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情報感度の高さと比例する「おせっかいおばさん」

 まいにち無数の情報に触れ、流し、流されないように俯瞰する。日頃わたしたちは、自ら情報を取りにいくよりも与えられることのほうが多いのではないだろうか。

それらには、自分が待ち望んでいたものからむしろ、避けてしまいたいものまであり、行く先への旗を掲げていないと飲まれて流されそうになってしまう。

しかし、流れ続ける情報のなかにも、ときにあったかくなったり、悲しくなったり、感情が動くものがたくさんある。一括りに「情報」というと少し冷たさを感じるかもしれないが、だれかのツイート一つでも「情報」になり、街を歩き視界に飛び込むヒトやモノ全てが情報だといえる。


贈りたいあの人が思い浮かぶこと

 情報に触れるのが好き。毎日Twitterのタイムラインを眺め、noteを読み漁り、好きなwebメディアはブックマーク。自分のお気に入りの記事や見返したい記事は、メモをして保存したりSlackで管理したりもする(だいたい放置だけど)。

そして、私には情報収集をしながらやることがもう一つある。それは、情報を届けることだ。あるメディア、というかほぼnoteなんだけど、私は情報をみて思い浮かぶ誰かがいるときに、「こんなのあるよ!」と届けたくなる性質があるらしい。

そういえば、「人を引き合わせるのうまいね」といわれたことがある。たしかにこの原理と同じで、共通点をみつけるとすぐに教えてしまうことが多々ある。

それが本当に相性がいいか、相手が求めているかとかはそんなに考えてないのだけど、ピンときたら口から出まかせで話して(送って)しまうし、友人はこれを「おせっかいおばさん」と呼んだ(納得)。

人もそうなんだけど、情報に触れているなかでピンとくる記事を見つけると、Slackのブクマチャンネルに保存しておいたり、そのまま思い浮かんだ誰かに送ったりしている。

アンダーグラウンドな音楽が好きなあの子や、ビジネスを始めようとしているあの子、現代美術が好きなあの子、発達障害に悩むあの子、、。ターゲットが思い浮かばなくても、いいなと思う記事はTwitterやFacebookでシェアをし、思い浮かべばすぐにでもその人にシェアをしたくなってしまう。

洋服やアクセサリーをみて似合いそうなだれかを思い浮かべるのと同じで、記事やメディアでピンときたものは、誰かへの贈りものみたいな存在なのだ。


自己満足と情報取捨

 とはいえ、これは完全に自己満足だと思う。「これはあの人に合うかな?」と考えるよりも先に「あの人に贈りたい!どぞ!」と思って贈ってしまう。"贈る"という漢字を使ってるのがおこがましいほどに。相手にとってはそこまで合っていない情報かもしれないのに(ごめん)。

だけど、私が反対の立場だったとき。自分の興味に関心を持ってくれている事実に嬉しさを感じ、こちらもまた、その人がほしいような情報を届けたくなる。

そうやって、時たまお互いに情報交換をするようになる友人もいたりして、自分一人で情報収集するよりも選択肢が広がることもある。

また、さいきんは女性向けのメディアやサービスなどの情報を集めている。自分の興味を発信をしていると、次第に周りの人が「これ知ってる?」と情報を届けてくれるようになったことにきづいた。

自分が知り得なかった情報が届くのはすごく喜ばしいことだ。「自分で情報を探せるんだったらいらないんじゃないの?」という人がいたら、一度やってみてほしい。たとえ知っていたとしても、誰かから情報を届けられるほうがずっといい。人の気持ちが乗っているぶん、無意識にその情報を受信する姿勢がつくられるし、誰かが自分の興味に関心を寄せていること自体が喜ばしいことだから。

これは、ビジネスの知識や学術的な固めの情報だけでなく、「この映画おもしろかったよ!」「このドラマの○○がね…」といったように、やわらかい、ラフな趣味の話でも同じだと思う。

それと同時に、自分の興味・関心は気軽に話すことが本日のおすすめ。!もちろん、小さく深く趣味を広げたい、と思っている人は無理に広げることもないけど、何かはじめたい人自分の中だけで留まっている人は、気張らず話してみたらちょっと世界が変わるかもしれないよ、といいたい。

関係ないと思って線引きするよりも、案外話してみるだけで、思いもよらない情報が回ってきたりすることに私自身が気づいてからは、「必要か必要でないか」などと考えないことにしている。!


情報過多だからこその「送る」価値

 私は毎日SNSやnote、メディアの記事を読みながら、自分にはそこまで必要なさそうな情報もチェックをする。

それは、社会の動向を把握したり、知見を広げたりするためだけでなく、届けたい誰かがいるからやめられないだけなのだと思う(単なる好奇心とともに)。

無数の選択肢があるなかで、自分に合った情報だけ受け取れれば十分と思う人も少なくない。それでも、自分で探す情報と、人から伝えられる情報の受容度は変わってくると思うし、一人では集められる限界があるからこそ、信頼している人や近しい人との「送りあう」「シェアをする」という行為自体に価値があるのだと思う。

そういった情報感度は、自身のインプットにとどまらず誰かと価値観を共有するきっかけにもなるし、そういうデータが枝分かれになって、頭の中でネットワークが広がっていく感覚がある人もいるんじゃないかな。

インターネットは私にとって一つの世界だ。リアルと乖離するときもあれば、同じ世界の側面同士が交わっているだけのようにも思える。

そんな世界の中で、泳がされず、選び過ぎず、誰かとシェアしながら上手く情報と付き合っていきたい。そして情報に疲れる人が少なくなればいい。


そんなこと考えながらも、身構えることなどなく結局無意識にSNSを開き、またいい記事を見つけるならばあなたに届けると思う。

あんまり深く考えたことがなかったけど、よく人に送ってたら自分にも届くようになったので改めてことばにしてみたり。

「おせっかいおばさん」のインパクトが強くてタイトル迷ったけど、なんだか書いていたら納得度がすごかったからそのままにした。


これからはもっと贈りものに深みがほしい。だれかの顔が思い浮かぶ限り、私は贈りものをやめないでいようと思う。



ここまで読んでくれてありがとうございました。 たぶんまた書きます Twitter:@__mincha


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