「若い女の子」である「私の価値」。



こんにちは、はじめてnoteを使って文章を投稿します。

「りの」という名前で都内某所でお仕事をしています。

ここでは「りの」としても、ある1人の女の子としても文章を書いていきたいと思います。

年齢は不詳です。20代前半です。


さて、私の現状のお仕事は「若い女の子」であるからこそ出来るお仕事です。

ただこの価値は長くは続きません。以前20代~30代の女性と多く話す機会がありましたが、「女の子」と「女性」の境界線はこの20代のうちにあるのでは、と感じました(もちろん個人差はあると思います)。私の「女の子」としての期限は10年ない、ということです。

〇年お世話になっている「若い女の子」という武器をいつか手放す時がやってきます。それはいつやってくるのか分かりません。5年後?3年後?1年後?明日かもしれません。また、受け取り手によってはもう「若い女の子」ではないかもしれません。

ここで重要なのは、「受け取り手によっては」という事です。

今述べている「若い女の子」である価値は、持っているその人自身が判別するのではなく、受け取り手がその価値を判断します。受け取り手は自分以外のすべての人間。73億人もいます。周囲に評価されてつく価値には73億通りあるという事です。1人の人間を形容し、評価する際、人は自分の中のその人のイメージを数種類の言葉に当てはめて共有しますが、各々が感じているその人の価値やイメージには差異があるでしょう。

ありきたりな言葉ですが、人からの評価”だけ”を自分自身の価値とするのはとても不安定です。

私もつい1カ月ほど前まで、「お客さんからの評価」をとても気にしてお仕事をしていました。要するに猫をかぶっていたわけです。これがとっても疲れる!あとメンタルにも来ました。だって人に気に入られるように、人から高い評価を受けるためにわざわざ自分を隠し通して、いやなことをされてもにこにこして、それでも嫌われるときは嫌われるんです。また、そんな自分を好きになってくれる人のことも特に大事に思えませんでした。ニコニコしてかわい子ぶってる「りのちゃん」が好きなんでしょ、って思っちゃう。

限界がきて、考えたとき、自分自身の価値についてちゃんと考えました。私が私である価値を。公序良俗に反しない限り、自分の価値を使っていくほうが、人からの評価もうれしく、自分自身も楽しいのでは、と。

私の場合、この「私が私でいる価値」の中に「若い女の子」ということが追加されました。だって「若い女の子」である価値は間違いなくあるからです。この価値はいつか消えてしまいます。でもこれだけじゃないから何とかなるでしょ、と思うのです。今後も戦えます(何と?)。

「私が私である価値」なんて、他人に左右され過ぎなくて、公序良俗に反しなければなんでもいいんです。簡単です。見つからない人は私のお店に来て一番安いコースで指名してください。あたしも一緒に考えます。大事なのは、相対評価を意識しないこと。

他人からだけの自分の価値だけではなく、自分が決めた自分の価値を考えてみる、という時間の使い方もありではないでしょうか。もしかしたら、明日を過ごすのがちょっと楽しくなるかもしれません。

なんて書いてたらもう夜です。お腹すいた!読みづらい文章ですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。


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