場合は、膨大なシーンの情報から、何のシーンを利用するかというところからポイントを絞らなければならない。

 もちろん、MADを作るということを前提とした見返しもありうる、のだが。だが、それでもアニメが「一回性」から「見直すもの」に視聴が変化した上で、現れるものである。

切り貼りという問題――何を切るのか、貼るのか

 歴史的に見るならば、ラジカセからビデオデッキという個人が気軽に複製技術を行えると言うツールが生まれたことによって「MAD」という表現が生まれたことを確認したのだが、しかし問題なのは、現在における「静止画MAD」と「音MAD」という表現の問題だろう。これらの「MAD」の表現は、最初のMADの派生からするならば、かなりその表現から隔たっているのは間違いない。恐らくこの歴史的過程についてはまた今後検証するとして、仮説的に二つの可能性を指摘しておく。

 まず自分が理解している「静止画MAD」は、何かしらの元動画に対してキャラクターを入れ替え、さらに自分で手描きしたものを「静止画MAD」と呼んでいると理解している。これらの系譜は恐らくエヴァンゲリオンのオープニングパロディとして「キャラクター入れ替えフラッシュ」が多く作られたことに規定されているのではないか、と考えられるのがまず一つ。それを水脈と考え、さらに元々「MAD」の核となっている概念が「切り貼り」であるとして、決してそれが素材だけではなく、内部のキャラクターを切り貼りしていると考えるならば、確かにそれは「MAD」なのだ。

 つまり、映像/音声という差異だけではなく、映像にもまた切り貼りできる要素が存在しているというのがポイントであり、その切り貼りこそが、キャラクター/アニメーションという還元が行われたとき、アニメーション自体ではなく、キャラクターを切り貼りするという操作もまたありうる。そして、それは最初のMADの誕生からすればかなり「奇怪な」あり方ではあるのだが、しかし歴史を丹念に辿るならば、その土壌は少なからずある。それについては今後の検証にひき続けようと思う。

 また、「音MAD」の仮説としては、まず映像MADの存在が大きいように思われる。音MADは、その系譜上ナードコア/J-COREを思い出させるものなのだが、多くの「音MAD」が「元ネタ」と、素材として使われる映像とその映像の「音」を使って元音源を再現するというこの三種類から構成されている。そして、映像自体が音に合わせて動かされ、その映像は確かにMADではあるのだが、「音」のほうは如何なる表現をすればいいのか。

 説明していないことの一つとして、MADというのが「再現」と関係あるという言い方は可能だ。ビデオテープによって流布されたMADテープは、先ほども確認したように、音声と映像を分離して、新しく組み合わせることで笑わせるという手法をとる。先ほどもいったように、アニメのオープニングテーマに別のアニメのシーンを組み合わせていく、といったように。そういった場合、確かにシュールではあるが、それはフラッシュバックのように「ありうるかもしれないオープニング」として再現されているということになる。当たり前だが、ランダムにシーンを切り刻むだけでは、笑いどころか、ただ意味不明な映像作品でしかない。

 音MADとナードコア/J-COREが、その方向性が「ある聞きなれた、あるいは面白い音ネタをサンプリングして面白おかしく音楽を作る」というところがありながらも、それが全く違うものとして現れるのは、この再現性の違いであるだろう。もちろん、J-COREにもアレンジ作品は存在しているし、ナードコアも音ネタを使う。だが、前者がシンセを使ったりしながら良くも悪くも「アレンジ」という方向性を残し、後者がネタモノテクノという元ネタとは違ったあり方を目指すのに大して、音MADはあくまでも「音ネタによる再現性の妙」を目指す。

 とするならば、MADに必要なのは「再現性」に乗っ取ることである。その再現性を映像から音に影響を返してしまったという意味で、音MADが存在するようになったのではないか?というのが取りあえずの仮説であるが、ここについてもまだ検証する必要の多い問題である。

個人複製技術から個人編集技術へ

 もちろん、そのような録音スイッチのオン/オフというアナログで「原初的な編集技術」があったとしても、同時にコンピューターの存在もまたあったことを忘れてはいけない。そして、以外に軽く見られてしまっているコンピューターに「Amiga」がある。

 「えっ、AmigaってそんなMADの歴史で重要なの?」というと、それが結構大有り。一九八七年に「Amiga」は「MOD」というファイル形式を生み出したからだ(参考)。「MOD」が何かというのを説明するのは少々難しいが、MIDIに音源が入ったファイル形式だと考えるとわかりやすいかと思う。

 あるいはピストンコラージュとよばれる、音を引き伸ばしたりできる作曲ソフトのお兄さんみたいな存在だと考えるのも、間違ってはいないように思われる。ちなみに、このMODは平沢進も一時期使っていた。

 Amigaは、ロゴを入れたりするさいに使われていたという証言があるものの(実際には日本の「MAD」製作においてはMSXのほうが多いという証言もある)、直接的には「MAD」のシーンには余り関係が無い、にしても取り上げるのは、これが「編集」という技術を大きく変化させたからだ。MODはその後の「ナードコア」と呼ばれる音楽シーンを作るのに下支えした。

 もちろん、ナードコアまでに波及するのにはまだ時間があるものの、「原初的な編集」が「切り貼り」であることから、「素材そのもの」を変化させるという方法がありうるということを示す萌芽みたいなものはあったと思われる。

「再現」への飽くなき欲求

 さて、その一方で必ずしも「MAD」とは言えないものの、「再現」という部分からすれば、コンピューター文化で触れなければならない重要な文化シーンが存在する。

 それはパソコン通信とMIDI文化である。

 パソコン通信はご存知の通り、インターネットのお兄さん的な存在。パソコン通信では、電話回線から通信端末であるモデムを使い、ホストと一対一で接続する。そして接続したときには、基本的にはテキストベースで表示される画面に、コマンドを打ち込むという形によって、掲示板を閲覧したり、あるいはそこに書き込んだりする。

 一九八六年にNiftyと呼ばれる有料のパソコン通信掲示板が生まれる。しかしパソコン通信は必ずしも会社運営の「有料」のホストだけではなく、有志や同好の間によって「無料のホスト」が運営されていることも多かった。その「無料のホスト」は”草の根”のように現れることから、「草の根BBS」と呼ばれ、その一つに「ゆいNET」(参考)が存在していた。

 なぜこれらの文化において「ゆいNET」が重要なのか。というのも「ゆいNET」がアニメやゲーム音楽を耳コピしたMIDIが大量にアップロードされていた場所でもあったからだ。もちろん、これらの存在は著作権にはグレーゾーンであったことは間違いない。JASRACがMIDIに目を付け始め、事件になる二〇〇〇年頃の事件を考えるならば、まだ目を付けられていなかったと推測するが、推測の域を出ない。

 それは兎も角として、確かに「MIDI」によってアニメやゲームの音楽が「耳コピ」されていたとして、もう一つ重要な文化というのもまた存在している。それは「MIDI」に付属していた「WRD」というファイルである。「WRD」とはMIMPI(参考)というソフトウェアが発明したもので、これを使用することにより、歌詞を表示したり、画像を表示することのできるようになる。

 実際に「WRD」が実装された経緯に関しては不明だが、これによって、アニメのオープニングを再現したりするような「職人」が誕生した。恐らく、「WRD」が実装された経緯は、カラオケの流行や、LDディスクの存在と結びついている(参考)のはあるだろう。

「再現」と「コンパクト化」という文化

 さて、「MAD」の歴史を考える上に置いて――というよりも、コンピューターの歴史自体において――、結果として「意味」をなくしてしまったと思われる文化が一つ存在する。それは「コンパクト化」の歴史である。コンパクト化とは何か、といえば容量を出来るだけ少なくする作業のことを指す。

 プログラムの文化にしても、最初はメモリや容量の戦いから、いくら読みにくい、わけのわからないプログラムでも、それがメモリを使わず、容量を使わないで実行できることが良いとされていた。また、MODの歴史にも書かれているように「MEGADEMO」という文化が存在していたのも見逃してはいけない。

 さまざまなコンピューター、および家庭用ゲーム機(!!)で作られた「MEGADEMO」は、まさにメモリと容量に対する技術力を集めて製作されたものである。簡単に言ってしまえば「この機械で俺の技術ならここまで出来る」ということを追求するための「DEMO」である。そして、その「DEMO」はハッキングであり、あるいはゲーム改造という文化と水脈を共にする。ハードディスクにしても、一九九五年頃に1GBで五万円程度であることを考えるならば、容量を湯水のように使うことは、自殺行為であるとすら言える(参考)。

 なぜ、MIDIやWRDという形式が選ばれたのか、といえば、ここに対する要因が存在する。つまり、出来るだけ容量を圧縮しながら、如何に高クオリティの「再現率」を保つのか。現在は既にDVDディスクを複製したとしても、それほど気にならない人が多い時点で、このような「再現」というのが、また別ベクトルを持ち始めたことは記憶に留めるべきだろう。

 ハードディスクとの戦いが、その当時の限界と技術力で「仕方なく行われた」ことが、今は既にそれが「ノスタルジー」として受け止められるという歴史の過程がある。また、当時の回線が非常に弱く、最高でも28.8kbpsくらいの速度でしかなかったことも付け加えておくべきだろう。

 このように、コンピューターにおいて「MAD」という表現が一般的になることはまだ先のことではある。容量の関係上、やはりその流通は同好会における上映会、あるいは同人即売会などの経路を辿っていたことは推測が可能だ。だが、同時に「静止画MAD」といわれるような、あるいは近い部分であるならば「Flash文化」の表現に繋がるような可能性が萌芽し始める。

 もう一つ、可能性として指摘しておくならば、「MADの想像力」自体がそのコンピューター、あるいは機材の限界と密接に関わっている可能性を指摘しておく。というのは、ある機材の再現性がまだ貧弱である場合、むしろ人々が意識を向けるのは、その機材において音を再現するということ自体に集中されるのに対して(初音ミクの”調教”に関してはこれに当たる)、その「再現性」が十分である場合、むしろそれを加工したり、あるいは変化させるということに重点を置くはずだ、ということである。これに関しては仮説の粋を出ないが、十分に考えられるべきだろう。

MAD的想像力の水脈としてのゲーム文化

 しかし「MAD的想像力」と言われるさいに、恐らく重要になるのは、ゲーム改造文化の側面であるだろう。

 まずオフィシャルに行われた「ゲーム改変」としては、一九八六年に製作された「オールナイトニッポンスーパーマリオ」(参考)を指摘しておきたい。これは当時ニッポン放送と任天堂がコラボレーションし、クリボーを中野サンプラザにしたり、パックンフラワーをタモリにされたロムであり、リスナー限定でプレゼントされたものが、その評判により公式に販売されるようになった過程を踏んでいる。

 ポイントになるのは、決してビデオ文化だけが「映像文化」を担っていたわけではないということであり、既に「ゲーム」というのが同時に新しい「映像文化」として浮上してくる。「MAD」を「切り貼り」とし、そのシュールさを楽しむという考えからすれば、また「ゲーム」という問題が浮上してくるといってもいい。

 さらに述べるならば、ゲームが他の映像作品と違うのは、ゲームの場合はキャラクターデータが別に格納されており、そのキャラクターデータを改変することによって、まさにシュールな世界観を作り上げるということが可能になる。

 また、いわゆるゲームセンター文化における「改造ゲーム」の存在もまた指摘しておきたい。ギャラクシアンやスペースインベーダー、あるいはストリートファイター2などの「改造ゲーム」の存在が存在している。これらは、もちろんグレーな領域によって作られ、あるいは他のゲームと差異を作るための、子供だましみたいなものであるとは言えるのだが、ポイントになっているのは、「何かしらのデータが存在するならば、そのデータは改変が出来る」という事実が、既に当たり前のように考えられていたということだろう。

 もちろん、この自体が一般的な問題ではない。業務者が改造することと、個人が改造することはかなりの隔たりがあり、個人が勝手に改造するまでには、エミュレーターの普及が必要になってくる。だが、恐らくはここにおいて「如何なるデータも、データである以上改変できる」という理念だろう。そして、この「改変の妙」が表現として面白いと理解される場合、それはゲームの改造ではなく、むしろその表現をなぞるといった「静止画MAD」的なあり方へと結びつく。

 日本のゲーム文化が特殊なのは、このような「ゲーム改造」というあり方が、オフィシャルであれ、アンオフィシャルであれ、存在していたということの事実だろう。そして、そのような「節操の無さ」が、私達の表現に対して間接的に影響を及ぼしている、と私は考える。

蛇足・エミュレーターとハックロム

 蛇足とはいえ、恐らく今後触れないながらにしろ、重要な問題であることの一つに、「ハックロム」と呼ばれる存在の確認をしなければならないだろう。ハックロムとは、ファミコンやスーパーファミコンなどの、家庭用ゲームソフトのカセットから、ゲームソフトをバックアップし、そのデータを改変して、ステージを作り直したり、あるいはキャラクターを変更したりするソフトの一群である。自分の記憶によれば、「NESticle」(参考)というエミュレーターソフトが、その内部で「キャラクターデータ」を改変できるようになっている。開発が二〇〇一年頃からぱったりと止まっているが、既にそのころには多くのハックロムが出回っており、その認知度や改造のしやすさから、スーパーマリオが選ばれることが多かった。

 これらハックロムに関しても、元々は「ハックロム」を作ること自体が面白いということになるのだが、解析及びデータの改変、ならびにツールの整備が進むにつれて、一つの「表現」としての選択肢として選ばれていく。現在における「全自動マリオ」などの存在は、むしろ「ハックロム」というあり方の認知と、それに携わる人々の「ツール」との関係によって規定される。私達に圧倒的に足りないのは道具の歴史であり、この道具の歴史こそが私達の表現を変えていっている。

 多くの人々がこの文章を読んださいに、頭に思い浮かぶのが、椹木野衣氏の『シミュレーショニズム』という書籍だろう。この本は、一九九一年に刊行されており、現代美術からハウスミュージックにおいて、盗用/サンプリングの問題を丹念に追った論文である。手元にこの書籍が無いためにこの書籍の内容に詳しく入ることが出来ないが、少なくとも「美術史」的には、既に「サンプリング」という問題が提出されていたということになる。そして、現段階で確認できる事実とは、「オーディオの進化」と共に「クラブ・カルチャー」の発展も同時に起きたということだろう。

 クラブ・カルチャーの問題が、その切り貼りを音の気持ちよさ/流れとして作り出していく壮大な紡ぎによるものであるならば、MADの文化はむしろその切り貼りこそが「新しい笑いを生む」という違いはまず指摘できるだろう。そして、それは視聴者に対する「ラジオ/テレビ・リテラシー」の向上と無縁ではない。また同様に、「笑いのリテラシー」もそれなりに熟成される必要性があったと見るのが妥当だ。

 そこで関係するのが、恐らくはそのメディアを、一つの規則に乗っ取ったものとして読解する意識の現われが無ければならないということは指摘しなければならない。

 というより、漫画やSFといった文化圏が、当初からその「メディア」に対する文脈を読み取ると言うリテラシーを持っており、賢い読者ならそれを読み取って笑うと言うことは可能だったと考える。

 例えば、漫画の文脈で言うならば、手塚治虫が漫画作品のなかで枠を破壊したりして暴れまわるという表現を使用したし、当時はSF作家の一人だと言われた筒井康隆も、一九八一年に『虚人たち』というメタフィクション(自己のジャンルに内在する文法に言及的な作品)を製作していたことを考えるならば、既に「メディア」に対するお約束に対する読解の意識は生まれていたと言ってもいい。

 お笑いの文脈でそれを述べるならば、恐らく『オレたちひょうきん族』がそれに値するだろう。同時代に『8時ダョ!全員集合』があったにしても、メディアに対する意識そのものが「笑いになる」という製作が生まれてくるのは、この番組が代表的であるといえるかもしれない。例えば初期のコーナーに「ひょうきんニュース」であったり、あるいは「ひょうきんベストテン」などが組まれるなど、既にメディアの文法を読解し、それをズラすという作業が「笑いに結びつく」ということが、大衆的な習慣に訴えかけられたということを確認するだけでもいいだろう。もっと「おたく側」に引き寄せるならば、八〇年頃にちょうど「ファンロード」や「ジャンプ放送局」を確認するのもいいかもしれない。

 もちろん、如何なるメディアであれ、習慣を持ちえなければそのメディアを扱うことは難しい。例えば私達はテレビにおいて、間に広告が挟まることを当たり前のように感じるが、しかしそれもまた「そのようにテレビが構成されている」ということを理解しなければ、番組と番組に挟まれる「映像」の意味を理解することが出来ないだろう。だが、さらにそのメディアを読解し操作するということが、さらなる発展形として笑いに結びつくということを発見したという事態が、恐らく八〇年代のメディアを特徴付けるものでもあると考えることは可能だろう。

 もう一つ、関連として指摘しておかなければいけないのが、「クラブ・カルチャー」の切り貼りにしろ、MADの問題にしろ、それを切り貼りされるにさいして何かしらの欲望によって再編成されなければいけないということだろう。

 例えばクラブ・カルチャーであるならば、踊れる/気持ちいいという流れの形成と不可欠ではない。

 同様にMADの問題も、なぜMADがMADとして開花したのかという問いに答えるならば、まず「笑える」という端的な事実から始めなければならない。そして、その「笑う」という問題に対して切り貼りが有効であるということが確認できなければ意味が無い。

 そして上記で確認したように、そのように「ズラす」ということが先行事例として「笑いを生む」ということが理解できる以上、それをまた利用しなおすということは間違っていない。

 そして、もう一つの問題として、その内在性が「クラブカルチャー」の場合は、「音楽」という内部に宿るのに対して、MADはあくまでもそのメディアという枠=外部に宿るというズレも言えるかも知れない。

 それはどういうことか。

 例えばダンスミュージックにおいて、有名なドラムループにAmenというループがある。これはAmen Brothersが叩いたドラムソロの短い間が余りにも気持ちいいために多用されたドラムループの一つであり、Drum'n'bassなどで多用されることがあるが、しかしこのドラムループの存在を知ることが無くても、そのドラムに対して気持ちよさを理解することが可能である。しかし、MADの場合、その笑いどころが「それを知っているが故に面白い」というような、その作品の知名度を前提としている作品も多い。難しいのは、その作品の切り貼りが意味の「解放」という側面よりも、むしろ何かしらの「文法」を象徴するために利用されるケースが多いためなのかもしれない、と著者は推測するが、それは何とも言えない。

 「おたく」のあり方が、その性質上「メディア」と密接な関わりを持っているのは疑いようが無く、そもそも情報を得る回路が「メディア」という存在と関わっている以上、それは仕方ないことではある。ただ、これ自体に関してはもっと詳細に検討しなければいけない問題ではあるだろう。

 このような話をしたのが、一九八六年に製作された十二支団によるえとけっとびでお『とらけっと』が、例えばコマンダー天気予報といったパロディや、あるいは、何度も同じキャラクターが踏みつけられるシーンを挟む、お笑い用語でいうところの「天丼」を利用したり、あるいは太陽にほえろのBGMに合わせてアニメキャラクターが走るシーンを集めたりなどの作品を作っているからだ。少なくともこのような作品が現れるためには、上記のような文脈が必要なのではないか、と考える。

機材の親密さ

 MADの歴史が、少なくとも「ポップカルチャー」と無縁では無いのならば、私達は他のジャンルからも平行した歴史が編めるはずである。

 まず一つにMADの歴史が、例えばラジカセ、ビデオデッキ、コンピューターという「機材」という道具の歴史と、それが内包する録音/録画技術と無縁ではないことを確認した。

 そして、それらは、いわば「サンプリング」を多用し始めるエレクトロ・ミュージックと無縁ではない。また、MADの持つ視線そのものが、「大衆的」なメディアの享受と結びついているということが問題であることは間違いない。

 MADの歴史的には七十八年頃に既に最初の「MAD」が発生する事態から、さらには八十六年に「とらけっと」等のMAD動画が誕生すると言った経緯は、当時「テクノポップ」と言われていたYMOと、ナゴムに所属していた「空手バカボン」や、電気グルーヴの前身とでも呼べるべき「人生」というバンドの歴史と並列して語ることが出来るだろう(参考: 日本ロック通史(第二部 1979~199?))。

 古典的な音楽を何かしらの形でカバーするということ自体はそれほど珍しいことではないとは推測するものの、しかしシンセサイザーが持つ響きは恐らく今までの楽器とは持ちうる快楽とはまた別様の感覚を持っていた筈だ。

 例えば八〇年代においてはYMOに対して、平沢進率いるP-MODELや、巻上公一によるヒカシューなどがデビューしていたが、彼らが相対的には文化的資本が高かったこと(つまり、何処かインテリっぽかった)は、覚えていても悪くは無い。それはYMOやヒカシューが「民俗音楽」を意識したり、P-MODELが技術に対して意識的であったことと関連している。

 もちろん、それはシンセサイザーが高価であり、それを手に入れるようとすること、あるいは手に入れられることが出来るのは一種のハイ・カルチャー所属の人間であったこととは無縁ではないかもしれない。が、YMOのライディーンがパチンコ屋でかかる位に有名になり始めると、むしろこれらの「ハイカルチャー性」が削ぎ落とされ、むしろ「ポップ」な、あるいはもっと言うならば「スカム」的な表現へと行き着くだろう。

 「スカム」というのは「クソ」ということである。

 既にその「スカム性」については、一九九五年に山本精一がスタジオボイスにおいて言及している(参考)が、リンク先で書かれているように、その土壌を作ったのがその当時にスターリンやINUなどを生み出したパンクムーブメントである可能性は大きいだろう。多くの作品がその洗練された故に表舞台に出てくるのに対して、むしろ圧倒的に洗練されない「アンダーグラウンド」な音が多く存在していた筈である。そこには、恐らくその洗練のされなさ、圧倒的なバカバカしさへの意思が働き始めていたはずだ。もちろん、それを語るためには前史としてのコミックバンドの存在(例えば横山ホットブラザーズであったり、ドリフターズであったり)もあるが、しかし後に現れるのは、コミックバンドが持ちうるユーモアというよりも、むしろシニカルさだ。

 MAD史において、なぜわざわざ「テクノポップ」の言及が必要なのかと言えば、繰り返されたように「機材」の歴史との関わりにおいて、参考になる部分が多いからだ。ある技術が誕生し、その技術が使えるようになる機材/パッケージが生まれた当初は、むしろそれが「高級なモノ」として現れるが、それが大衆化するにつれて、むしろその洗練のされなさこそが「ポップ」なものとして現れると言う平行関係がそこにはある。そして、もっと重要なのは、その「洗練のされなさ」こそが面白さ=ポップさを持つという視野が誕生するということである。

 MADも同様に「洗練のされなさ」=切り貼りということこそがその意思として大きく重要になる筈だろう(だからこそ「スカム」も語らなければならない)。

 実際に、例えば「空手バカボン」において一九八三年に発売されたEPに収録されている「あの素晴らしい愛をもう一度」を聴くとわかるように、その奇声やシンセのチープさという戯画的な意向、また「人生」における「オールナイトロング」(一九八六年)はその歌詞の下品さなどを考えるならば、それらが如何に「くだらないもの」として洗練させていく意思が見えるのかが理解出来る。八〇年代において、恐らく発掘された感性というのは、MADにしろ、テクノポップにしろ、「くだらなさ」への意思であり、それが「ポップ」であるということだろう。そして、それは「機材」という誕生、マスメディアが持つ「ポップ」に対する冷や水という意味でも大切だろう。「あの素晴らしい愛をもう一度」がフォークソングとして存在感を放っていたことを理解するとわかりやすい(ちなみに、有頂天は後に「心の旅」をカバーする)。

替え歌/あるいは勝手歌詞

 少なくともMADの歴史が受け手とのメディアの関係を表現と言う方面から表出してきた総体であることはあるにしろ、そこで必要になるのは「替え歌」というベクトルだろう。

 確かにカバーというベクトルがその歌詞/曲を”尊重”しながらも、その”尊重”からは逸脱していく。「歌詞/曲」という組み合わせが当たり前に「ポップ・ミュージック」の前提になっていたが、「テクノ」というあり方は、その「歌詞/曲」という関係を切り離し、「曲」だけを演奏する。しかし、「歌詞/曲」という組み合わせが前提になるときに、その曲を聴いていたら「歌詞」が聴こえてきたのかわからないが、勝手に歌詞をつけるというあり方はある筈だ。例えば「空手バカボン」による「来たるべき世界」(一九八八年)は、YMOのRYDEENという曲に歌詞を付けて歌うということをやっていた。

 また、歌謡曲/ポップ・ミュージックというあり方に対して、替え歌の面白さというのが生まれてくる。その当初に作られたMADが「替え歌/一番と二番を適当に歌うちゃんぽん歌詞」だったことを考えるならば、元々そのような面白さというのは発見されていたと推測は出来るが、それが一つの作品として出てくるためには、ある一定の過程を得なければならないだろう。

 もちろん、替え歌自体は古くからある。その最初を辿るならば『日清ちびっこのどじまん』における「ブルー・シャドー」の替え歌が四方晴美によって歌われるというのがある。また、その中で初期の頃に出てきたのは、タモリの『タモリ3 -戦後歌謡史-』(一九八一年)だろう。もちろん、それが風刺的な意味を持ち、非常に意識的な高さを持つことが、不幸だったのかどうかはわからないが、それらが怒りを買ったことは間違いない。

 そのような替え歌がポップさとアンダーグラウンドさを持っていたことは間違いないのだが、そのポップさが映像と結びついたものを考えるならば、「やまだかつてないテレビ」(1989年 - 1992年)における、KANの「愛は勝つ」(1990年7月25日発売)のパロディである「愛はチキンカツ」だろう。山田邦子がパロディ歌詞を歌いながら、その歌詞に合わせて食べ物がカットされたり、あるいはベルトコンベアに運ばれてその食べ物が現れたという演出は、少なくとも以前の「替え歌」というあり方の進化を伺わせる。

 またそれに並列してタモリ倶楽部において「空耳アワー」の前史である「あなたにも音楽を」(一九九二年)が開始されることを考えるならば、「替え歌」や「空耳」と言うあり方が一つのコンテンツとして認知されてきたことは間違いない。

 さらに言うならば、その「コンテンツ」の享受のあり方が、一九八〇年代や一八九〇年代における「お笑いブーム」による土壌があることは間違いない。少なくとも「面白い」ということが「魅力的なことである」という発見を通じなければ、それが許容されることもまた無いだろう。というのも、それが権利関係と同時に剽窃を許容する/容認する/流通する過程があるということもまた事実であろうからだ。

 そして、「愛はチキンカツ」という映像であり、「空耳アワー」という映像であったり、本来そこに無関係なものが現れるだけで「面白い」という発見は、MADの関係と大きく関係しているだろう。

(未完・初稿2010年)

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