プロコフィエフ・ピアノチクルスvol.5

[2015年9/27竹風堂大門ホール]

vol.5
みなさんようこそおいでくださいました。
今年のテーマは20世紀ソ連を代表する作曲家でありピアニストでもあるセルゲイ•プロコフィエフです。今日はその5回目になります。今日のピアノは高橋早紀子ちゃんです。プロコフィエフの9つのピアノソナタを順番に聴いてきましたが、終盤に入ってきました。今日は第7番と8番ですね。もの凄いプログラムです。今日聴いていただく2曲のソナタは前回聴いて頂いたの6番のソナタと3曲セットで「戦争ソナタ」と総称されてます。第二次大戦中に作曲されていて戦争と切り離せないので、こんな風に呼ばれています。

音楽院卒業後、第一次世界大戦やロシア革命が起こってしまって音楽どころではなくなってしまったプロコフィエフは亡命生活になります。日本経由でアメリカに渡り、その後はパリに住むようになりました。アメリカでもパリでもほんとにもう必死にがんばるんですがこれがぜんぜんうまくいかない。それで1930年代半ばにソ連に帰ってきたとゆーわけです。ソ連共産党としては国威発揚のために天才的音楽家が喉から手が出るほど欲しい。そのためにプロコフィエフ一家を巧妙に罠にかけるようにして(大歓迎責めにしたりして...)、完全帰国に持ち込んじゃった。このへんのプロコフィエフの政治的嗅覚はめっちゃ鈍いです。1930年代のソ連はスターリンの時代になってとんでもないことになってました。プロコフィエフはとんでもない状況の中に帰ってきてしまったわけです。私生活の自由はない、創作の自由もないし、言論の自由もない。24時間スターリンの目が光っています。

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それでスターリンの逆鱗にふれると、即、粛清です。殺されてしまう。そしてすぐ第二次大戦が始まります。本当にどうしようもないときに帰ってきちゃった。ものすごいタイミングの悪さでした。

ピアノソナタ第7番変ロ長調Op.83

前半に聴いて頂くピアノソナタ第7番は1939年から42年の作品ですね。この時期大戦はどうなっていたかといいますと、1939年が開戦。日本でいいますとノモンハン事件のときですね。1941年が真珠湾攻撃。ヨーロッパはナチスドイツがむちゃくちゃやってた時期です。ナチスのユダヤ人迫害もすごいことになってました。1940年くらいにはアウシュヴィッツの収容所が開所してます。1942年のあたりはすでにソ連国内にもドイツ軍が侵入して戦闘状態になっていてめちゃくちゃでした。プロコフィエフもモスクワの空襲を体験してます。空襲どころではなく激しい市街戦も行われるようになります。スターリングラードの市街戦なんかは有名ですね。

そんな中でプロコフィエフはこれから聴いていただくソナタ7番などの作曲を続けていました。そんな危険な状態なのでプロコフィエフは党から疎開を命じられました。南部の田舎ナルチクってところに移ったんですが、ここも危なくなったので、今度はグルジア(ジョージア)に移ります。大戦の開戦当初のソ連はナチスに攻め込まれてかなり劣勢でした。スターリンが軍人や国家公務員をあまりに粛清しすぎて、酷い人材不足になってしまっていたのですね。優秀な軍の幹部もみーんな殺しちゃってすっかり軍が弱体化したところで大戦が佳境に達してしまった。第二次大戦中盤くらいまではもうドイツに押されまくって、ソ連はどうにもならない状態でした。プロコフィエフも大事な友人を射殺されたり、疎開先で金も食べ物もなく、電力も慢性的に不足してものすごく苦労しました。そーゆーひどい状態でしたが、創作意欲だけは異常に高揚していました。1日も休まずひたすら作曲を続けました。

オペラ「戦争と平和」バレエ「シンデレラ」映画「イワン雷帝」といった大きなプロジェクトと同時にこれまた傑作として名高い2曲のヴァイオリンソナタや交響曲第5番、そして戦争ソナタなんかをこの状況で書いてたわけです。すごいです。戦争でひどい状態でしたが、そのギリギリの極限状態が作曲家の創作意欲に却って火を点けたのかもしれませんね。

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戦争はプロコフィエフの内面にいろんな意味で深い爪痕を残しました。何千万もの人々の死。猛烈な空襲や敵軍がひたひたと迫ってくる恐怖。悲惨な生活。3つの戦争ソナタの中でもこれから聴いていただく7番が戦争の凶暴性や野蛮さ、戦争に対する怒りというものがいちばんむき出しの状態で表現されています。異常な曲です。

第1楽章はプロコフィエフには珍しく、ほぼ完全な無調で書かれてます。


特に第3楽章はアンコールピースとしてもよく演奏されます。8分の7拍子の代表選手のような楽章。メカニカルで容赦ない暴力性が凄まじいです。



ピアノソナタ第8番変ロ長調Op.84

後半はソナタ8番です。1944年に完成した作品です。

ご存知の通り1945年に大戦は終わりますので、大戦末期の作品ってことになりますね。ノルマンディー上陸作戦の年です。

太平洋戦争の方は我が日本軍は盛大に惨敗を繰り返してもう末期的状況だった頃。

プロコフィエフの居たソ連は、前半でお話した通り当初は人材不足もあってナチスドイツにひたすらやられっぱなしでした。そんな状況でもスターリンはけっこう余裕で

「大丈夫じゃ!冬が来れば大丈夫!ロシアの冬をなめんなよ!」

とか言ってたわけです。

実際、西ヨーロッパでは向かうところ敵なしだったナポレオンも1812年にロシアの冬には負けましたからね。だから、スターリンはナチスもロシアの冬には勝てないと信じていたわけです。ドイツはソ連との戦いは早く決着がつくと思っていたのであまり冬の準備をちゃんとしていなかった。ソ連軍が意外に辛抱強く戦ったので長引いて冬に入ってしまった。防寒体制の整ってなかったドイツは、防寒装備完璧で寒さ慣れしているソ連軍にどんどん巻き返されていくわけです(なぜドイツは1812年に学ばなかったのでしょう)。1943年の有名なスターリングラードの市街戦ではついにドイツを徹底的にやっつけてしまう。このあたりからドイツはダメダメな感じに向かっていって1945年に大戦は終わるわけです。

戦争はプロコフィエフの人格の深い部分まで強い影響を与えました。

戦争前の彼は非常にシニカルで、クールで、時として意地悪でわがままで横柄でした。

しかし、ソ連に完全帰国して、苦労して苦労して、私生活でも離婚を経験した。それから悲惨な戦争も始まる。

そうすると、戦争が終わる頃には、プロコフィエフは気取らない温和で思慮深く柔らかい物腰の愛想のよい男に変貌していました。

そして、性格の変化と同様に作風も変化していきました。ソ連の人々と一緒に戦争の苦労を分かち合ってきたプロコフィエフの音楽はどんどん一般の人々と距離が近くなっていったわけです。彼の音楽にはロシアへの愛情が素直にほとばしるようになり、前衛的な不協和音や攻撃的な複雑なリズムなど、彼の音楽の特徴でもあった刺激的でシニカルでクールで難解な側面は後退していきました。

彼自身の性格の変化と同じように、どんな人にも心地よく聴ける音楽に変化していったのです。これから聴いていただくソナタ8番にはそういった変化がダイレクトに表れています。この曲を初演したリヒテルはこの曲を

「豊かなソナタ」

と評しています。

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