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敢えて見逃したその余白に組み込んだ時間と、その遺体

どうしようもなくなって、愛しい彼女の優しさを見殺しにした。大きな声は周りを白く縁取られて、そのまま遠くまでとんでいった。彼女は悲しいふりをして、それでその場所を離れようとはしなかった。きっと無駄に死にゆくものを、またつくったところで、誰も癒されないのだ。僕はそんなものに癒されないし、縋らない。もう、なにが意地なのかわからなくなっていた。

コンクリートの床の所々に金属がはまっている。点々と凹凸が足の裏を刺激し、それが東京を思い出させた。靴越しにぐっと力を入れると東京に似た金属が嬌声をあげ、見事に悦んでいるのをふつふつとした憎しみでわらってみせた。悲しい。悲しいという顔をした彼女のことは記憶から消し、あの日見殺しにした優しさはもう既に焼かれている頃だろう。白々しい朝の色に混ざる命の色が綺麗。只それが綺麗すぎて、目が眩んだ。こんなものを見るために僕は生き延びたわけではない。気管支に入ってくる人だったものを喉の奥で味わって、その後高貴で淫らな金属に唾を吐いた。毒々しい。体の中に入れておけば、それは薬にも卵にもなるはずなのに、体内から吐き出したそれは毒でしかない。きっとそういうことなのだ。表裏一体というよりかは、表も裏もなくそれこそが事実なのだ。それこそが現実と言う名の悪夢なのだ。ひっくり返す必要などなく、そのままこの冷たい朝に混じった命を見逃さなければならない。そうすれば、きっと彼女も喜ぶ。決して彼女のためではなく、言い逃れもない程に僕は僕のためにしか生きられない。左様なら、会いたくなかった彼女。命だったはずの、遺体となってしまった彼女の優しさ。愛していたものは未だに手の中にあって、それは形を成してはいないけれど、確かにそこにあるのだ。感情を受け取る脳味噌のなにもない余白に、優しさは似合わない。時間とすこしばかりの硬貨を投げ込むと、粘度の高いぼちゃんという汚れた音と共に底に沈んで見えなくなった。

後日談としてこんな話がある。血液のくすんだ色と乳白色の混じった波の中で溺れている。泳げたのなんてとうの昔の話だ。精子に呑み込まれた彼女がわらっているような気がしたが、それは僕の気のせいで、彼女はもういない。居なくなったことを、消えたことを、今既に忘れていっていることを、悲しいとは思わない。僕は彼女を愛していたことなんて一度もない。愛しいのは可哀想だったからだ。可哀想だったのは僕か彼女、今となっては知る由もない。かといって、なんの感情もなかったわけではない。今も昔も彼女の優しさを見殺しにしては彼女はその度わらっていた。悲しいふりなんて、僕が一番わかっていた。僕だって悲しいふりをしていた。いつも、いつも、悲しいふりをして僕ではない誰かのことも悲しませていた。溺れる前に、見ていた夢がある。彼女とはちがう、べつのおんなのこを愛していた。愛していたのだ。愛している、ということは難しいが、僕にはそのおんなのこしかいなかった。だからなげうった。僕が持っているすべて。きっとそのおんなのこは死ぬだろう。僕だって死ぬのだ。彼女がいなくなったように。

愛している僕をなげうってそのおんなのこを生かそうとした。きっとおんなのこはこれから先も生きるだろうが、僕にはそれを知る権利がない。

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