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若きベートーヴェン・チクルス番外編・ベルリンの王宮にて

2024/04/20
長野市竹風堂大門ホール
チェロ:和田ゆずみ
ピアノ:山田えり子




今日は番外なので、ベートーヴェンのピアノ独奏曲はありません。チェロソナタ第1番を中心にデュポールのエチュードと、モーツァルトのデュポールの主題の変奏曲を聴きましょう。

今日はベートーヴェンがウィーンに来て4年目。
1796年のお話です。
ベートーヴェンにとって1796年は思い出深い年でした。
彼は2月にパトロンのリヒノウスキー侯爵と一緒にプラハからベルリンに旅をしました(プラハ〜ドレスデン〜ライプツィヒ〜ベルリン)。ほとんど半年に及ぶ大旅行でした。この旅行はこの7年前の1789年、モーツァルトが同じくリヒノウスキー侯爵と旅した「ベルリン旅行」の行程とほぼ一緒です。ベートーヴェンもまたリヒノウスキー侯爵と一緒に旅しました。

なぜモーツァルトもベートーヴェンもベルリンかとゆーと、当時のプロイセンはものすごい軍事大国になって力があって、同時に文化芸術的にも非常にレベルが高くなっていたからなんです。
モーツァルトのベルリン旅行の場合は、モーツァルトは当時既にすっかり落ち目の状態でした。経済的苦境から脱するための旅行だったのです(明らかに求職旅行)
これに対して、ベートーヴェンは人生これからとゆー若き天才音楽家です。
雰囲気が全然違います。

モーツァルトのベルリン旅行は期待したような成果も上がらず旅行中にまた借金を重ねたりして全体として暗〜い感じの印象だ。
王様から注文を受けた弦楽四重奏やソナタも結局全部書けなかったりして 、後味もいまひとつよくない。
ベートーヴェンは、幼少期から旅ばかりだったモーツァルトと違って、旅行とは無縁だったから、
旅そのものが無条件に楽しかったはずだ。見聞も広められたし、観光も楽しめただろうし、音楽的にも実りが多い旅だったといえる。

ベートーヴェンはプラハから弟に宛てて以下のように書き送っている。「私はとても元気だ。自分の芸術のおかげで多くの友人に恵まれ、尊敬もされている。この上に望むものなどないが、今回は多くの収入も得られそうだ。」(1796年2月19日/ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン)

このうれしそうな文面!

まずベートーヴェンはプラハに2ヶ月滞在し、モーツァルトと親交の深かったヨゼファ・ドゥシーク夫人(作曲家フランツ・クサーヴァー・ドゥシークの妻、声楽家)をはじめとする音楽愛好家の貴族たちと過ごした。このドゥシークはソナチネで有名なヤン・ラディスラフ・ドゥシークとは別人なので要注意。

ベートーヴェンはその後ドレスデン、ライプツィヒを経て最大の目的地ベルリンに到着します。ベートーヴェンは国王フリードリヒ・ウィルヘルム二世に数度にわたって宮廷に招待され、御前で演奏を披露しました。モーツァルトと違ってあっさりお目通りが叶った訳です。今日は後半にそこで演奏されたチェロソナタを聴いていただきます

ベルリンの王宮 (1892)


2013年に再建されたベルリンの王宮
(現・フンボルトフォーラム)


ベルリンのフリードリヒ・ウィルヘルム二世はバッハ、ヘンデル、モーツァルトの音楽を愛し、趣味でチェロを弾いていました。室内楽の演奏を楽しみ、なかなかの腕前だったそうです。

彼もまた当時の君主たちの多くがそうだったように、「啓蒙君主」でした。だから芸術・文化にもめっちゃ力を入れた。フリードリヒ・ヴィルヘルムは。ベルリンの器楽とオペラを国際基準にまでレベルアップして、さらには追い越そうと努力を重ねていた。ハイドンの弦楽四重奏曲「プロシャ王セット」、モーツァルトの3つの弦楽四重奏曲「KV575, KV589, KV 590」はフリードリヒ・ヴィルヘルムに献呈されている。
彼は愛人を多く持つ享楽家で、市民からは「デブの女たらし」などと陰口を叩かれていた。

フリードリヒ・ウィルヘルム2世

愛人たちに影響されて、フリードリヒ・ウィルヘルムは華やかで贅沢な生活を送った。まあ、遊び人だったわけだ。女嫌いの先王・フリードリヒとは正反対の快楽主義者!先王の女嫌いの分までとんでもない女好きだった。

先代の国王フリードリヒ二世(フリードリヒ大王)もまたフルートが上手な王様でした。大王は芸術文化や啓蒙思想にも理解はあったけれどフリードリヒウィルヘルム2世に比べるとそれでもだいぶ質素な王様です。彼は筋金入りのミソジニストで、難しい面もありましたが、軍事や政治の面では凄い人物でした。
彼はプロイセンを近代的な軍事大国に育て上げ、オーストリアやフランスを脅かす存在にした凄い人だった。ヨーロッパでも屈指の名将軍。フリードリヒ大王をオーストリアのヨーゼフ2世は崇拝するようになっていた。ロシアのピョートルもまたフリードリヒ大王の賛美者だった。マリア・テレジアとロシアのエリザベータは、彼女たちに対して酷い女性蔑視の態度を隠そうとしないフリードリヒを蛇蝎の如く嫌い、憎んだ。マリアテレジアとエリザベータはこの一点だけでも理解し合うことができただろう。
それなのに自分の息子や甥があのウルトラミソジニスト・フリードリヒを崇拝しているなどというのだ….、彼女たちの心境は察してあまりある。

それにしても、音楽を愛する啓蒙君主だった大王が同時に酷いミソジニストだったとゆーところがおれにはうまく理解できない。人間性の尊重を旨とする啓蒙思想を信奉する人物がどうして同時にミソジニストになり得るのだろう….王が同性愛者だったとしてもそれは関係ないと思うし、
ようわからん。
何かトラウマとかあるのかなぁ。

大王は文武両道の人で、フルートをクヴァンツに師事し、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハも召し抱えて、エマヌエルの伴奏でフルート演奏を楽しんだ。何という贅沢!フランツ・ベンダグラウンも宮廷で働いていた。超豪華メンバー!

尊敬するエマヌエルが長く過ごしたベルリンの宮廷で演奏することに、ベートーヴェンは興奮し、深い感慨を抱いたことだろう。

フリードリヒ2世

音楽好きな王様が続いた宮廷だから、ベルリン宮廷の音楽の水準はもちろんめちゃくちゃ高いのです。

デュポール:21の練習曲集から


音楽好きのウィルヘルム二世はフランスの名チェリストのデュポール兄弟(兄のジャン=ピエール・デュポール、弟のジャン=ルイ・デュポール)を召し抱えて彼らのレッスンも受けていました。

ジャン=ピエール・デュポール
ジャン=ルイ・デュポール

弟のジャン=ルイ(1749-1819)はパリで活動していましたが、フランス革命を逃れて1790年にベルリンにやってきたんです。パリは革命の混乱で最悪な状態でしたからね。兄のジャン=ピエール(1741-1818)を頼ってきたんでしょう。ベルリンの宮廷はジャン=ルイのことも雇ってくれました。デュポール兄弟を擁したベルリンの宮廷はチェロ音楽のメッカのようになっていました。ではまずデュポールの21の練習曲(1806年出版)から3曲を聴いて頂きます。これは今でも現役で使われている練習曲です。これを少し聴いてみましょう。練習曲ってのは音楽的に無味乾燥なものが多いですが、デュポールの練習曲は音楽的にも特別に優れていて、コンサートでも取り上げられることがあります。ヴァイオリンのクロイツェルとかカイザーみたいな定番の練習曲ではこーゆーことはまずありません。デュポールはすごく特別なんです。ヴァイオリン業界から見たら、デュポールのエチュードは実に羨ましい存在です。
これから聴いていただく3つのエチュード(7, 8, 11)は中でも特に有名なナンバーです。これを聴くとデュポールがいかに名人だったかよくわかると思います。そして18世紀末のチェロ奏法がどんなものだったかもよくわかります。
実はこのエチュードはデュポールの著作「運指・運弓に関する試論とエチュード」の後半部分。前半部分は音楽ではなくデュポールがチェロ奏法について書いた論文。後半が21のエチュード(実践編)。の二部構成になってます。
これがついにオリジナルの形で日本語に翻訳されて出版されたんです。素晴らしい!
日本のチェロ関係の皆さんは必読だろう。
デュポールはこの 「試論とエチュード」で特に運指(フィンガリング)について詳細に論じている。デュポールは当時まだ確立されていなかったチェロのフィンガリングを整理して、ひとつの決定的なマニュアルを示したのだ。当時のチェリストたちはそれぞれ独自の運指で演奏していた(チェリストの数だけマニュアルがあったと言える)。デュポールは言う。「 左手の運指は完全に機械的な動きでもあるため、マニュアルは1つであるべき、つまり誰もが同じ運指モデルで弾けるに違いない、と私は思うのです」「 規則的なフィンガリングができないのであれば、チェロは並以下の取るに足りない楽器であり、現在多くの楽器の中でチェロが占めている地位もあるはずがありません。」
チェロは 楽器が大きいためにバイオリンやビオラのようなシンプルな指の使い方では弾けないので、運指がちょっと面倒で複雑になっているのだ。

デュポールは序文で以下のように述べている。
「 書いてすぐに時代遅れになるような、初歩に軽く触れ、レベル順に種々の調の曲を書き連ねる、いわゆる『教則本』を作る事は考えていません…..
私は、様々な点で異なる意見をお持ちの先生方にもご賛同いただけるように隅々までご理解いただけるように運指について書き、十分に説得力のあるやり方、マニュアルを示し、確信を持って運指方を提案したいと思います。」
当初、デュポールは運指に限って論ずるつもりだったようだが、結局最終章として運弓・ボウイングについても論じた。左手については「完全に機械的」だと述べたデュポールは、ボウイングについては「感覚」「感性」だと言う。ただし、そのためには「弓をしなやかに持ち」「手をこわばらせてはいけない」と指摘する👏

個人的には以下のデュポール先生のお言葉を
自分が教えてる団体の皆様にも改めてお伝えしたいと思う。
「 右手(で作り出す表現)は、すべて人差し指の側で発揮されると思われていますが、小指が全体の力のバランスをコントロールしながら、弓の重さを自在に軽くして演奏することができます。」
小指に力が入ってると、コントロールできない(小指に力が入ってピーンと伸びちゃってる人、いますよね)….まあ、流派によって細かな違いはあろうが、余分な力はできるだけ抜くのがいいってところは共通してる。


では今日のチェリスト、和田ゆずみさんです。
お願いします!

デュポールのメヌエットによる9つの変奏曲 ニ長調 KV573


1789年にベルリンを訪れたモーツァルトは
ジャン=ルイのチェロソナタOp4-6のメヌエットのメロディを使って、当時の宮廷の楽長ジャン=ピエール[兄]の前で即興演奏をしてみせてました。まず彼の関心を惹いて王との謁見を実現しようとしたんです。デュポールはもしかすると、モーツァルトの才能を恐れて自分の地位を守ろうとして王様にわざと取り次がなかったのではないかとかいろいろ言われてますが、実際のところは、よくわかりません。王様はモーツァルトの音楽が好きだったので、普通に話を通してもらえれば、お目通りは叶ったと思うんだけどなあ…とにかくこれはうまくいかず、王様へのお目通りはかないませんでした。1789年といえばフランス革命勃発の年。王様はちょっとそれどころではなかったのかもしれませんね。
モーツァルトはこの即興をもとにして後にデュポールのメヌエットによる変奏曲 KV573を書き上げました。
では、モーツァルトのデュポール変奏曲の前に、ジャン=ルイ・デュポールのチェロ・ソナタOp4-6のメヌエットを聴いておきましょう。テーマですね。弟・デュポールのチェロソナタは本来は2台のチェロ(チェロと通奏低音)のために書かれています。原曲のメヌエットも変奏曲になっていて、テーマの後にものすごく技巧的な変奏が続きます。
今日はメヌエットのテーマの部分だけ、ピアノ伴奏付きで聴いてみましょう(ちょっとモーツァルトのフィガロの結婚のスザンナの4幕のアリアに似た旋律です)。テーマを聴いていただいてから引き続きモーツァルトのデュポール変奏曲を聴いてみようと思います

モーツァルトのデュポール変奏曲はロココな軽い感覚で書かれてますが、
やっぱりさすがモーツァルトの晩年!
とゆー感じの音楽になってます。
音楽は特に哀しく書かれていないのに、
いつもどこかに透明な孤独感が漂っています。
モーツァルトの晩年独特の世界です。
微笑みと涙の混在。

minore短調の第6変奏(👆の動画の7m15sあたり)にはハッとさせられる。
孤独の深淵を覗き込むような….。
ここの部分はモーツァルトにとって特別な調の「ニ短調」で書かれている。

では、まずデュポールのメヌエットのテーマ、
それからモーツァルトのデュポール変奏曲です。
お願いします。

ここでベートーヴェンの短い歌曲を聴いてみましょう。
"Ich liebe dich"WoO123  君を愛す です。
今日お話ししているのと同時期、1795年の作品です。ベートーヴェンにとって歌曲は非常に重要なジャンルです。90曲以上の作品が残っています。これから聴く「君を愛す」はベートーヴェンの歌曲の中でも最もポピュラーなもののひとつです。非常に美しい作品です。1796年にはこれまたポピュラーな「アデライーデ」を書いてます。ベートーヴェンのおじいちゃんもお父さんもプロの歌手でしたから、すごく歌の家系なんです。そうした彼のDNAがこの時期一斉に花開いた感があります。彼は更に声楽曲の作曲を学ぶべく、サリエリに弟子入りしました。


休憩

後半はジャン・ルイ・デュポールのために書かれたベートーヴェンのチェロソナタを聴きましょう。
モーツァルトは王様の前で演奏できませんでしたが、ベートーヴェンはすぐ御前演奏ができました。ベートーヴェンはベルリンで2曲のチェロソナタОp5を書き、ジャン・ルイ・デュポールと一緒に御前演奏を行いました。後半はそのうちの第1番の方を聴いてみようとゆーことなんです(2番は次回聴いていただきます)。前半のモーツァルトの変奏曲から10年後の音楽です。これはまず、ベートーヴェンにとって初のチェロソナタであり、しかも初の本格的二重奏ソナタでした。これは同時に音楽史上初の本格的チェロソナタでもありました。これまでのチェロソナタはいわゆる通奏低音付きのバロック的なソナタで、いわゆる二重奏のソナタはなかったんです。デュポールボッケリーニクラフトといった当時の名チェリストが書いたソナタもみな通奏低音付きのソナタだった。だからこういったソナタはチェロ二台のデュオとゆー格好でも成立してしまうのだ(通奏低音の右手はそもそも書かれていない)。有名なヴィヴァルディのソナタも同様で、実はチェロ二本でも音楽は十分成立する。

でもベートーヴェンは全然違うものを作った。チェロの世界に全く新しい世界を切り開いたんです。

ベルリンのスタイルで


ベルリンでこの二つのソナタを書いたベートーヴェンはチェロパートについておそらくデュポールに相談して、彼の意見も取り入れたと考えられます。ベートーヴェンはボンの宮廷楽団でも既に名手・ロンベルクと交流があったので、デュポールのすごい技術を見ても、そんなに戸惑ったりしなかったのではないかと思いますね。(ロンベルクについてはこちらにも書いているので参照されたい
デュポールの練習曲集で扱われている技術は、このソナタに十全に活かされています。技術的にかなり高度です。そして、チェロを巧妙に生かし、たてながらも、ベートーヴェンのピアノの腕前もアピールできるように書いてます。時にピアノはチェロ以上の活躍すら見せます。
ソナタ第1番は2楽章形式で書かれているが、ファンタジー風なアダージョソステヌートの序奏部分を独立した楽章として考えると3楽章の曲のようにも捉えられる。この構成はこの時期のベルリンでずっと親しまれてきた形なんです(ちょっと古風と言えるかもしれません)。ベートーヴェンはベルリンの趣味に合わせたんでしょうね。2番のソナタも似たような格好で書かれてます。でも性格は非常に対照的です。ベートーヴェン運命と田園のように、全く性質の異なる作品を同じフォルムで書くことがけっこう多くて、これも全くその通りなんです。1番のチェロソナタが明るく、外に向かって開いていくような感じなのに対して、2番のソナタは非常に内省的に書かれてます。この対照的な感覚もぜひ味わっていただきたいので、ぜひとも次回聴いていただきたいと思います。

エマヌエル・バッハ
ベートーヴェンは少年時代に師匠ネーフェからエマヌエル・バッハのヴュルテンベルクソナタ集などを叩き込まれてきた人なのでこーゆースタイルで書くことに違和感はなかっただろう。彼はおそらくエマヌエル・バッハが長く過ごしたベルリンでエマヌエルのスタイルで作曲することに深い感慨があったんじゃないかなあと思う。
まずはエマヌエルのヴュルテンベルクソナタ第1番イ短調の第一楽章、や第3番ホ短調の第一楽章、を聴いてからチェロソナタ第1番の冒頭を聴いてみてほしい。
そして、ヴュルテンベルクソナタ集の他の速い楽章も
どうでしょう、エマヌエルのDNAが感じれませんか?
革命直前の1788年に書かれたエマヌエル・バッハの「クラヴィーアのための自由ファンタジー」Wq67を聴いてみて欲しい。エマヌエル最晩年の音楽。ベートーヴェン18歳頃の作品だ。もうこの作品の前では古典とかバロックとかゆースタイルの議論はほとんど意味がないだろう。
ただここには自由な精神があるだけ….
フランス革命の直前、最晩年のエマヌエルはもう既にベートーヴェンもびっくりなほど前衛的な領域に達していたのだ
とゆーこと。

👆はフルニエとグルダの演奏。ベートーヴェンのチェロソナタは名録音が多いが、なぜあえてこの録音を挙げるかとゆーと、フランス人チェリストとオーストリアのピアニストのコンビだからだ。
デュポールとベートーヴェンと同じ組み合わせなのだ。
そして、グルダもベートーヴェンと同じく即興の得意なピアニストでもあった。

ではチェロソナタ第1番を聴いてみましょう。
お願いします。非常に充実した作品です。

アンコール
メヌエット ト長調

終演

余談:ナポレオン1796


さて、1796年、ナポレオンは何をしていたか。
1793年のルイ16世のとマリーアントワネットの処刑は、ヨーロッパ諸国に強烈な危機感を抱かせた。
革命思想(王制打倒)の自国への波及を恐れた諸王国は対仏同盟を結んでフランス革命の思想から自国を守ろうとした(第一次対仏大同盟)。
当時のフランスはほとんどのヨーロッパの国を敵に回してしまっていた。
それに対抗すべく、26歳のナポレオンは司令官としてフランス軍を率いてアルプスを越えてイタリアに遠征した。当時のイタリアはオーストリアのものだったので、まずそこを攻めようということだったのだ(実質的な対オーストリア戦争)。
4月から破竹の快進撃を続けたナポレオンはオーストリア軍に勝ち続けて完膚なきまでに叩き潰し、1796年5月15日にはついにミラノに入城した。ものすごいスピード!ちょうどベートーヴェンがベルリンに滞在している頃のことだ。
イタリア人からしてみたら、ナポレオンは自分達をオーストリアの専制支配から解放してくれたという格好になるので、フランス軍を大歓迎した。
ナポレオンはイタリアで次のように宣言した
「フランスは専制政治を排し、諸国の民衆との友愛を尊重することを誓う。(中略) 所有権と個人を尊重し、宗教の自由を認める。これがフランス並びにイタリアにおける勝利軍の真意である(1996年5/19、ロンバルディア)」オーストリア=ハプスブルクの長年にわたる支配下にあって「統一」や「独立」からは遠い状況にあったイタリアの人々にとって、ナポレオンの登場は大きな希望であり刺激でもあった。
それでこんなこと高らかに宣言されちゃったら感動して泣いちゃうでしょ?
ナポレオンは装備も武器も充実し訓練の行き届いた約八万のオーストリア軍の半分以下の約三万五千の部隊でしかも装備も武器も訓練も行き届かない貧相な部隊を指揮して勝ちまくったのだ。そナポレオンの作戦が天才的だったのはもちろんあるが、フランス軍は脚力が強く行軍のスピードが異常に早かったのだ。だからあり得ない速度で進軍し、敵軍の背後や横から襲いかかった。敵はまだ到着するはずのないフランス軍がいきなり襲いかかってくるので驚愕した。敵が総崩れになって右往左往している間に別の戦場に向かってあっとゆー間に消えてしまう。まさに神出鬼没。この脚力があったからこそフランス軍は「電撃戦」が可能になったのだ。
そしておそらくベートーヴェンはこーゆーナポレオンが好きだっただろうし、尊敬の念も抱いていたことだろう。
そしてこれをきっかけに第二次対仏同盟が結成され、ヨーロッパはナポレオン戦争に一気に巻き込まれて行くことになる。

余談:フリードリヒ大王

フリードリヒウィルヘルム2世の前の王様、フリードリヒ大王は最高の音楽家たちを召し抱えていた。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハやフルートの名手クヴァンツ、カール・ハインリヒ・グラウン、ゲオルク・ベンダなど錚々たる顔ぶれだった。
宮廷では週に3回〜5回のコンサートが行われていた。
エマヌエル・バッハは宮廷で大王のフルートの伴奏に明け暮れ、そんな毎日に超うんざりしていた…^^;
クヴァンツは大王をヨイショしながらうまくやっていて、大王の覚えもめでたく高額な給金をもらっていた。エマヌエルはヨイショとかできない性格だった。当時としては超前衛な彼の作風も大王のお気に召さない。エマヌエルは薄給のまま半ば無視されたような状態が長く続いた….。エマヌエルはただひたすら耐えていた。

☝フルートを吹くフリードリヒ二世、
チェンバロはカール・フィリップ・エマヌエル・バッハ。右端がクヴァンツ。

大バッハの「音楽の捧げ物」BWV1079もまさにフリードリヒ大王のために書かれた作品だ。

音楽の捧げ物、大王が大バッハに与えた主題

フリードリヒ大王は作曲もした。
大王の書いたフルート協奏曲やフルートソナタは
今でもコンサートで取り上げられたりする。
特に「個性的」ってわけでもないが、なかなか素晴らしいのだ。音楽愛好家の作曲としては見事な出来であることは間違いない。こーゆー王様がいるのはいいなあ。
ものすごくしっかりした出来栄え。
フリードリヒ大王:フルートソナタ ロ短調

フリードリヒ大王:フルート協奏曲 ハ長調

フリードリヒ大王:シンフォニア ト長調


4/20 演奏者のトーク動画の合言葉

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