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思い出したように愛を叫ぶのはやめろ、吐き気がする、嫌いになりたくはないのだ


眩しくて彼の顔がみえなかった、
今はしないカレーの匂いとパソコンの起動音。
何て言えばよかったんだろう、どうやって挨拶すればよかったんだろう、どうすれば、綺麗に、別れることができたんだろう、
そうも思ってないくせに、と何も考えてないふわふわな脳味噌に青りんごサワーを注ぎ込んで封をした。ゴミ箱に捨ててしまったものを、取り出すことは誰だってしたくない。

あの日、誰もいない高速バス乗り場を想像した。期待した。そうであってほしいと願った。待ち焦がれてほしかった。それで、ひょいと顔を出して永遠の別れをしたかった。なんの度胸もないまま、またね、なんて二度とないまたをいつまでも待っててほしかった。思ってもないことを言い続ける彼に思ってもないことを口に出しながらへらへら笑っていたかった。あの日、会わなかったことを後悔した日などなかった。なにもなかった。思い出すことも、日記を読むこともなかった。ふと思い出してそういえばそういうこともあったねと、そんなかための表情で。
はじまってないことを終わらせるにはどうすればいいんだろう。はじまることがないことを期待しないにはどうすればいいんだろう。あの日、誰もいない駅のホームで並んで安い酎ハイを飲んで、エメラルドグリーンの風は気持ちが悪くて、誰も見ない黒い爪を、真似したのは誰だったっけ。噛み続けた爪はもう伸びない。弦を弾く爪は伸びて表面の傷がざらざらと砂のようだ。職質、なんてものがあるならきっと自分の童顔のせいだろうと思っていたのにされたことは一度もない。何かから逃げるためには道路が狭すぎた。几帳面なラブホテルは黒い壁でこじんまりとしていて、安い生殖など受け付けてはくれないようだった。

眩しくて彼の顔がみえなかった、
光の入らない黒い目を、まっすぐ歩けないおぼつかない足元を、誰も見てはいなかった。路上のすみっこに座りうたう、未来のないバンドマンを。上手な歌はうたえないだろう、でもそれでいいのだと思った。音が出れば、声を出せれば、ゆらゆらと、酔ってもないのに首を振ることができれば。誰にも成れなくていいと、思っていたのは彼の方だったと思う。

とろろは嫌いだった、ねばねばしていて、心臓を絡め取られそうで。食べられないものを食べられるふりをするのは苦痛だった。なにも考えてくれない目の前の彼をすこし呪った。明日すこしでもいやなことがありますようにと。どうでもいい、元から忘れてもいいことは青りんごサワーを飲み干せばなかったことにできる。ありがたいことはそれだけだった。
同じ顔のアイドルが、病気をアイデンティティーにするネットの中の誰かが、巣食い、ころされるのを見るのは嫌だった。できればそうならないようにと願った。あの日、思ってもないことをいったその口に、毒された世界を詰め込んでなにもしゃべれないようにしてしまえばよかったのかもしれない。誰にも知られず、孤独に死んでほしかった。嘘だけれど、これが一番ほんとうのことだ。誰かの救いになるのなら、自分をまずは救ってあげなければ、と思うのにできないことを、とどこからか自分の声がする。救われないまま嘆きつづけたら誰かに届くかもしれないなんて願って、願って、そのままころしてしまいたかった。死に目を一番にみるのは私がいい。孤独なまま、ずっとひとりのまま。高くない家賃を払って生を伸ばしてうたうより、かなしくて家から出られないようにして、誰にも届かないままころしてしまいたかった。

一番に望んだのはそんなことだったのか、今となってはなにもわからないけれど、しあわせになってほしいと思ったことは一度もない。それだけは覚えている。それだけが確かだ。



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