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谷底の明朝体(↔崖の上のポニョ)

慣用句的に用いられる「深い」という言葉が嫌いだ

具体例を示すと、かの有名テレビ番組「深イイ話」の「深い」の部分や、「闇が深い」というように使われる「深い」が嫌いだ

このような「深い」は、物事の本質が"観測できない範囲にある"という意味で使われているのだと思う
深い谷底や沼の底に本質があり、それを具体的に把握することはできない、しかしそれが自分には観測できない奥底にあるということだけはわかる、その状態を人々は「深い」と表現するのだろう

つまり、それはニアリイコール「ようわからん」になるのだが、「深い」という言葉を使うとその物事の本質を理解はしてやれないことを示しながらもどこかその本質を尊重してやっている感じが出る、だからこそここまで広まった言葉なのだろう

しかし「深い」という感想は要約すれば「なにもわかりませんでした」というだけのことなのになぜかちゃんとした感想として成り立つ感じがある
わたしはそれが気に食わない

それに、「深い」には突き放すような冷たさを感じる

わたしの考えを話したとき「深いね」と言われて、わたしはどうしたらいいのかわからない

わたしが「深いね」と言われたくて考えを打ち明けたとでも思っているのだろうか、もしそんな誤解をされていたならわたしは君に心底がっかりする

わたしが人になにかを打ち明ける理由は「わかってほしいから」以外になにもない

その結果返ってきた感想が「なにもわかりませんでした」であるさみしさを君は想像したのだろうか

理解を放棄して、わたしの心を深い谷底に取り残してしまう「深い」という言葉が嫌いだ


ところで、わたしは久々に小説を読んだ

いや、さして久々ではないかもしれないが、このところエッセイを読むことが多かったので「小説を読む」という行為を新鮮に感じながら、した

わたしのnoteは気分によって敬体や常体、口語文語が入り乱れたものとなっており、文体は一貫しないが、この記事を読みながらなにかほかの記事と違うものを感じた読者がいたらあなたは鋭い

わたしは幼い頃から、小説やドラマ、映画、アニメの口調が移りやすい人間だった

口調だけでなく仕草など、意識せずとも移りやすく、それもなぜか生身の人間のものはあまり移らず何かしらのメディアを媒介したものばかりが移ってしまうという体質だった

小中学生の頃のわたしはほんとうに小説ばかり読んでいた、特に推理小説が好きだった

だから普段の喋り口調もどこか回りくどく偏屈な感じだったのだろう、友達はいなかった

中学3年の頃人知れずアニメにハマり、アニメや漫画、それから芸人のラジオを聴くようになって、高校からわたしは人とのコミュニケーションが得意になっていった

アニメや漫画を見ていると、心の声が少なくなる、キャラクターは思ったことの殆どを台詞にして伝えるし、声に出さなくとも表情で感情を表現する

一方で小説は、台詞ももちろんあるが、基本的にはまっさらな少しザラついた紙に、明朝体でモノローグが綴られていくのみである
モノローグが外部に語られることはなく、ただただ、頭の中のタイプライターによって文字が並んでいく

どうりで小説ばかり読んでいると内向的な性格になる訳である

しかしわたしは、小説を読むことが好きだ
小説を読みながらそのことをゆっくり思い出した
わたしは小説が好きだ

小説を読んだあとの自分のことも好きだ

小説に対する感想やその他のあれこれが心の内に明朝体で綴られていくこの感覚も、それを書き出す自分のことも丸ごと好きなのだ

今日は小説を読みきった直後にこの記事を書いている

だからこの記事はわたしの中で明朝体で綴られている
端末ではゴシック体で表示されているのかもしれないが、わたしは今日の記事を明朝体で綴った
だからこれを読んでいる読者にもぜひ明朝体で読んでほしい


明朝体で綴られる言葉は本来人前に出るものではない

しかしこの言葉を、わたしの好きなわたしを深い谷底に置き去りにしてしまうのは苦しい気がして、きょうは外の空気を吸わせに来た

わたしはもうじき深い谷へ帰る

でも、この谷のそばを通ったときどうかあなたは、深さについて言及せずに、谷底に綴られた明朝体によく目を凝らしてみてほしい

明朝体はいつでも君を歓迎します

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