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幸せになりたいなんて、そんな贅沢が許されると思ってるの?

 横になったまま泣くことが多いから、あふれた涙が頬を伝って耳に入る。そのまま涙が耳を蓋して、なにもきこえなくなってしまえばいいのに。包丁を使い慣れていないから、猫の手も未だにできない。扱いが雑すぎるから、包丁の逆鱗に触れて指を落っことしてしまえばいいのに。些細なことで坂道をころげおちる心臓なんて、崖の底で誰にも見つからずに腐ってしまえばいいのに。
 わたしの部屋はもうあの四畳半じゃない。牢獄みたいな場所で規則正しい生活すらできなくて、なんでもあるのにそれを得るにはまず体を立たせる必要があった。小さな森の隣で腐ってた、わたしの心臓。そこは誰も見つけることができない崖の下なんかじゃなかった。

 ノストラダムスの大予言とか、まあノストラダムスじゃなくて誰でもいいんだけど、大予言じゃなくてもいいんだけど、適当に儲かってるのかわからない、微動だにしないから生きてるかもわからない道端の占い師の言葉でもいいから、世界滅亡を信じたかった。みんなに信じさせたかった。世界は滅亡するということを。わたしはノストラダムスでも道端の死にかけ占い師でもないので、わたしがいくら世界は滅亡するといっても誰も信じてくれない。ていうか、その前にわたしも世界が滅亡するかどうか知らないから、誰かわたしに世界が滅亡することを教えてほしかった。そうしたら、ノストラダムスじゃなくても、死にかけ占い師じゃなくても、同じクラスの隣の席の鈴幸くんの言葉だったとしても、わたしは世界滅亡を信じるのに。世界が滅亡することに安心して、ありがとうって言えるのに。
四畳半から半ば強制的に引っ張り出されたわたしに、次の居場所をみつけるのはなかなか困難だった。あんなに息がしづらいところ、一刻も早くでたかったのに、一旦出てしまえばすぐに快適なふかくておおきい呼吸ができるわけではないことを知ってしまった。どこにいるかが問題ではなかった。

「息をするには、じぶんで肺に空気を取り入れたり吐き出したりしなきゃいけないの!でも地球の空気はまずい!まずいものは必要でも吸い込みたくないの!鈴幸くんだってそう思うよね?!」

 え、うん。そうやって、鈴幸くんはいった気がする。小さな声で。でもわたしにはちゃんと聞こえなかったから、もう一度問いかけようとしたのに、あの先生ってば、わたしをこんなくだらないことで教室から放り出す。あーあ、放り出すなら荷物も一緒に渡してほしかった。携帯も、財布だってひっかけられた鞄の中だし、わたしははやく鈴幸くんのこたえをちゃんと聞きたいのに。そこでいきなり尿意がわたしを呼び、トイレにいったり、手を洗うときに石鹸がなくて事務室までもらいにいってたりしたら、帰ってきた頃にはすっかりさっきいた教室はからっぽで、鈴幸くんも、先生も、ほかのひとも、みんないなくなってて、唯一わたしをまっててくれたのは置き去りにされたわたしの鞄だけだった。ただいま、ひとりにしてごめんね。

 帰り道、夕方の空はオレンジ色だと相場が決まっているのに今日はなぜかそうではなく、何色かはわからないけどなにか違和感があった。オレンジ色、そう、オレンジ色ではあった。たしかにオレンジ色だった。でもいつもと違う。いつもと違うけど、オレンジ色。眼球が膜にでも覆われているような、そんな、なんとなく薄気味悪いオレンジ色。もしかしてほんとうに眼球に膜が張ってるのかも。残念ながらいまだに5本きっちり揃ってしまっている指で眼球をつつく。痛い。痛いけど、この膜を破らなきゃ、オレンジ色の空が。わたしのオレンジ色の空が。

「なにしてるの」
「わたしの眼球に膜が張ってるの!これがあるせいでわたしのいつものオレンジ色の空が見えない!いつものあのオレンジ色の空がなければ、世界滅亡がなかったことにされちゃうのに!」
「え、うん」
「鈴幸くんもそう思うよね?!」

 最後の問いには、なぜか鈴幸くんはこたえてくれなかった。後ろから歩いてきた鈴幸くんが、わたしの隣に立って、顔を近づけてくる。目を見てる。わたしの膜の張った目を。

「っ、い……った!」

 眼球にひどい激痛が走ったかと思うと、思わず瞑った目を開くとそこにはいつものオレンジ色があった。いつもの、破壊を表すような、あかるくてあついオレンジ色が。はっと鈴幸くんの方を見ると、彼はねむそうに欠伸をしていて、口に手を当てているのにその開いた口の大きさがわかるほどだった。

「そんなに世界滅亡ばっかり望まなくてもいいのに」

 大きく開いた口の割に小さな声で鈴幸くんはそう言った。ほらね、やっぱり。鈴幸くん。だからわたしは鈴幸くんにいつも質問をするの。わたしはいっかいだって、世界が滅亡することを教えてほしいなんて、言ったことがないのに!
 あの頃の世界にノストラダムスがいたように、どこの街にいっても同じ格好の死にかけ占い師がいるように、わたしの世界には鈴幸くんがいるのよ。世界滅亡を教えてくれる、鈴幸くんがいるのよ。だから早く言って。早くわたしに教えてよ。世界が滅亡することを!

 快適な世界だから世界滅亡を望んだ。
 生きやすい世界だから世界滅亡を望んだ。
 まわりに素敵なひとがたくさんいるから世界滅亡を望んだ。
 暴力も振るわない優しい家族がいるから世界滅亡を望んだ。
 適当な手続きでやりたいことをやれてきたから世界滅亡を望んだ。
 世界が滅亡したら、わたしははじめて幸せになれるのよ。

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